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霊的世界入門2

貴船神社の階段
(写真は貴船神社)

本ページは「霊的世界入門」のパート2です。「原理原則」を中心に述べた「パート1」は、以下からも読むことができます。戻りたい方は、以下からどうぞ。

Q:なぜ、名前を聞くだけで、遠く離れた人間や場所の波動(オーラ・エネルギー)がわかるのですか?

少し細かい質問になりますが、よく聞かれることなのでお答えしておきましょう。

私も大半の方々と同様、肉眼では波動を「見る」ことはできません。しかし、額の中央にあるという「第三の眼」を使えば、「観る」ことができます(「見る」と「観る」を意図的に使い分けています)。第三の眼は「第6チャクラ」ともいって、これは「霊的な事柄を洞察する力」があるようです。どのように「第三の眼」を使っているかはうまく説明できませんが、とにかく波動を「光のエネルギー」として、その「色彩」「波長」「明暗」「軽重」「大小」等を観ています。科学的には完全に証明できませんが、少なくとも私は、日々体験している「事実」です。

普段の生活の中で、何でもかんでも波動を観ているのではありません。本を読むときのように少し集中力を使うので、ずーっと観続けていると、だんだん疲れてきます。そういう意味からも、必要でないときは全く観ません。逆に、自分の意思に反し、観え過ぎて困ってしまうこともありません。特に「生まれつき霊的な能力がある方」は力のコントロールができず、まともな社会生活を送れない人もおられるのですが、私は完全にコントロール可能です。

さて、ここからが本題です。「波動」は物質を超えたエネルギーなので、「空間」や「時間」の制約を受けません。したがって、観る相手や場所が遠く離れていようが、関係ありません。また、いわゆる「あの世にいる人(死者)」であろうが、関係ありません。すべてが目の前に存在しているかのように観ることができます。簡単に言えば、目の前にある郵便ポストは、波動的には「ここ」にも「あそこ」にも「どこにでも」存在しているのです。唯物的に見れば全く意味がわからないでしょうが、この大宇宙は本来そうやって創られているんだからしょうがないんです(笑)

もう少し分かりやすく説明しましょう。例えば、テレビやラジオは目に見えない電波に「周波数」を合わせることで、テレビ局やラジオ局から遠く離れた場所でも、映像や音声を受信して楽しむことができますね。波動を観るのも、周波数を合わせるようなものです。私の場合、観たい人やモノの「名前」「写真」等をキーワードに、その存在の周波数を宇宙の中に「検索」しにいくわけです。そうすると、「ここ」にいながら瞬時にヒットできるわけです。これだけはグーグル先生よりも早いんですよ(笑)ただ、ヒットはしても、それをどう読み解くかはアナログな職人技の世界ですが・・・。

Q:波動(オーラ)がわかると、考えていることも全部わかるのですか?

「全部見えちゃうんですか?なんか怖いですね・・・」

交流会やセミナーの場で初対面で名刺交換したとき、相手からに言われることの多いセリフです。普段は私みたいな「変人」に会うことがないためか、何ともいえない戸惑いを隠せない方もおられます。しかし、ご安心を。

「一目見た瞬間、すべてお見通し」ということは、絶対にありません!波動(オーラ)を観じてわかるのは、少なくとも私の場合は、性格、感情、気質、運気、魂の成長度など「おおよその部分」です。しかも、前述の通り、波動は観ようと意識しない限りは観えません。また、お相手の許可なく、その場で指摘するような「非礼」はいたしません。

交流会での配慮
余談ですが、人が集まっている場で「わたし、ちょっとオーラ興味あるんですよ!どんな感じなんですか?」と好奇心で聞かれても、周囲に人がいる限り、原則としてお答えしません。「ちぇっ、なんだよ!ケチなヤツだな!」と思われても、お答えしません。もしその人の波動が暗く重たいとして、「うわー、めっちゃ輝いてますよ~」なんてウソはつきたくない。でも、正直に「オーラ、めっちゃ重たいんですけど・・・」ということも、特に初対面の方には言いたくないのです。

