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マジで長い自己紹介

長い自己紹介まで書く理由

霊的な能力のある人間は、良くも悪くも「色眼鏡」で見られてしまいます。「すごい人」だと思われがちです。ただ、「霊能=霊格(人格)」ではありません。最近はときどき不祥事を起こすスポーツ選手が出ていますが、これは能力=人格ではない証拠です。古来、日本の武術や芸事はおろか、仕事は「己を磨く道」だったはずですが・・・単に能力や表面だけで判断してはいけません。

「じゃあお前はどうなのか?」と聞かれると、(ちょっと変わってはいますが)自分では「一応は平凡な人間」だと思っています。独立するまでは多少生きづらさを感じていましたが、いま振り返ると、大したことはありません。職業柄、ときどき深刻なご相談をお伺いしていると、「あぁ、自分の悩みなど、取るに足りないな」と思わざるを得ません。「もちろん万事順調ではないけれど、かといって波乱万丈でもない」と。

ただ、人がどう思うかというのは、また別の話です。「平凡」の定義も人それぞれ。そこで、ここからは「虚像」を自ら打ち壊すつもりで、長めにプロフィールを記すことにします。他のページと同様、できるだけ「虚飾」や「誇張」がないよう意識し、すべては書き切れませんが「心の弱さ」や「リアルな思い」も吐露しています。飾ったところで、いつか見透かされるでしょう。「天」はすべてお見通しなわけですから。

これを書くもう一つの理由は、「見えない世界の事柄」は、見えないからこそ、逆に体験として語れなければ、意味がないと考えているからです。ただし「特異な神秘体験」は、何も書いていません。そうではなく、「人生に無駄なものは、一切ない」「すべては、導かれている」という「誰にも与えれられている人生の真実」を、日常の体験とともに書いています。

「言葉だけ」「知識だけ」では本当に生きる力にはなりませんし、またそれだけの人間に他人の人生をのぞき見る資格などないでしょう。もちろん私は完璧な人間ではありませんが、未熟さ、怖れ、不安を抱えながらも、なんとか今まで歩んでこれた道のりを少し振り返りたいと思い、ここに記すことにしました。

ただ長いだけの自己紹介文は、「自己顕示欲」や「未完了の葛藤」の現れ、あるいはその裏返しとして「承認欲求の渇望」が渦巻いているのかもしれません。他人のものを読んでいると、そう感じることがあります。「私は波乱万丈の人生を乗り越えた」と自伝か何かで「感動的に」語っておきながら、少しも波動(オーラ)が輝いていない人物もいます。怖ろしいことです。人は自分の「苦労」にも、酔ってしまう弱さを持っている。だから、当然「お前もそれと同じことをするのか」という自問は、繰り返し起こります。

ただ、ここでは「体験として語る」という考え、また「他人の人生を観させていただく立場として、自分の歩みを少しも出さないのは筋が通らない」という考えに基づき、その一部を記します。もしかしたら、あなたは文章の一部に不快を感じるかもしれません。きっと好き嫌いが分かれることでしょう。ただ、それは仕方のないことだと思っています。良くも悪くも、私はできるだけ正直に生きてゆくしかないのですから。

「子ども時代」から「家出」まで

出身は兵庫県尼崎市ですが、現在は千葉・東京を中心に活動しています。

「子どもの頃から『霊』が見えたんですか?」とよく聞かれるのですが、そんなことは一度もなく、ごく普通に過ごしてきました。

ただ、青空を見上げては「なぜ自分は『ここ』にいるのだろう?そもそも『ここ』はどこだろう?」とふと思ったり、夜空を眺めては宇宙の大運行に心奪われたりと、不思議を感じる感性は、割とあった方ではないかと思います。

同時に「我が道を行く」「空気を読まない」性格から、子供の頃からかなり変わった人間でした。小学校低学年の頃の通知簿には「林くんは少し協調性が足りません」などと書かれていて、親が心配していました。子供の頃から、日本社会特有の同調圧力にはなじめなかったのでしょう。

小学生から中学生にかけては、食べることが好きで太っていたことと、周りに合わせない性格から、少しいじめられていた時期がありました。しかし、なぜか「俺をいじめる奴は、後で絶対不幸になるに違いない」という根拠のない思い込みがあり、それが少しでもその通りになると、「ほら、やっぱりな」と自分の正しさを確認していました。

さぞ付き合いにくいガキだったでしょうが、そのおかげであまり引きずることはありませんでした。いまこういう仕事をしているぐらいですから、子どもながら「因果応報」という人生の仕組みを、うっすらとでも知っていたのかもしれません。

