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霊的世界入門

福岡県大刀洗の甲条神社の鳥居
(写真は福岡県の甲条神社)

私が把握している霊的世界の範囲は、ごくわずかな程度です。それでも、それを知ってから、人生観、世界観は変わりました。あらゆる迷いを脱するほどではないにしても、かなり生きやすくなったのは間違いない。今後も成長し続けるのであれば、この認識はさらに深まっていくでしょう。

以下で述べている内容は、現段階での認識を、できるだけわかりやすく述べたものです(ときどき加筆修正を行っています)。

スピリチュアルオタクになる必要はありません。宇宙人や地底人、陰謀論や終末論、プレアデスやシリウス、ムーやアトランティス、ポールシフトやアセンション、◯◯マスターや◯◯宇宙連合・・・知的好奇心を刺激してくれるものもあるので、特に否定するつもりはありません。

ただ、それらを知ったところで、日常生活にはあまり役立ちません。それどころか、マニアックになればなるほど現実現場の感覚から遠く離れていく傾向にあります。その結果、よほどしっかりした人でなければ、波動(オーラ)は重たくなってしまう傾向にあるので要注意です(すべてがそうだとは言いませんが)。

実践のための基本的な知識、その大半は地味なものです。しかし、地味でも「徹すること」が、本当に大切なことです。ここではそういった基本的な事柄を中心に述べていきます。

本ページ「霊的世界入門」では「原理原則」を述べています。地味な内容かと思いますが、根本となる考え方を述べていますので、よければじっくり読んでいただければと思います。続編の「霊的世界入門2」は、身近な内容も含んでいます。本ページよりは少しライトに述べているので、よろしければこちらもどうぞ。
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なお、「さらに詳しく知りたい」「もっと細やかに知りたい」という方は、「マジスピ塾」にお越しください。

Q:「守護霊」とは何ですか?

文字通り、あなたに専属で、迫り来る危機や災難を「守護」している存在。かつて地上での生を体験している方が大半です。あなたとの霊的な関係性は、非常に深い。また、守護霊の性格は、あなたの性格と通じている部分があるようです。だからこそ、波長も合うのでしょう。

私が観る限り、どなたの守護霊も「やさしい波動」だと感じます。この世的に言えば「親しみのある兄弟姉妹や親戚筋」というところでしょうか。

守護霊の目的は、あなたの成長を見守ることです。そのことを通じて、守護霊自身も成長してゆきます。あなたと守護霊は、お互いに魂のレベルを高め合う同志的存在なのです。ただし、何から何まで都合の良い存在ではありません。

「可愛い子には旅をさせよ」ではないですが、自分が成長するために必要な試練や困難を、過保護な母親のようにすべて取り除いてくれるわけではありません。あくまで「見守る」ということであり、緊急事態でもない限り手を出すことはありません。

しかし、あなたが守護霊の存在を意識し、さらにその守護に対する感謝の念が深いと、ときに大難を小難にすることは可能です。大ケガがすりキズ程度で済むことがあるのです。

ただ、「目に見えないから信じない」とか「本当にいるなら姿を見せてみろ」とか言って守護霊の存在を否定していると、完全に関係性が切れるわけではありませんが、とても守りにくくなってしまうのです。

また、自分の精神状態がとてもネガティブな状態に陥っていると、守護霊の波動と波長が合わなくなり、やはり守りにくくなってしまいます。

なお、とてもエゴイスティックで周囲に迷惑ばかりかけている人の守護霊さんを拝見していると、後ろで「ウチの子が、ごめんなさい!ごめんなさい!」と、まるで親のように平謝りしているのを感じることがあります。そうやって「カルマ」(後述)を少しでも軽くしようと涙ぐましく努力しているのに、「子」は気づかない。ああ、親の心、子知らず。

功成り名を遂げた方が、ときどき「私は特に信仰を持ってないが、いま振り返ると、何かに守られ導かれたような気がする」という主旨のことをおっしゃるのは、感性的に守護霊的な存在をわかっておられるということでしょう(表現は「神」でも「仏」でも「天」でも、何でも結構です)。

真に成功するというのは、自力のみでは絶対に為し得ません。もちろん自力は必要不可欠ですが、その上で大きな力が働くことで運命は左右されるのです。

「おかげさま」とは「お陰様」のことです。「陰」なので目には見えませんが、私たちは「おかげ」の力で生かされています。ただ、そのことを骨身に沁みて知るためには、やはり苦労を含めた人生の深い体験が必要なのかもしれません。最初からそれが素直に実感できる人は、仏教的に言えば「上品(じょうぼん)の人」であり、感性に恵まれた人でしょう。