 

なぜなら、それを周囲の人が聞いているからです。もしそれによって、「あの人さー、林さんから『オーラ重たい』って言われてたよ」「うそーマジで?そんな風には見えないけど、見かけによらないもんだねー」というような会話を影でされていたら、その人に「マイナスのレッテル」を貼ってしまうことになります。特にスピリチュアル好きな方や、私を信頼してくださっている方ほど、影響されてしまいます。

 

だから、傷つく人が出てくる可能性のある限り、波動は指摘いたしません。波動が重たい人も、人生の重荷や課題を背負い、その人なりにベストを尽くして生きているだろうからです。

 

ただ、本当に波動が輝いている人に対しては、その通りに指摘させていただくこともあります。それなら誰も傷つかないですから。しかし、そうすると他の人から「林さん、あの人のオーラは言ったのに、わたしには言ってくれないんですね・・・きっとダメなオーラだからでしょ?(私が答えにくそうな顔をしているのを見て)ほらーやっぱりダメなんですね!」と深読みされてしまうことがあるのです。そういうことが何回かあったので、人の集まりの場では、できるだけ語らないことにしました。

 

会場で周囲の方々が盛んに自己紹介をする中、私はあまり名刺交換はせず、積極的に(「壁の花」は女性に対する表現なので)「壁際ガードマン」になります(笑)一人突っ立って会場全体を見守っていると、どこからともなくスピリチュアル好きな方、また「どうも変わったヤツがいるらしい」と私のウワサを聞きつけた方がやって来られ、「ちょっと気になる人がいまして・・・」と、「無料個別相談」が始まります。人のいない隅っこでヒソヒソ話すので、「守秘義務」はちゃんと守れるわけです(笑)

 

交流会等の場で、人の波動は指摘しない。それにご不満な方には、上の諸事情をご説明差し上げた上で、「もしご自身のオーラを知りたいんでしたら、どうぞ個別にご相談してくださいね」と言うことにしています。そうすると人によっては「ケチだなぁ!」「商売上手だなぁ!」「みんな友人なんだから大丈夫だよ!」という反応をされてしまうのですが、これはもう仕方ないなと思っています(-_-;)

ついつい余談が長くなりました。話を戻しましょう。

例えば、波動を観ると、「見た目は落ち着いているけれど、何だかすごい怒りを感じるな・・・」という場合があります(波動を観なくとも、少し洞察力のある方なら感じ取れるはずです)。このとき、「怒り」という状態はある程度わかりますが、「なぜ怒っているのか」「何に対して怒っているのか」まではわかりません。だから、もしこういう方のことがご相談の中に出てくるとすると、その背景の事情を詳しくお聴かせいただいているわけです。

波動を観ることで、他には「見た目は元気を装っていても、実はものすごい不安を抱えている」とか、「見た目はおとなしい人だけれども、実は静かな強さを持っている」とか、人間の性格の「表と裏」を、ある程度までなら掴むことができます。しかし、それだけでもってすべてはわかりません。それは、人間はいろんな側面を持っていることもあります。

ある男性は、「職場では頭の切れる敏腕マネジャー」でも、「家庭では奥さんの尻に敷かれる大人しい夫」というのは、あり得ることです。極端な例は、先ほども少し述べましたが、外では良識的で真面目に働くのに、家庭では暴力を振るう人も、少数ながら存在するということです。このように、波動は多面的に観なければわからないケースもあるため、繰り返しますが、ご相談の背景事情を詳しくお伺いしているのです。

私のような者でも、波動を観ることでわかることがあります。まして、天から見れば、人間世界のことはすべてお見通しです。「パート1」のカルマの項でお答えしたように、私達の「行い=カルマ」はすべて波動として現れるわけですから、素直に正直に生きたいものです。真に怖れる(畏れる)べきは、私なんぞではなく、「お天道さま」です。「お天道さまが見ている」という古来からある日本人の素朴な宗教観、また「天網恢恢疎にして漏らさず」(※)という言葉は、忘れないようにしたいものです。