中学3年生のとき、急に勉強がゲームみたく楽しくなってしまい、一気に成績が良くなり、その勢いで高校は大阪の進学校に合格しました。あまり経歴に恵まれなかった両親が「息子はいい大学へ!」と期待するのは、当然のことです。

しかし、入学当初からすでに大学受験を見据えたカリキュラムを前に、「そもそも何のために勉強すんねん?」「人は何のために生きるんやろう?」という問いに取り憑かれてしまったのです。それを解くのに全く役立たない受験勉強からは、早々にドロップアウトしてしまいました。

進学校ゆえ総じて高学歴である先生の大半は、先ほどの「何のために・・・」の問いに対し、ほとんど何の指針も与えてくれませんでした。それどころか「は?お前なに言うとんねん?アホちゃうか」ぐらいの反応でした。親もまた「考え過ぎや!」という意見なので、勉強を放棄した息子に対し、将来を期待し「勉強しろ!」と詰め寄るだけ。

鬱屈する思いは水泳部の部活動に打ち込むことで解放し、それ以外の時間は哲学、宗教、思想関係、あとは松下幸之助さんをはじめとする「偉大な経営者」の本を中心に読むことで、何とか答えを得ようとしていました。ただ、本を読んでも核心が掴めず、あるとき狂ったように本を捨てまくり、ゲームばかりしていた時期もあります。とても不安定でした。

水泳部の活動は充実していましたが、高校3年生の晩夏になれば、受験に専念するため強制的に引退です。鬱憤のはけ口がなくなり、そして受験時期が近づくことにより、精神的にかなり厳しい状況に追い込まれていきました。とはいえ自活していくだけの気概と経済力は、まだありません。

現状が嫌で仕方がないのに、他に何をしていいのかわからないので、結局は何となく「受験生のフリ」をするしかない。この時期はストレスでかなり体重が落ち、当時の担任の先生がとても心配されていたのを覚えています(この先生が後で述べる通り、交通事故後にお電話をくださった先生です)。

ほとんど勉強しないまま、適当に試験を受けるので、当然のごとく落ちます。どこの大学にも受かりませんでした。そのまま成績ギリギリで高校を卒業した後は、表面上は「大学浪人」ですが、実際は「フリーター」でした。高校はバイト禁止だったので、ここで初めてバイトすることができました。

最初は「肉体労働の現場」です。現場監督らしき人がとても怖そうだったのが新鮮でした。一応部活で体は鍛えていたので「大丈夫だろう」とは思いましたが、そもそも華奢な体格ゆえキツく、長くは続きませんでした。

次は家具屋の倉庫整理のバイトでしたが、ここは軽作業にしては時給が少し高めで、人間関係も穏やかな良い環境でした(その倉庫内でよくかかっていた倉木麻衣の『Secret of my heart』を聴くと、当時を思い出します)。この職場には出世競争に破れ親会社から左遷された人がいたり、当時のバブル崩壊の影響で一流銀行をリストラされた人がいたり、司法浪人でもう31歳の人がいたり・・・まだ18、19歳だった私は、その人たちと会話とその後ろ姿から、「人生の悲哀」をなんとなく感じていました。

また、同じバイトに、なぜか昔「暴走族のリーダー」だった当時20代半ばの人もいました。「俺は大企業◯◯や◯◯の社長と仲良くしてて、カネはめっちゃあるんやけど、ヒマやからバイトしとんねん」と。さすがは暴走族の元リーダー、「ワルの魅力」がとてもある人でした。この人から不思議と好かれてしまい、雑談で「簡単に人を殺す方法」とか「警察とケンカした話」とか「女性を『千人斬り』した話」とか「有名芸能人◯◯と一夜を過ごした話」とか、自分の役には立たなさそうだけど面白い話をたくさん聞かせてもらいました。まぁ寝技やプロレス技もたくさんかけられましたが。「あぁ、外に出てみると、いろんな世界があるんやな」ということが、とても新鮮に感じられたのです。

こんな調子でまあまあ楽しかったわけですが、家にいると、両親は相変わらず「お前、大学はどないすんねん!」と詰め寄る。「そんなん知らんわボケッ!」と突き返していると、だんだん当たりがキツくなってくる。父は家でも仕事をしていたので、よくぶつかっていました。

この現状を何とかしたいという思いと、そして多少はお金ができたということもあり、たまたま何かで「東京で働きながら生活を保証してもらえる」という「住み込みの新聞配達員の求人」を見て、そこに飛びついたのです。この時期、何度も「親を刺し殺す」「寝ている親の頭をカナヅチで叩き割る」という妄想を繰り返していて、「このままではヤバい・・・」と危機感を感じていたのです。最後は逃げるように家を出て、あてもなく上京しました。