なお、「あなたには守護霊がついていない」とか「お金を払えば、守護霊をつけてあげる」とか言う連中がいますが、これは絶望的に間違いです(何人かのお客さんからお伺いした話によると、50~100万円かかるようです)。

たとえあなたが極悪非道な人間であろうと、守護霊は常に背後にいます。ただ、あなたがネガティブなオーラを放っていると、あなたと守護霊とは波長が合わないため、守ろうにも守れない状態なのです。しかし、それは「守護霊がいない」という意味では断じてありません。

Q:「指導霊」とは何ですか?

守護霊と同様、あなたを陰からサポートしている存在。「ガイド」と呼ぶこともあります。文字通り、あなたの仕事や生き方の一分野に特化して「指導」する存在です。守護霊は一生変わりませんが、指導霊は状況によって変わります。

例えば一流の芸術家には、芸術に秀でた指導霊がつきます。(野心ではなく)志の高い経営者には、経営はもちろん、事業分野に長けた指導霊がつきます。その指導力によって直感が冴えたり、出会いや資金など現実的な援助を得やすくなります。いわゆる「ツイてる(憑いてる)」状態とはこのことです。

もし、あなたが本心から成し遂げたい志(エゴ的な野心ではなく、世のため人のためになる理想)があり、その成就に向けて真剣に努力を重ねるなら、霊的世界など知らなくても、指導霊はつきます(知っているに越したことはありませんけどね)。

また、その人の「天命」が大きければ大きいほど、数多くの指導霊がつきます。例えば職場の中でも、会社のため、お客さんのために一生懸命働いている誠実な人がいたら、意地悪な人でもない限り応援したくなりますよね。それと同様、霊の世界でも、清らかな想いを抱いて頑張っている人は応援したくなるのです。

逆から言えば「棚からぼた餅」はあり得ないということです。「天は自ら助くる者を助く」という言葉の通り、自ら決心し、人事を尽くし、天命を待つ姿勢が求められます。真に決意すると波動(エネルギー)が高まり、それを堅持することでより高いレベルの指導霊とつながるのです。

逆に、道半ばで成長をあきらめたり、ネガティブな想念が多くなると、波動レベルが落ちるので、それまでついていた指導霊とは波動が合わなくなり離れていきます。それでも「これではいけない」「また頑張ろう!」と深い反省をし再び決心すれば、指導霊はまた戻ってくるでしょう。「人生は何度でもやり直せる」というのは、単なる励ましの言葉ではなく、霊的に観ても真実なのです。

指導霊というのはまた、私たちの「気づき」をサポートする存在でもあります。いかに嫌な出来事が降りかかろうと、起こることに偶然はないようです。必ずや、何らかの深い「意味」を宿しているようなのです。その「意味」に気づけるかどうか、指導霊は見守っています。

したがって、「この出来事を通じて、何を学べということなのだろう?」と、「天から与えられた意味」を忍耐強く問い続けていると、指導霊からのサポートを受けやすくなります。指導霊と、先ほど述べた守護霊。この霊的な存在が本当だとしたら、感謝の気持ちが湧いてきませんか?

もちろん、あなたは「守護霊」も「指導霊」も、無理に信じなくても結構ですよ。むしろ、とことん疑うべきです。それでこそ、理性的な態度というものです。

ただ、ここまでお読みになったのであれば、少なくとも「客観的に証明はできないけど、そういうこともあるかもしれんな」という感覚はお持ちではないでしょうか。ぜひとも、その感覚をさらに突き詰めていってくださいね。いわば「信ずるがために、疑う」のです。

Q:「オーラ(波動)」とは何ですか?