※「てんもうかいかいそにしてもらさず」=天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむる。

Q:「霊」と聞くと、なんだか怖くなるのですが…

ハロウィンお化け

実は、「霊」とは「神」にも等しい言葉です。尊崇や信仰の対象ではあっても、恐怖の対象ではありません。むしろ、「この世の人間」の方がよっぽど怖いでしょう。

「霊」という言葉はかなり誤解されています。本来、「霊」とは万物の根本のまた根源、宇宙の根源的な波動のことを言います。厳密には違うかもしれませんが、「般若心経」の有名な「色即是空・空即是色」の「空」のことです。「森羅万象が発生する元の元」をいうのです。

例えば「心霊スポットに出てくる霊が怖い」言うときの「霊」とは、いわゆる幽霊=幽界レベルの霊、つまり低級霊・地縛霊・動物霊の類だと思います。「霊」という言葉がついているのでややこしいのですが、これはもちろん根本の根本ではなく、枝葉のさらに枝葉の存在です。よって正確には「幽霊」というのは「幽界レベルの迷いの想念」なのです。迷いのないまっすぐな低級霊や地縛霊なんか絶対いないわけですね(笑)「肉眼では見えない」というのが怖れてしまう一因だと思いますが、本来は迷いの深い気の毒な存在なので、何も怖れるに足りないのです。

ただ、私たちの波動(想念)が慢性的にネガティブな状態だと、この「幽界レベルの想念」に波長が合ってしまい、いわゆる「取り憑かれる」ことになってしまうわけです。これを憑依(ひょうい)といいます。しかし、例え心霊スポットのような「よく出る」場所に行っても、こちらの想念が暗くなければ、憑依されることはありません。だからといって、肝試しや軽い気持ちで行くのはおすすめしません。

ときおりどこかのYouTuberが「心霊スポット『●●』に行ってみた。」という動画を上げていることがあります。「えーなになに!?いるの!?うわぁ!」みたいな演出は「再生数を稼ぐ工夫」として必要なのでしょうが、それにしては少しリスクが高すぎる気がします。せいぜい「ホラー映画」「ホラーゲーム」に留めておいた方が良いと思います。

例外として、霊媒体質(細かい波動に敏感な体質)の方は、ちょっとしたネガティブなことでも「幽界レベルの想念」に同調してしまうことがあります。また、東京都内では渋谷や池袋など、さまざまな人々の想念がごちゃ混ぜになっている場所に行くと、ネガティブなエネルギーを受けてかなり疲れてしまう(憑かれてしまう)こともあります。渋谷駅前のスクランブル交差点を歩くだけでグッタリする方もおられるぐらいです。そういう方は、かなり意識してご自身の波動を高めていく心がけが必要です。

一方、本当に怖ろしいのは、この世に生きている私たち人間です。日々の人間関係における、対立、猜疑、嫉妬、怨恨、憎悪、ときには猟奇。それがもたらす災難、事故、事件・・・枚挙にいとまがありません。政治の世界を見渡しても、腹黒い謀略工作が水面下で当然のごとく繰り広げられています(例外はお人好しの日本人ぐらいでしょう)。たとえ怖ろしい低級霊がいたとしても、ここまでネガティブな現象は起こせないでしょう。それを行う人間に憑依するということならあり得るでしょうが。

この下の質問項目は「浄霊」ですが、真に浄化すべきは、私たち生きている人間の「魂」なのではないでしょうか。

Q:「浄霊」とは何ですか?