文字通りの「浪人時代」

そもそも目的は何もない上京だったので、文字通りの「浪人時代」です。だから、そのうち自分を見失うことになります。当時の「社会」は配達所の約5名。東京の言葉とドライな空気感にあまりなじめず、表面上の付き合いのみでした。

かといって両親には強い反発心と、地元の友人には深い劣等感で、一切の連絡を取りませんでした。半ば「引きこもり」状態です。しかし「何とかせねば・・・」という不安と焦りだけがある。それが暴走した結果、過食症と円形脱毛症に陥りました。

一例として、朝の新聞配達が終わった頃、朝の仕込みで早くから開いているケーキ屋さんに行き、昨日売れ残ったケーキを安く10個ぐらい買って、一気に食べるのです。そうすると塩味が欲しくなるので、カップラーメンや揚げ物やスナック菓子をいくつか食べる。まだ余裕があれば、また甘いもの。そうすると、胃が苦しくなってしばらく動けなくなるか、あまりに苦しいと吐く。吐いて出した分は「また埋める」・・・この繰り返し。

その度に「人間以下の『豚』に成り下がってしまった」という悲しみと自分を責める気持ちが起こりましたが、なんとその思いを遠ざけるべく、また食べることに集中するのです。

たくさん食べてしまった罪悪感を、たくさん食べて解消しようとする。普通の精神状態では非合理的な行為ですが、おそらくこういったある種の「自傷行為」は、いわば「自己実現」の代わりになっていたのかもしれません。当時は「生きる目的」が見つかりませんでしたが、それでも本能としては「生きている実感」を欲している、たとえ自分を傷つけてでも。

肉体的な痛みを自分に与えることは、「生きていること」をリアルに感じる手っ取り早い方法であり、それが自分の場合は過食だったのかもしれません。もちろんこれは他人には誇れない方法ですが、当時はこれ以外に充実感を得る術がなかったのです(なお、過食症は実家に帰ってからはかなり落ち着き、大学生になるとほぼ完全に消えました)。

そうやって自暴自棄になっていたある日、「なんかやけに髪の毛が抜けとる・・・」と思って頭をいじっていたら・・・もう簡単に抜けるわ抜けるわ。「なんやこれは!」と最初は驚きましたが、「そうか・・・俺は病んでるんやな」と次第に理解していくにつれ、なぜか不思議と安堵感を覚えました。どうやら自分の精神状態がどうであれ、それを「髪が簡単に抜ける」という客観的な事実として認識できたことが、落ち着きにつながったようです。

むしろ「どこまで髪は抜けるのか、どこまで俺は病んでいるのか」を確かめたい薄暗い好奇心が出てきて、ゴミ箱を目の前に、淡々と何度も髪をむしっていた光景を覚えています。抜けた髪の本数だけ「くだらない世の中と戦っている証」となる、とでも思っていたのでしょうか。もはやそれぐらいしか、自分にできることはなかったのです(円形脱毛症は、実家に帰ってからはなくなりました)。

今もなお、その当時の記憶の大半は思い出せません。それだけ魂の抜けた「灰色の日々」だったのでしょう(少し前に当時の現場に行ってみましたが、まるで「はるか以前の過去世」でも見ているかのような遠い遠い感覚でした)。いま振り返ると「天の計らい」に違いありませんが、この危ない時期にタイミング良く交通事故に遭ったことで、救われたのでした。

事故による骨折と入院で働けなくなったこと。加えて、退院後すぐに高校時代の恩師からお電話をいただいたこと(この恩師にだけは仕事用の携帯番号を伝えていました)。入院中は携帯が使えませんので、もう絶妙なタイミングでした。そこで「林君、いいからもう帰りなさい、やり直しなさい」というお言葉がなければ、いまどんな人生を歩んでいたでしょうか・・・。

事故の後から救急車で病院に搬送される途中で最初に浮かんだのは、「あぁ、なんて俺は親不孝者なんや・・・」という思いでした。それまで強く反発していたというのに、なぜか「ごめんなさい、ごめんなさい、こんな役立たずでごめんなさい・・・」と、涙が止まらないのです。いったい自分の中の何が「本音」なのでしょうか・・・おそらく人間というのは、いくつもの「想いの世界」を持っているのでしょう。

このとき、「本当は両親と和解したい」という深いレベルの思いに気づいたのでした。だからこそ、先ほどの恩師の言葉にも、素直に耳を傾けることができたのです。もし事故でもなければ、たとえお電話があっても「いや、まだまだこっちで頑張りますわ!」と言っていたかもしれません。