ぬいぐるみはしんどい

「波動」について
ここで述べている「波動」と、物理学が定義する「波動」とでは、ニュアンスが違います。スピリチュアルな文脈では「波動」は曖昧に使われています。大ざっぱに言うと、「波動 ≒ 宇宙エネルギー ≒ 生命エネルギー ≒ 氣 ≒ オーラ」ということです。物理学の定義と混同すると混乱しますので、ここではまずスピリチュアルな文脈での意味を理解し、慣れてきた上でさらに興味があれば物理学(中でも「量子論」)を学ばれると良いでしょう。

私たちは目に見えませんが、「肉体を超えた高次のボディ」をいくつも持っています(「エーテル体」「アストラル体」「コーザル体」など、ボディのレベルに応じた名称があります)。

その高次のボディから放たれる生命エネルギー、それに感情や思考のエネルギーを加えた総合的なエネルギーが、人間の「オーラ(波動)」です。オーラは人間のみならず、鉱物、植物を含めたすべての生命が持っています(鉱物もまた生命であり、意識を持っています)。

「ボディ」について
「ボディ」というと普通は「肉体」のことを言いますが、ここでは「エネルギー体」のことを指します。つまり、各オーラのレベルに応じて、「エーテルボディ」「アストラルボディ」「コーザルボディ」等と呼びます。この表現の仕方だと「肉体」は「フィジカルボディ」や「マテリアルボディ」と呼んだ方が良いかもしれません。とにかく、定義の仕方はさまざまありますが、人間には肉体を超えたいくつものボディ(エネルギー体)を持っている、と理解しましょう。

人間の「死」とは、この肉体から離れることです。肉体は「一番外側のボディ」に過ぎません。「高次のボディ」は、「死」によっても消滅しません。肉体はいわば「ぬいぐるみ」のようなもので、死はそれを脱ぎ捨てるだけのこと。その「中身」は「生き通しのいのち」であり、永遠に失われることはありません。

特に真夏の炎天下、ディズニーランドの「ミッキー」や「ミニー」の中身の人は、サウナのようにひどく暑苦しいに違いありません。さらに視界や運動能力も制限されます。ぬいぐるみとは実に不自由なものです。同様に、この「ぬいぐるみ」であるところの肉体もまた、ぬいぐるみよりは遥かに精密ではあるけれど、それでも不自由な道具です。「波動が重たい」のです。

例えて言うと、霊の世界(あの世)では「この東京からニューヨークに行きたい」と思うだけで一瞬にして行けるのですが、この地球では安くない運賃を払って飛行機に乗らないといけません。

だから、「死ぬ」というのは「肉体を脱ぐ」ことであり、それは霊の世界(あの世)から観れば「重たい波動からの解放」なのです。ミッキーやミニーのぬいぐるみを脱いだら、さぞ爽快に違いない。病ですごく苦しんでいる人も、ご臨終の直前はすごく安らかな顔になると聞きます。それは本来、死とは解放であることの証拠なのかもしれません。

では、私たちは何のために、重たい肉体を与えられて、この世に生まれてくるのでしょうか。それは、ひとえに経験を積むためです。感動を積むためです。そして、霊的に成長をするためです。ここでさらに、「なぜ成長をしないといけないのか?」と聞かれると、今の私は「さあ?」としか言えません。

ただ、人間の深い歓びというのは、「できないことができるようになった」「知らないことがわかるようになった」「見えないものが見えるようになった」そして「人に喜んでもらった」という「創造の価値」以外にはあり得ません。

なぜか、そういうふうに「創られている」。突き詰めれば「謎」ですが、まずはこの経験的事実から出発しなければならないでしょう。


話を戻しましょう。「死ぬ」というのは「肉体を脱ぐこと」に過ぎないので、「死ねば、無になる」というのは、大きな大きな大きな大きな勘違いです。それは「目に見える肉体がすべてである」という思い込みから発した、「死ぬほど絶望的な錯覚」です。

それは死ぬことを「他界」「往生」「昇天」「帰命(きみょう)」などの言葉で表現することにも現れています。特に「往生」というのは字義通り「往(い)って、生まれる」という意味なので、この世で死ぬというのは、同時に「あの世で再び生まれる」ことを示すのです。この意味でも、本来「生死(しょうじ)はひとつのもの」なのです。

たとえあなたが「あの世」の存在を信じられなくとも、少なくとも上で述べた「他界」や「往生」という「別の世界」をイメージさせる言葉がいくつも存在していることは、改めてご認識いただきたい。少なくとも、それらの言葉が存在する「必然性」については、思いを馳せていただきたい。

「あの世」があるという前提で話を進めると、「死ねば、無になる」と思い込んだまま亡くなった人は、その後「何もない闇」の中でさまよい苦しむことになります。あの世は「思いだけの世界」なのですが、「死んだ後は真っ暗なんだろうな」という思い込んで亡くなった人は、それが「ほとんど現実化」してしまうのです(「ほとんど」というのは、無はないので、完全な無にはならないからです)。それほどまでに、「死ねば、無になる」という唯物的な考え方は、非常にもったいないわけです。