前項でも少し触れている通り、自分の波動と「低級霊・地縛霊・動物霊」の波動が同調してしまい、心身の不調や運勢の悪化を引き起こすことを「憑依(ひょうい)」といいます。

生前に何か恨みつらみを残した人や、また肉体が死ねばすべて無になると思い込んだ人が、「本来帰るべき場所」に帰れず、迷い、地上に留まり続ける場合があります。

また、迷った人間の霊だけでなく、いわゆる「物の怪(もののけ)」と呼ばれる動物霊も存在します(人間から堕落した存在もあります)。これらは動物的本能しか持っていないので、自分さえ良ければいい、周りに迷惑がかかっても何も気にしない等のネガティブな波動をまとっています。

生きている人間が慢性的にネガティブな想いを抱いていると、低級霊の波動と同調し、さらに運命を悪化させてしまうことがあります。まさに「泣きっ面に蜂」ですね。

普段からポジティブな想いを保っていると、守護霊や指導霊などの高次元存在と同調しやすくなるのは前述の通りですが(意識して感謝しているとさらに良し)、この逆のことが起こるのです。悪い意味で「ツイてる」状態になってしまうのです。この憑依した低級霊を取り除くことを「除霊」と呼びます。

ただ、「除霊」と「浄霊」は似て非なるものです。いくら「除霊」しても、「低級霊自身の改善」および「憑依された本人の波動(想念)の改善」、つまり「浄霊」に至らなければ、また同じような憑依を受けてしまう可能性が高いのです。

昔の心霊番組で霊能者が低級霊に向かって「悪霊退散!エイッ!」なんて叫んでいたのは「除霊行為」です。あれは気合(というか、半ば恫喝)で一時的に「低級霊を引きはがす」だけです。引きはがしただけなので、そのうちまたネガティブな人にツイてしまうというわけです。

本当は低級霊そのものに「道」を親切に説き、「そうか、自分は間違っていたんだな」とか「あぁ、こんな自分でもやり直せるんだな」とか、心の底から悔い改め「成仏」してもらわないといけないのです。

一方、憑依される側に対しては、ネガティブな波動(想念)の改善をしていく必要があるのです。想いがポジティブにならない限り、除霊で一時的には良くなってもまたいつか憑依に遭う可能性が高いからです。

このように、憑依した低級霊の波動」と「憑依された本人の波動」を改善していくことを「浄霊」と呼びます。

なお、浄霊に関しては個人セッションを受けていただいた後、必要であれば「波動調整」を行っていますので、ご興味があれば以下をご覧ください。

Q:神社には、本当にご利益(ごりやく)があるのですか?

神社のしめ縄

「ご利益」はあるにはあるのでしょうが、その実現の度合いは「自分自身が神であると信ずる」「内なる力を信ずる」度合いに応じてである、ということを知ることです。お寺の仏像のように、神社には偶像の神はいません。そこには鏡だけがあり、写っているのは「神」である自分自身です。したがって、もし自分の内なる力を信じられなければ、他のどの神様を拝んだところで意味はありません。

例外はありますが・・・
まぁ、最初はまるで「ビギナーズラック」のように「ご神徳」を受けることもあるのですが、ご安心ください、たいていは長く続きませんから(笑)「あとは自分で正当な努力をする」という、真っ当な修行が始まるわけです。「いつまでも神頼みばっかりして甘えてんじゃねーぞ!」と。これは「神の声」ではなく、常識そのものです(笑)

残念ながら、大きな神社を除き、多くの神社の波動(エネルギー)は汚れ、「普通または普通以下の場所」に成り下がっています(ひどいと「不良低級霊の溜まり場」と化しています)。人々のエゴ(私利私欲)の波動を受けて汚れてしまったのです。しかし、女性誌を中心に、特に年末は「パワースポット特集」が組まれますから、そういうものを参考に神社に参拝しては、「なんとなく有り難い気分」になっているのが現状です。気分は大事なので否定まではしませんが、残念ながら「神社に行けば必ずご利益がある」とは自信を持って言えません。

特に、「あの神社にお参りすれば金運アップ」とか「恋愛運アップ」とかで有名になってしまった神社は、全部ではないものの、波動的に汚れている場所は少なくありません。したがって、伊勢や出雲などの別格の神社を除けば、「雑誌やネットではあまり紹介されておらず」「行くのにちょっと不便で」「その地元では由緒ある神社」であれば、波動的に良い神社である可能性が高いです。ただ、私は波動の良い神社への参拝を数多く行うほど良い、という考えではありません。どうぞ「適当」に、という立場です。