結局、「我を張る」のに懲りて「とりあえず大学に行っとこうか」と実家に帰りました。ただ、受験勉強には最後まで激しく抵抗しました(両親がほとんど何も言わなくなったのが幸いでしたが)。「大学はどこでもいい」とあきらめ、出身高校の進学実績からすればずっとランクの低いところに入りました。受験という軛(くびき)からの解放。本当は歓喜のはずなのに、気持ちはとても複雑でした。「大学はどこでもいい」と思いながらも、一方で学歴の華々しい他の同級生と比較してしまい、しばらく「激しい劣等感」を引きずることになりました。

受験のすべてが終わった日、なぜか左の胸(心臓)でなく右の胸が裂かれるように激しく痛み、自宅で布団の上に倒れ込みしばらく動けなかったのを、今でも覚えています。ただ、その劣等感は、その後の充実した日々によって、少しずつ薄らいでいきました。


過去の挫折や敗北感、葛藤や苦悩というものは、すべて現在に活きています。もし順風満帆の連続だったら、きっと他人の痛みや苦しみは、ほとんど理解できなかったのではないでしょうか。もちろん自分の体験と他人の体験は違うものなので、まさか「完全に理解できる」とは言いません。ただ、そこに「想いを馳せる力」「共感できる力」は、自分の体験がベースになるだろうと思います。そして、本当に共感力を働かせるには、自分の過去の痛みを深いレベルで癒し、「あれがあったからこそ、今がある」「人生に無駄なものは、一切ない」と無条件に肯定できる強さを、「内なる叡智」から湧き上がらせる必要があります。

それがどれぐらいできているかは、あなたのご判断にゆだねます。

「大学時代」の転機

二十歳を過ぎて入った大学は、十年一日のような空疎な講義と、先ほどの劣等感と、気の合う友人がいなかったことと、久々の痛い失恋から、最低限しか行かなくなりました。そこで、学費は全額自己負担ということもあり、地元にあった「牛角」のバイトに明け暮れたわけです。すごく楽しかった。

その少し前は、すでに述べた通り、かなり孤独感や敗北感を感じていました。自分は何もできない、ただ独り、時間を虚しく消費している「人間のクズ」だと思っていました。その時期とは打って変わり、頑張ればお客さんに直接喜ばれる環境があり、楽しく話せる仲間がいる。しかも、多くはないけど、お給料までいただける。そりゃ楽しいわけです。

牛角は当時から運営会社がパートナー(=アルバイト)の育成に力を入れており、やる気があればかなり勉強できる環境でした。分厚い接客マニュアルや、多くの店舗の統計データに基づく緻密な営業レポートを借りては、よく読んでいました。私はずっと接客で、今までの空白の時期を埋めるかのように接客にのめり込み、コミュニケーションスキルを磨いていきました。

営業中にお客さんからクレームがあると、「林さん、あそこで怒ってはるお客さんとこ、行ってもらっていいです?」と頼まれることが多く、「なんでいっつも俺やねん!」なんて思っていましたが、いつの間にか事実上クレーム担当になっていました。そして、気がつけばバイトリーダー的なポジションになり、当時の店長さんともう一人のバイト仲間T君と「お店の経営理念」を一緒に考えていたこともあります。数年前の孤立した状態とは全然違う環境でした。

大学3年のとき、そのT君から「おもろい活動があんねんけど、どないかな?」と誘われた団体がありました。ある採用支援会社プロデュースのもと、学生自身が「学生と企業をつなぐ合同会社説明会」を企画、運営するという団体でした。そのプロデュース会社のイベントでは、就職活動を機に今後の人生を真剣に考え始めた学生たちに対し、「人間はどう生きるのか、何のために働くのか」ということを、熱く語る社会人の先輩たちの姿があったのです。

そのパッションは自分のかねてからの問題意識と完全に一致したため、その組織の活動に激しく打ち込みました。この組織を通じ、いろんな経営者や若手のリーダーから「生き方」や「あり方」について教えを請い、ときには厳しい叱咤も受けたのは、まさに「生きた学問」でした。そこに集った仲間もみんな、高い志を持ち、一方で現実と悪戦苦闘するパッションを持つ奴等でした。この「同志」と真剣に語り合い、ときにはアホなことも一緒にやるのが、何物にも勝る歓びでした。