「自決」(自裁・自殺)についても述べておきましょう。

「死ねば無になる=現在の苦しみから逃げ出せる」と思って自決しても、無になることはないので、逆にものすごく苦しんでしまうのです。自決間際の苦しい思いを、そのまま引きずってしまうからです。そうなるといわゆる「成仏」(=自分の霊的にレベルに合ったあの世の階層に往くこと)もできず、地上とあの世との間をフワフワ漂うことになります。この状態はとても苦しいので、藁にもすがる思いで地上の縁ある人間、またはその魂と同様ネガティブなオーラの人間に取り憑くことがあります。後ほど詳しく述べますが、これが「憑依(ひょうい)」という現象です。

自決した人間にも守護霊はついているのですが、闇の中に堕ちると波長が全然合わないので、救い出すのは大変な骨折りなのです。その人間が苦しみの中で「はて?死ねば楽になれるはずだが?何かがおかしいぞ・・・もしかして自分は間違っているのか?」と内面から反省の光が兆すときまで、守護霊側は待たねばなりません。この段階に至るまでの時間、は個人差がかなりあります。

ただし、その気付きを間接的にサポートすることはできます。それは「その人間の親類縁者による供養」です。親しかった人々が故人に対し哀悼の念、感謝の念を送っている場合、「その一部」は届きます。ただし、それを受け止めるかどうかはその人の選択です。この世でも、落ち込んでいる気難しい人を無理に励まそうとすると、「うるせーよ!オレに構うなよ!」と拒絶されることがありますね。それと同じで、その人の迷いが深いほど時間はかかります。その際はタイミングが訪れるのを忍耐強く待つことです。

あるいは、霊的な能力のある人間が、その守護霊や親類縁者にもご協力いただきながら、比較的強い光を送ることで気付きのタイミングを早めることは可能です(ただし、それでもなお個人差はあります)。それが「浄霊」と呼ばれる行為です。これは「ヒーリング」の項目で詳しく述べているので、ご関心があればご覧いただければと思います。

自決は罪なのか?
「自決した人間は、必ず闇の世界(地獄)に堕ちる」ということがスピリチュアル業界では「定説」のように言われていますが、いろんな自決者のリアルな波動を拝見していると、必ずしもそうではありません。「レッドカードで一発退場!」という単純なものではありません。詳しくは割愛しますが、「自決する動機」がどうだったか、ということがその後の行方を決める要素となります。 

霊的な感覚が鋭くなると、肉眼では見えないオーラを、「色」や「波長」として感じ取ることができるようになりますただ、それは特殊なケースです。普通はオーラは肉眼では見えませんが、私たちは会話の中で「あの人はすごい存在感があるね」とか「あの人は何か嫌な感じがする」とか、オーラを感覚的に捉えています。日常レベルではそれで十分です。

オーラ(波動)とはいわば「魂の履歴書」のようなものです。オーラを観ることで、本人の性格、感情、気質、魂の成長度などの情報、またいわゆる「過去世」や「近未来の流れ」も、ある程度まで掴むことができるのです。私が「個人セッション」で行っていることの大半は、この「オーラを観る」ことによって行われているものです。

Q:「あの世」とは何ですか?

ステンドグラスの螺旋

あの世とは「死後の世界」、神道では「幽界」「霊界」「神界」の3つに大別されます。幽界(ゆうかい)の下層は光がなく、いわゆる「地獄」と呼ばれる場です。逆に、神界の上層であるほど光り輝いています。そして、その奥の奥には、「宇宙根源」に通じる世界があるようです。ただ、この3つの分類は非常に大雑把です。仏教でも「一念三千世界(一瞬の想いの中に、三千もの要素がある)」と言われるように、想念の世界である「あの世」は、厳密には数え切れないほどの階層があります。

「あの世を語る人間」は、どれだけ徳の高い方でも、すべて「この世の人間」です。したがって、すべてがわかっているわけではありません。ただ、ここで大切なことは、百年に満たない地球の人生がすべてではないということです。一つ前の質問でも述べたように、「死ぬ」とは、正確には「肉体離脱」のことです。死後は、自分の波動(オーラ)の輝きの段階によって、行くべき「あの世の階層」が変わるのです。波動は善い行いを為し、人に喜ばれ、愛に満たされた状態であるほど輝きます。そういう人は死後、神界に近い世界に行くでしょう。一方、悪い行いを犯し、恨みつらみを残し、不調和に陥っているほど暗い波動をしています。そういう人は、幽界に近い世界へ堕ちていきます。複雑なこの世と比べ、とてもシンプルな仕組みですよね。