先ほども述べたように、神道では「人間は神の分霊(わけみたま)」といいます。繰り返しますが、神社の本殿に「鏡」が置いてあるのは、「神なる自分」を思い出し、「神なる自分」を拝むためです。ご利益を得る力はすでに与えれていることを再認識し、さらにその力によって生かされていることに感謝する。「真のパワースポットは私そのものである」と思い出す。これが参拝の目的です。そもそも、私たちの内に神なるものを感ずる感性がなければ、神社でパワーを感ずることはできないのです。私はこのように理解をしているので、意外かもしれませんが、神社には数多く参拝いたしません。

「神社は感謝をする場であって、お願い事をする場ではない」と言う方がおられます。その通りだと思いますが、別の考えもあります。「人間には欲があるのが当たり前なのだから、それを否定する必要はない。もしお願い事があれば、本気で祈れば良い」と。ただ、単なる他力本願ではなく「一生懸命やるので、どうぞご支援ください!」と成就への行動に重きを置いて祈ることです。事業家が投資家にプレゼンテーションするように祈っても良いと思うのです。依存的な願いが大半の中、そのような独立心の強い誓いは神様も意気に感じ、きっと何らかの「無償の投資」をしてくださることでしょう。

ただし、そのときのお願い事は、できる限り「自分の心の成長」かつ「世のため人のため」になるものが望ましい(それは神の望みでもあります)。エゴ的な欲望でも、想いが強ければ成就の可能性は高いです。実際「成功者」と言われている人たちには、念力(ねんりょく)の強い方が少なくありません。しかし、それがエゴ的な欲望に基づき、成就への過程でたくさんの人々や環境を傷つけた場合、いわば「魂の借金」をするようなもの。必ずどこかで「返済」を迫られます。

例えば、多くの富は得られても家庭が崩壊したり、子どもが罪を犯したり、人に騙されたり、事故に遭ったりします。豪邸を建てた芸能人の一部の方々が、後になぜか厄災に見舞われるというのは、そういった「天のバランス」が働いているのかもしれません。そういうことがあまりなかったとしても、死後「あの世」で苦労するなど、必ずどこかで帳尻を合わせることになります(もちろん正当に働いて得た収入の範囲内で、豊かさを味わうことは良いことですよ。そうでないと景気は循環しませんからね。余裕のある人はどんどん使ってください)。

もし、私たちがエゴではなく「愛と調和」の想いを持って参拝を積み重ねるなら、汚れた神社も少しずつ浄まっていき、神様も戻って来やすくなるでしょう。神社の手水舎(てみずや)では手だけではなく、想いまで浄める心がけが大切なのです。本来は全身を水で浄める「水垢離(みずごり)」が簡略化されたのが「手を洗う」行為ですから、その精神を忘れないことです。

なお、私は神社に参拝するときは、ときには願いごともするし、感謝だけするということもあります。自営業のはしくれですから、例えば新年の参拝は「今年はこんな感じにしたいです!どうぞお導きください!」と祈ることもあります(その後「神様のメッセージ」としておみくじを引きます。大吉でも大凶でも感謝です)。また波動の汚れてしまっている神社であれば、祝詞を唱え、ささやかでもお浄めをさせていただくこともあります。そもそも神道には他宗教のような決まった戒律がないので、ふざけるのはもちろんダメですが、「適当」で良いのではないかと思います。その適当さがあるから、他宗教と衝突することがない。これが神道の素晴らしさだと思うのですが、いかがでしょうか。

パワースポットに行くことより、自らがパワースポットになること。そうすれば、何も一心不乱に拝まなくたって、本当に必要なご利益は与えられることでしょう。


パート1・2ともに読んでいただきまして、ありがとうございます。決して以上がすべてではありません。私自身の成長とともに、アップデートしていくつもりです(すでに何回も加筆修正しています)。

なお、「もっと細やかな部分が知りたい」「文章ではなく対面で学びたい」という方は、以下の「マジスピ塾」にお越しいただければと思います。


「パート1」に戻りたい方は以下からどうぞ。


2018/08/13 更新