大学4年の夏、気がつけば、合同会社説明会の大阪会場(大阪駅直結の「ホテルグランヴィア」)で、約80人のスタッフを率いる統括リーダーまで務めることになっていました(先ほどのT君はサブリーダーでした)。そもそも私は協調性があまりないのでリーダーたる器ではなかったものの、プロデュース会社の社長さんと担当者の方が「(危なっかしいけど)まぁやってみろよ」と思い切って任せてくださったのです。

企画運営は失敗と悩みの連続、激しいプレッシャーでしょっちゅうお腹を壊していましたが、仲間が全面的に頑張ってくれたおかげで、そのイベントはなんとか高い目標を達成することができました。まぁ矛盾することに、自分の就活は完全にそっちのけでしたけど・・・。私は「この現在」が人生で最も輝いていると思っていますが、家出した頃からこの時期にかけては、まさに「青春の光と影」の中を不器用に駆け抜けていました。

結局は、その活動を通じてご縁をいただいた、現在さらに有名になっている「某カリスマ社長」のご紹介で、とても運良く東京の食品メーカーに無試験で就職でき、再び上京することになります。その社長からは、大阪の某ホテル頂上のレストランで、しゃぶしゃぶをご馳走になりました(鍋の段取りはすべて仲居さんがやってくれるお店でした)。いま思うと、多くの経営者がお金を払ってでも会いたいと嘆願するほどの方なのに、よくこんな若造相手に、一対一でお時間を割いてくださったな・・・と、不思議な思いと感謝の気持ちでいっぱいです。

「新入社員時代」の悪戦苦闘

約10年間のサラリーマン時代の大半は営業として、食品メーカーをはじめ、営業会社、大手カード会社、システム会社、メディア関係と、いろんな業界を経験してきました。どの職場でもトップ営業でもダメ営業でもない、どこにでもいる凡庸なサラリーマンでした。

特に、一番最初に入った会社は体育会系的な社風で、ときには理不尽に、ずいぶん鍛えられました。そもそも「変わった人間」でしたし、周囲の「空気」は読まないし、納得できないことには着手しないし、学生時代に多少頑張って活動したゆえの傲慢さもあったし、おまけに仕事で結果を出す前から「人間って何のために働くんですか?」なんて理屈っぽいこと言う生意気なガキでしたから。

あくまで自分の主観ですが、他の同期入社の人間より「圧倒的に可愛がっていただいた」と思っています。当時、他部署の部長から「お前は一度、脳を破壊しなければいけないね」なんて言われたことがあります。表現が面白かったので、よく覚えています。

営業の成績がダメだったとき、当時の上司から(今だとパワハラですが)「お前は何の役にも立たない社会のクズだ」と詰められました。(これまたパワハラですが)鉄拳で殴られたこともありました。個別にやればいいのに、わざわざ会議の中で吊し上げに遭ったこともあります。反抗的な態度ゆえ「左遷」に等しい処遇を受け、毎日トイレ掃除ばかりさせられていた屈辱的な時期もあります。

ちょっとした油断で大クレームを引き起こし、痛い思いしたこともありました。信頼していた人から裏切られたこともありました。果ては、社内で三角関係の恋愛・・・「付き合っていた恋人を、親しくしていた他部署の友人に奪われる」というドラマのようなこともありました(その数年後に和解できましたが)。

一方で、「林君だけ結構当たりがキツいよね。でも、歳取ると誰も何も言ってくれなくなるから、今のうち勉強しておきなよ」と、影で助けてくださった先輩もいたし、楽しい同期もいたし、「君は将来、大物になる!」と励ましてくださった某社長もいたし、プライベートまでお付き合いしてくださったお客さんもいたし、飛び込み営業から現在でも交流のある方もおられるし・・・人間のいろんな裏表を垣間見たように思います。扱いづらい人間だったと思いますが、それでも忍耐強く育ててくださった会社には、今となっては心から感謝しています。

特に「お前は社会のクズだ!お前みたいな奴は、いらないんだよ!」とハッキリ言ってくださった最初の上司は、最高の上司でした。「お前の今までの苦労なんか、全然たいしたことないからな!世の中にはもっと苦労している人がいるんだよ!」と言ってくださったのも、この「鬼の上司」でした。いや、「鬼」などではなく、私の硬いエゴを打ち砕く、まさに「観世音菩薩」でした。当時は嫌で嫌で、いっそ逃げ出したかったぐらいですが、いま振り返ると、本当に有り難い「邂逅」でした。この人間同士のぶつかり合いこそ、「真の修行」なのかもしれません。

ちなみに、経営者にお会いするのが好きなのは、営業マン時代のほとんどが社長にお会いする仕事だったことが背景にあります。特に最後のメディア関係の仕事は「社長インタビュー」の業務でした。そもそも私自身「人生いかに生くべきか」という問いを持っていますから、いろんな社長さんからご創業の経緯、また人生観や職業観、使命感などをお聞きするのは、とても勉強になりました。