俗に言う「地獄に落ちる」というのは、無理やり落とされるのではありません。不調和なオーラであるほど「重たい」ので、嫌だとしても下の階層に行かざるを得ないということです。ちなみに、英語の”light”には「光」と「軽い」の2つの意味があります。日本語でも「明るい」は「あ・かるい」です。「光」に満ちているほど「軽い」から、高い階層へ行けるのです。

地上人生における社会的地位と、死後の地位(あの世の階層)とは、直接的に結びつきません。この世においては「成功者」と讃えられても、あの世では逆になってしまうケースは少なくありません。

この地上世界は「エゴの波動」がまだ中心であるため、私利私欲でも想いが強かったり、見せ方が巧みであれば、ある程度の地位や財産を築けることはあるでしょう。ただ、それだけ愛と調和という本質から外れるので、波動はどんどん汚れていきます。肉体離脱後は「馬脚」が現われしまい、ある意味では迷いなく「幽界の低い階層」へ落ちていくことになります。特に、社会に大きな悪影響を与えたり、たくさんの人々を傷つけた人間は、耐え難い苦悩の世界へと落ちていきます。それはもう悲惨な世界なのです。私がそれを波動的に観察し続けると、吐き気を催してきます。

この世ではうまく誤魔化せても、あの世では一切通用しません。「あの世への食い逃げ」は絶対にできません。だから、特に威張っている権力者、傲慢な実力者は、実に「お気の毒」なのです。この世の地位が高い分だけ、あの世で堕ちたときの落差が激しくなるからです。もちろん彼らにも「正義」はあるのでしょうが、その大半は少数の人間の利益にしかならないので、結局はエゴなのです。「驕れる者、久しからず」というのは、あの世ではさらに厳しく適用される原則なのです。

これは「怖れ(畏れ)」であると同時に、「救い」でもあります。たとえ地上の人生は不遇だったとしても、心さえ「愛と光」を忍耐強く保っていられたなら、遅くとも死後はずっと高い世界に行けるからです(多くは生きているうちに好転しますが)。また、「次の人生」は間違いなく良い境遇に生まれることでしょう。もっとも、愛と光を失わずに生きてゆくには、それ相応の学びを必要とすることは言うまでもありません。

また、たとえ悪を犯し、自分の波動を汚し、幽界の層に行ってしまったとしても、そこで深い反省の念が出てくれば、またいくらでも盛り返すことはあります。ただ、この世でも「あいつは往生際の悪いヤツだ」と言われるように、本当に反省を必要とする人がなかなか素直になれないというのは、あちらの世界でも同じことです。「・・・であれば、あなたがわかるまで、あなたの発した波動通りに、不調和な現実を体験していただきましょう」というのが、霊的真理なのです。

この次の問いである「カルマ」と同様、こういった「霊的真理」を人類が深く知ることができたら、世の悪い行為の大半は改められることでしょう。人は積極的に善きことを為すに違いありません。それが結局は「得=徳」であり、肉体離脱後もより充実して生きるための確実な手段だからです。ただ、霊的真理への洞察を邪魔するものが、「肉体は自分である」という錯覚から生じた「エゴ」です。頭ではわかっていても、実際はそう簡単にはいかないわけです。

ちょっと脱線1
世界を影から支配する「一握りの権力者」たちは、地球に渦巻く「エゴ」の代表者のような存在です。「エゴ」は霊的真理の普及を嫌います。もし霊的真理が広がり、地球人類が「本来の霊性」を取り戻してしまうと、自分たちの「既得権益」が危うくなるからです。代わりに、怖れや不安によって人心をコントロールし、マネーを支配することで世界を支配しているのです。その代表的なものが戦争です。これはマスコミ(オールドメディア)の情報を少し見ればわかることですね。そのマスコミの背後にいるのが「彼ら」だからです。これは「陰謀論」ではなく、大半は表面上に出ていることです。「神(霊的真理)と悪魔(エゴ)の闘い」は、神話の物語ではなく、まさに「この世の話」なのです。