「スピリチュアル学び始め」の頃

さて、ここまでスピリチュアル的な事柄が出てきませんでしたが、興味が抱いたきっかけは、新聞配達時代に遭った交通事故です。まるで見計らったようなタイミングで事故が起こったので、「自分の人生は何かに導かれているのではないか?」という不思議な感覚が生まれていたのです。それが何なのか突き止めるべく、自然と「見えない世界」に向かうことになりました。

ただ、バイトが楽しかったし、大学時代の後半は先ほどの活動に打ち込んでいたので、それほど没頭することはありませんでした。ただ、それでも「レイキヒーリング」を学んだり「チャネリング」を受けたり、お金の大半はスピリチュアルに投じていました。バイト先の目の前のモスバーガーで、例えば『ラムサ ホワイトブック』(改訂前のバージョン)を「全然意味わからへんけど、なんかすごいな」などと感心しながら読んでいたのを覚えています。

今はもう興味がありませんが、『バシャール』シリーズも結構読んでいました。「へぇ、なんか知らんけど、宇宙人っちゅうのがおるんやな」と。私の原点(原典)である五井昌久先生の『神と人間』に出会ったのもこの時期です。今みたいに波動を観て判別ができないので、興味のおもむくままに読んでいました。

また、「瞑想」にも興味があり、他のページでも紹介しているフランク・ローレンツェンの『ハンズ』をはじめ、いろんな瞑想CDを試しました。スピリチュアル業界で有名な山川ご夫妻の『(CD) 山川紘矢・亜希子の誰にでもできるやさしい瞑想入門』は、良い教材として記憶に残っています。

他には「特殊な音源のCDで、これを使えば幽体離脱できる、過去世が観れる」などの怪しげなものも試したことはありますが、そもそも当時から興味本位のものはあまり興味がなかったため、そういう類のものとは自然と距離を置くことになりました。

当時は江原啓之さん、美輪明宏さんの『オーラの泉』がリアルタイムで放送されていました。まさか後々、自分がそういう仕事をするとは全く考えられず、一人の「スピ好きの視聴者」として、楽しんで観ていました。

人生を変えた「出逢い」

しかし、25歳頃、現在の師匠との出逢いをきっかけに、波動(オーラ・エネルギー)という「目に見えない世界」を観じ取れる能力が、少しずつ発現するようになりました。師匠のことは詳しく申せませんが、知り合ったのはネットを通じてということだけ言っておきましょう。いかにも現代的ですね。たまたま住まいが割と近かったので、スムーズにお会いすることができました。

私にはもともと霊的な素養があったのだと思いますが、それを初対面のときから見出していただいたのです。「あなたには霊的な素質がありますね」と。そして「将来は『宇宙の広報』のような仕事をするでしょうね」とも。

当然、最初は疑いだらけでした。「いやぁ、そんなこと言われたって・・・いったいどうやってやるんですか?」と、誰でも質問するのではないでしょうか。そうしたら、師匠はアッサリと、「やればできるのだから、できると思えばいいんです」

「えーっ!うそやん!『できると思え』って言われてもなぁ・・・」と、とても困惑しました。しかし、師匠はとてもお優しい方で、突拍子もないことを言う方ではありません。また、サラリとおっしゃるところに、なぜか「静かな説得力」がありました。

そもそも前述の通り、大学時代から霊的な事柄には興味があったわけです。だから、疑う一方で「もしかしたら、そうなるかもしれへんな」と、なんとなく予感めいた感覚もあったのです。「ほな、試しにやってみようかな。アカンかったらアカンでええわ」と、師匠が言う通りのトレーニングをすることにしました。

「特定の人の波動を遠隔で観じる」「『あの世』のある場所を観る」「迷っている死者を浄霊する」等、いろんなトレーニングを積みました。師匠と意見交換しながら、少しずつ技術を習得していきました。ただ、手取り足取り、懇切丁寧に教えていただいたわけではありません。簡単なヒントだけいただき、それを半信半疑で試しているうちに、「あ、こうすればできるんちゃうか?」「おぉ!これかこれか!できるやん!」と、少しずつ自得していったのです。

師匠の言う通り「自分にはできる」という確信が深まるにつれ、不思議とこれまで見えなかったものが、少しずつ観えるようになりました。霊的能力を磨くため、「滝に打たれる」とか「断食する」とか、何か過酷な修行をしたことは一切ありません(調子に乗って「不調和な波動」に触れ続けたため、一度だけ軽く寝込むことはありましたが。それでも一晩ぐっすり寝たら全快しました)。

今なら少しわかるのですが、私はいわゆる「過去世」において修行を積み重ねてきたので、現世はその「貯蓄」で急速に能力を発揮できたようです(例えば芸術関係で「神童」が出るのは、過去世からの訓練のたまものです)。

とはいえ、師匠との出逢いがなければ、秘められた素質に気づけないまま、サラリーマンとして一生を凡庸に終えたかもしれません。「事実は小説より奇なり」と言いますが、思いがけず与えられたこの能力に、「天の配剤」を感じずにはいられません。

「起業」への不安と迷い

しかし、他の人にはなかなか実証や説明が難しい領域なので、それを仕事にしていくことには大きなためらいがありました。偏見や冷笑への大きな怖れがありました。経済的な不安もありました。

学び始めの頃は「興味本位のスピリチュアル」にも少し首を突っ込んでいたため、そこで見た一部の「悪徳霊能者」や「エセ占い師」、また「上辺だけのスピリチュアルかぶれ」に対する怒りがありました。ああはなりたくない、と。「では、自分はそういう人たちとは違う、本格的な『霊の道』を歩めるのか?」と問えば、自信を持って「イエス!」とは言えませんでした。他人の人生に関わる資格なんて俺にはないわ、と。

とはいえ学生時代からスピリチュアルだけでなく、心理学やカウンセリングにも興味があり、多少は学んでいました。ある会社に勤めていたときは、会社のお金で「コミュニケーション心理学」とも言われる「NLP(神経言語プログラミング)」の研修を受けさせていただいたことは、とても有り難い経験でした。

他には、単に持っているだけでは全く意味がないのですが、「産業カウンセラー」の資格を保有しています。業界では有名な「日本メンタルヘルス協会」のカウンセラー資格もあります(代表の衛藤先生のお話はめちゃくちゃ面白いです)。「こういった学びを、まずは小さく実践していこう」と思い、サラリーマンを続けながら、週末にカウンセリングやセミナーを行っていました。最初は無料かお茶代程度でさせていただいていました。

そのような「趣味の延長線」ではなく、本業としてやろうと気持ちが傾いていったのは、そのうち「無料では申し訳ない。ぜひ支払いをさせてくれ」というお客さんが少しずつ増えてきたことを受け、「やっぱり、これは自分にしかでけへん仕事かもしれん」と強く感じてきたからです(一番最初にいただいた金額は3,000円。胸がじーんとなった感覚を、決して忘れてはならない)。そう感じれば感じるほど、会社勤めが苦しくなってきました。いや、新卒入社の時代からすでに「そもそも会社組織そのものが、自分には合わない」と感じて辛かったのですが、なおのこと辛くなってきたのです。

いきなりは厳しいので、少しずつ独立しようと思い、途中で正社員から派遣社員に格下げしました。しかし、なぜか派遣先でそんなに頑張っているつもりはないのに「正社員にならないか?」と声をかけられ迷ってしまう。断って違う会社へ移っても、またしばらくすると「ウチでもっと働いてみないか?」と声をかけられてしまう。

こういうチャンスをいただけるのは、実力だけでなく、自分の「運の強さ」もあるでしょう。正社員になるのも大変な時代、有り難い話ではありましたが、このようにして「夢か?現実か?どっちやねん?」と、絶えず問われていたのかもしれません。

迷った挙句、「まぁスピリチュアルでメシ食うなんて現実的やないし、やっぱ真面目に働かなあかんなぁ・・・」と、また正社員に舞い戻ってしまったのです。そこでもやはり運良く評価していただいて、同期入社の他の人間よりも多くお給料をいただいていたようなのですが・・・やっぱり気持ちは捨て切れない。それどころか、少しずつ強くなってきたのです。これが辛い。

すべては、導かれている。

葛藤に次ぐ葛藤、心を擦り減らした結果、「この道でなければ、自分が自分でなくなってしまう!」という結論にまで追い込まれました。「このままずっと会社にいると、魂が死んでしまう」と思いました。このタイミングで、なんと当時買ったばかりのパソコンが壊れ、愛用の時計が止まり、よく履いていた靴の底が破れるという小さな事件が起こりました。「これは・・・もう決めなアカンってことやな・・・ホンマすいませんでした!」とついに観念したのです。