「あの世」を語っているのに、いつの間にか「この世」のことに話が広がってしまいました。それは単なる脱線ではなく、本来「あの世」と「この世」は一つのものだからです。昔の表現で、この世は「現し世(「うつしよ」または「うつしょ」)」とも言われます。「あの世」つまり霊的世界の様相が映画のように映し出されたものが「この世」です。そして、個人レベルでは、「潜在意識」をフィルムとして、これまた映画のように映し出されたものが「人生という名の物語」なのです。この意味において、「自分に降り掛かってくるすべての出来事の原因は、良いものも悪いものも、すべて自分の中にある」と言えます。これをややポジティブに言えば「引き寄せの法則」と呼び、ややネガティブに言えば「因果応報」と呼ぶのです。自己啓発の世界でもよく言われるように、人生を変えるには、潜在意識を変える必要があるのです。

本来は以上の内容を説くべき宗教が、「正義の戦争」として自分を正当化するエゴの道具として使われています(その背景には、やはり「彼ら」がいるのです)。したがって、各々がエゴを真摯に見つめることなくして、平和な世界を築くのは極めて難しい。いまこの小さなページで述べている事柄も、結局は「己のエゴを見つめ、悪しきものは祓(はら)う」という一点に集約されます。宗教が力を失っている反動として、宗教宗派の垣根を超えた「スピリチュアリティ」の再興が、これからますます求められているように感じます。そして、その役割を担うのが、八百万の神々を奉る、我らが神道なのでしょう。


ちょっと脱線2
先ほどの「神と悪魔の戦い」という部分を補足しておきます。素朴な勧善懲悪的な物の見方では、最後は「神」が勝つのでしょう。しかし、そもそも「勝ち負け」ではありません。もし勝敗を分離させると、敗れ去った悪魔は復讐の念を増幅させ、それがまた次の戦いを生み出す原因になってしまいます。そうではなく、霊的真理的な物の見方では、悪魔が「本来、自分は神だったこと」を思い出すことにより、戦いは一瞬のうちに終わり、お互いが戦わずして勝つのです。言い換えると、神は悪魔と対峙せず、忍耐強く「光」で包み込むということです。このとき、神は悪魔を「悪魔」とは見ず、自分(神)そのもの、光そのものとして観ているのです。

仏教では人間の迷いのことを「無明(むみょう)」と言いますが、これは「人間の本質である『光』を覆った『闇』の状態のこと」であり、この無明は悪魔とも言えます。しかし、最初から闇というものはありません。そして、光をパッと灯せば、闇は一瞬にして消えてゆきます。本来、闇というものは「無い」からです。

いくら世界を闇が覆っているように見えても、宇宙の根源的な波動は「大光明」なので、いつかは必ず、光一元の世界に還るのです。現在の混沌は、光一元に至るまでのプロセスです。一寸先は闇ではなく、いつも光です。ただ、私たちの心の眼が覆われているから、闇のように見えているだけなのです。また、そのような無明的な物の見方をしてしまう人類の集合意識が、現在の混沌を引き起こしているのです。

霊的な学びを真剣にされている方で、愛や平和を希求しない人は皆無でしょう。中には「世直し運動」や「平和活動」をされている方もおられるでしょうが、根本的には自分の波動を良くする、自分が光となることです。そうなれるよう、心の底から祈ることです。その上で、この世は物質の世界、行動の星ですから、自分の仕事や家族という生活の身近な事柄を、決しておろそかにしないということです。足下の実践を抜きにして、決して波動は良くなりませんので、興味本位のスピリチュアルに傾倒しがちな方は、特に注意しましょう。

Q:「カルマ」とは何ですか?

4歳で千本桜を叩く少年ドラマー
(画像はYouTube「4歳ドラマーライブ『千本桜』」から拝借)

「カルマ」とは、ひとことで言うと「行い」のことです。厳密には、身体による行い、言葉による行い、想念による行いの3つがあります(仏教では「身・口・意(しん・く・い)」と言います)。蒔いた種が時を経て芽を出すように、もしカルマが善いものであれば、いつか善い現実となって実を結びます。逆に悪いものであれば、いつか悪い現実となって実を結びます。「原因があって結果がある」「結果には必ず原因がある」という考え方(因果論)は、時間の世界に生きている私たちにはとてもしっくりくるものです。