何とも情けない話です。「青雲の志」などという立派なものが動機ではなかった。もはや逃げ場がなくなり、仕方なく決めざるを得ない状況だったのです。

不思議なことに、ようやく決意してから2日後、六本木ヒルズ内の某レストランで、ある方々とのご縁をいただき、なんとその場で「顧問契約」はおろか、たくさんのお仕事の機会をいただけるに至ったのです。今でこそメニューになっている「顧問契約」ですが、最初は私ではなく、先方からご提案いただいたものでした。

あまりにスムーズでうれしい反面、「これは絶対に努力の結果ではない・・・」と感じました。やはり「天は見ている」のでしょう。「すべては、導かれている」ということを、身をもって体験したのでした。本当に決意すれば、振動数(波動)が高まり、やがて現実は変わってしまうのです。逆に、それまでは「守護霊」や「指導霊」などの霊的存在を波動では感じていたにも関わらず、まだ本当にわかってなどいなかった。

それらを確たる体験として知り、「スピリチュアリスト」として最低限の実力を備えるまで、天は私を忍耐強く育てていただいたのだと、理屈抜きに思っています。そして、それは、今もなお、続いています。

一番最初にお世話になったこの方々は、派遣から正社員に戻り、社長インタビューの仕事をしていなければ、ご縁がなかったのです。しかも、社長インタビューの仕事は最初から望んだものではなく、勤め先の会社の新規事業として始まったもので、当時の社長から「林、立ち上げをやってみないか?」とお声がけいただいたものでした。表面的に見れば「迷った挙句、独立心が萎え、正社員に舞い戻った」と言えるでしょう。しかし、大いなるまなざしから眺めたとき、やはり、すべては、天に、導かれていた。

屋号「プリズムライフ」の由来

1-Prism-2 7つのチャクラ

現時点でこのサイトのアドレスにもなっている、屋号「プリズムライフ」の由来について少し述べさせていただきます。

1枚目の写真の通り、プリズムを使うと光を主に7つの色に分けることができます。「波長の違い」が「色の違い」になっているのです。この7色は不思議なことに、私たちの「チャクラ」の色に対応しています。チャクラとは、私たちの肉体に備わっている「細やかなエネルギー」のセンサーです(2枚目の写真)。肉眼には見えませんが、肉体と精神に大きく影響している「エネルギーの調整ダイヤル」です。

いろんな方々の波動(オーラ・エネルギー)を観ていると、似ているものはあっても、全く同じ色や波長はありません。「十人十色」どころか「億人億色」の様相です。それは人間以外の生命でも同じです。赤一色でもなければ、青一色でもない。それぞれが色とりどりの個性を自由に放ちながら、それでいて全体としては不思議とバランスが保たれています。

神道では人間は「神の分霊(わけみたま)」と言われるように、すべての「いのち」は宇宙根源の「大光明」より分かれて存在しています。それぞれの形状、性質、個性は千差万別でも、根本的には「一つの光」なのです。このサイトでは何度も「波動を観る」という言葉が出ますが、これはこの「光」を観ています。

以上、「すべてのチャクラをバランス良く輝かせて生きるということ」そして「あらゆるいのちを生み出す大宇宙大光明への畏敬」の意味を込めて「プリズムライフ」と名付けました。

私の「原点」

先ほども少し触れたように、自分が一番苦しかったのは、高校時代です(幸いにして、鬱屈するエネルギーは水泳部の部活動に打ち込むことで、ある程度は昇華できましたが)。この時代、「人は何のために生きるんですか?」という問いに対し、正面から答えてくださる先生は、ごく一部の先生を除き、ほぼいませんでした。それどころか、「そんなん考える暇あったら勉強しろや!」「現実逃避すんなや!」などと言われる有様でした。

中でも、めちゃくちゃ悩んでいるというのに、うすら笑いを浮かべ、「キミは思慮が足りないですね~」と言った某先生の、メガネ越しに鈍く光ったその目つきは、今も、鮮明に、記憶に、残っている。

これが、本当に、教育なのだろうか・・・。

この時代の激しい葛藤こそ、図らずも「不動の原点」となりました。仮に霊的な能力が与えられなくたって、人生とは何か、宇宙とは何か、神とは何か・・・何らかの探求をしているに違いありません(その場合はきっと心理カウンセラーを目指していたでしょう)。

ただ、不思議な巡り合わせで霊的な能力を与えられることによって、こういった事柄をより深く探求できるようになり、それがそのまま仕事に直結している。誰もが望んで与えられるわけではない「天の配剤」への感謝を、ゆめ忘れないこと。そして、その証として、もっと人の役に立てる人間になること。

「もし、いま目の前に当時の自分がいたら、はたして迷いが晴れるような話ができるだろうか?」

・・・と、ときおり思い巡らすことがあります。


2018/02/26 加筆修正