「カルマ=学び」なので、怖れる必要はありません。「自分は悪いことをしたから、必ず大きな報いを受けるに違いない」と思うところには、実は反省の光が兆しているのです。「反省」という言葉は日常の言葉ですが、実は「善悪を峻別する叡智」といっていいでしょう。だから、自責でなく、懺悔でもなく、しっかり反省し、悔い改めた瞬間から、悪いカルマは消えてゆくのです。もちろん「蒔いた種は必ず刈り取ることになる」のが原則ですから、途中で何らかの痛みやトラブルは伴うかもしれません。しかし、何も反省しない状態と比較すれば、かなり緩和されるのは間違いありません。

カルマを怖れる必要がないもう一つの理由は、実はカルマは「神の愛」だからです。私たちが人生において大切なことを学ぶのは、たいていは挫折や失敗や敗北などの苦しいことからです。例えば、過去に人をいじめていた人間が、逆にいじめられたとします。そこで「いじめられる側の痛み」を知ることができたら、今後もう他人をいじめることはなくなるでしょう。そのマイナスの体験があったからこそ、人間として成長できるわけです。だから、カルマというのは、神が厳しい愛の鞭によって、私たちを鍛えようする慈悲なのです。

したがって、大きな不幸や災難が降りかかったとき、「それはあなたのカルマだ、祟りだ、先祖の因縁だ」などと言って脅かす霊能者や宗教家や占い師は、救いようのない間違いを犯していることになります。そういう連中はそれが商売になるから、無知につけ込もうとします。しかし、こういった正しい知識があれば、全然怖くないのです。逆に、「あんた、そうやって人に恐怖心を与えてなんかいると、とんでもないカルマを背負うことになるよ。それでもいいの?」と切り返すこともできるのです(過去に私はこのようなことを言って、某大手宗教団体の幹部を諭したことがあります)。


ただ、カルマが悩ましいのは、せいぜい100年の人生のスパンで考えると、納得がいかないことがあるのです。ある人は裕福な家庭に生まれ、ある人は貧乏な家庭に生まれる。器量の良い人もいれば、そうでない人もいる。才能に恵まれた人もいれば、そうでない人もいる。あまり努力していないのに成功する人もいれば、努力は誰よりもしているのにうまくいかない人もいる。「人生は理不尽だ」と言われるゆえんです。

実は、今生の時間に加え、いわゆる「過去世」(あるいは「過去世というイメージ」)も考慮する必要があるのです。過去世の存在については完全に証明できませんが、過去世の記憶を語る人の、例えば「この場所にこういうものがあった」という証言を厳密に調査したら客観的事実と一致していた、というレポートもあります。ここでは、過去世というものは「ある」という前提で考えていきます。無理に信じる必要はありませんよ。ただ、もし信じることができたら、人生の光景は変わります。

例えば、芸術やスポーツの世界ではときどき「神童」が現れます。テレビやYouTubeで、小さな子が難しいクラシック音楽をバリバリ弾いたり、ドラムを超絶演奏している映像を見ると「世の中にはこんな子がいるのか・・・」と驚きますよね。そういう子は、過去世でかなりの修練を積んでいると思われます。不肖この私もまた、ほとんど霊修行らしいことはやっていないのに、急速に霊的な能力を発揮できたのは、私もまた過去世の中で相応の修行を積んでいたからなのでしょう。

このように、年齢というものを霊的に観ると、「過去世+今生の時間」になるのです。今生の時間の差はせいぜい数十年ですが、過去世の時間の差には、数百、数千、数万年の違いがあるのです。人はさまざま、それぞれの進化に応じた「魂の歴史」を歩んでいます。だから、小さいのにしっかりした子もいれば、「いい大人のくせに・・・」と影で言われる残念な人もいるのです。

ただし、単に表面的な部分で「成熟さ」と「幼稚さ」を判断するのは、それこそ成熟した人間のすることではありません。例えば、札付きの不良少年でも、更生して立派な社会人として活躍することがあります。逆に、子どものときから「真面目」「大人しい子」だった人が、何を間違ったか犯罪に手を染めることはあり得ます。実際、そういう事件の報道で、周りの住民が「ちゃんと挨拶もできるいい人だったのに・・・」とつぶやいているのはよく見ることです。難しいケースとしては、表向きは良識的で優秀な人間が、家庭では配偶者にDVを働いていることもあるのです。人間というものは、実に複雑である・・・このページでお伝えしていることは、物事を安易に判断する道具としてお使いにならないことです。


さて、カルマに話を戻すと、過去世で「徳(良いカルマ)」を多く積んでいる人間は、今生では恵まれることが多いのです。その逆も然りです。過去世で悪いカルマを積んでいる人間の中には、その罪滅ぼしとして、「今生では良いことをやろう!」という意欲の強い方がおられます。ただ、今生でいくら良いことをやったとしても、それ以上に過去世で積んだ悪いカルマの方が大きいので、意外と不遇な人生を歩んでしまう場合があるのです。もちろん、水面下では悪いカルマがどんどん解消されているのですが・・・表面だけ見ると「神も仏もあるものか!」と腹が立つかもしれませんし、他人からは「いい人なのになぜ不運なのか・・・」といぶかしく思われるかもしれませんが、実は神も仏もある、つまり「宇宙の法則」が精確に働いているので、こういうことになるのです。

良いカルマも、悪いカルマも、必ず「蒔いた通りに花が咲く」のです。周囲を見渡すと、悪いカルマを解消するため、苦労や困難を味わっている不幸な方が多いように見えるかもしれません。私も子どもの頃、大人たちから「人生は甘くないよ」「社会というのは厳しい場所なんだよ」と、何度聞いたかわかりません。なぜそうなるかというと、この地球という場所は「修行の星」であり、私も含めて過去世でいろんな悪いカルマを作ってしまった人たちが、そのカルマの結果を刈り取ることを通じ、人生の真実、宇宙の法則を学んでいく場所だからです。

超重要!
しかし、苦労や困難、挫折や敗北があることは、そのまま不幸にはつながりません。なぜなら、カルマとは「学び」であり、「神の愛」なのだということが本当にわかっていれば、マイナスに見える事柄は「深い感謝」をもって受け入れることができるからです。むしろ、苦しみや悲しみの深い人は、ある意味で「神から深く愛されている」とも言えるでしょう。本当の不幸とは、こういった霊的真理を知らないことです。あるいは、知る機会があっても、「そんなもん信じられるか!本当なら証拠を出せ!」と頭から否定してしまうことなのです。もちろん、このことを心の底から理解するまで、私も含め、相当な学びが必要であることは言うまでもありません。 

「そんなもん信じられるか!本当なら証拠を出せ!」と否定しまう心の状態を、先ほども述べた「無明(むみょう)」というのです。本当は心の奥深く、「神性」「仏性」「真我」「神我」と呼ばれるレベルにおいては識(し)っているのですが、心の表層にあるエゴや迷いの思いが「光」を覆ってしまうわけです。まるで光輝なる太陽の一閃を、ぶ厚い積乱雲が遮断してしまうように。冒頭で挙げた「守護霊」や「指導霊」という存在は、何とかしてこういう人生の真実を知ってほしいと願っているのですが、本当に気づけるかどうかというのはタイミングもあるので、彼らはその刻(とき)が至るまで、忍耐強く祈りながら、見守っているのです。

あなたが霊的な事柄を学んでおられるなら、いま説明したカルマのことは、知識としてはご存知かもしれません。ただ、こういうことを頭ではわかっていても、いざ実際に苦労や困難が降りかかってくると、それに負けたり嘆いてしまったりする、というのが私も含めた凡夫の姿でしょう。この「カルマの法則」はシンプルですが、されど体得するのは決して簡単なことではありません。

けれども、かつて三輪車から二輪車に乗り換える練習において何度も転んだように、小学生のころ漢字を覚えるのに何度もノートに書き写したように、ときには苦しみながらも、ときには面倒だと感じながらも、繰り返し繰り返し基本を学んでいくことが、遠いようで最も近い道のりなのです。だから、「なんで勉強しているのに、うまくいかないのだろう・・・」と嘆くのではなく、「一つまた学べた、有り難いことだ」と気持ちを転換させて、前に進んでいくことです。まぁ私自身はかなり停滞してしまった時期があるので、決して偉そうには言えないのですが・・・ただ、そういう積極的な姿勢は、守護霊や指導霊がとても喜びます。お陰の力、ご加護の力は、ますます強くなっていくのですよ。

余談ですが、いまこの文章を作っていて、私の守護霊や指導霊、またこの文章を読んでくださるだろう方々の守護霊さん、指導霊さんが「うんうん、そうだそうだ、そうなんだよ」と喜んでくださっているのです。

ぬいぐるみを返せ~

お疲れ様でした
ここまでが原理原則的な事柄の説明です。少し読みにくい箇所もあったかもしれませんが、ご一読いただき、ありがとうございます。次の「パート2」もう少しライトな内容です。進みたい方は、以下からどうぞ。

※2018/07/21 加筆修正