11月11日「人生を変える断食」講座を開催します!

生かされている「いのち」を活かす

いのちを育む

少し日が開きましたが、ゆるーく更新していきたいと思います。現段階では月に1~2回投稿できたらOKということにいたします(ただ、できなくともまあ良い、という気持ちもあります)。

最近はホームページの細かい修正や更新を行っていました。ささやかながらブログに着手したことにより、他の部分も以前より深く見直すことになったからです。過去の文章を読み直していますと、わかりにくかったり、理解が浅かったりしている箇所があることに気がつきます。それらを修正するということは、同時に自分の成長の軌跡を振り返るということでもあります。

単なる情報発信や宣伝ではなく、それを通じて表現を鍛えるということ。ここに「仕事を通じて、己を磨く」という日本における深い労働観が、私の小さな仕事の中にも息づいている、ということを感じます。「働くということは、仏道修行である」と、ある仏者が語ったとされる言葉も、そこから発されたものでしょう。昨今では欧米発の経済合理主義に基づく労働観が我が国を席巻したかに見えますが、根底において日本古来の労働観は失われていないと思います。

「働くということは、仏道修行である」。ただ、我が国においては、何も「仏道」に限らず、神道でもキリスト教でもイスラム教でも良いのでしょう。われわれ日本人の深層意識には、宗教宗派を問わず、すべてを「道」とする思想がある。これは日本が誇る精神性ではないかと思います。この「精神性」こそ、言葉の本来の意味での「スピリチュアル」あるいは「スピリチュアリティ(霊性)」なのです。オーラとか過去世とかは、ほんの一端に過ぎません。

さて、ここから本題です。この「霊性」ということを見つめるとき、「私は守護霊さんに守られている」「私は宇宙から愛されている」「生かされていて有り難い」などのスピリチュアルな感覚というのは、無いよりあった方が人生を豊かにする、ということが私の価値観です。逆に「目に見えないものなど信じない」とする価値観でも生きてはいけるでしょうが、果たしてその構えで有為転変の人生を支えてゆけるのかどうか、勝手ながら少し心もとないものを感じます。とはいえ、「守られている」「愛されている」という感覚がいまだ行いに現れていないとすれば、それはまだ観念の域を出ていないと言わざるを得ません。

職業柄、いろんな方々の波動(オーラ)を拝見します。そうすると、ときおり次のような意外な発見があるのです。それは、スピリチュアル的な事柄が好きで、「生かされていることに感謝」とか「ワンネス(すべては一つ)」とか常々言っている人よりも、別にスピリチュアルには興味ないけれど、仕事や家事を楽しみ、周囲に喜ばれることを何気なく行っている人の方が、ずっと波動が輝いていることがあるのです。

もちろんすべてのケースに当てはまるわけではありませんが、このエピソードは私も含めた「スピリチュアル好き」は、特に自戒とされた方が良いでしょう。いくらスピリチュアルな知識があっても、それを実行しない、あるいは深い自己省察に至っていないとすれば、いくら「生かされている、有り難い、みんなつながっている」と口にしたところで、本当の意味で霊的に深い境涯にあるとはいえません。いえ、生じっか知識があるだけに、かえって霊的成長を阻害するといえるでしょう。イエスも「主よ、主よ、と言うだけの者が天国に入れるわけではない」という意味の言葉を残されているようです。

本当に生かされているという自覚があるなら、必ずやその「生かされている『いのち』を活かす」という方向に向かうはずなのです。生かされているという自覚は、必ず「強く・深く・広く・尊く生きる」という「いのちを活かす」態度へと転回してゆくはずなのです。たとえ小さくとも、「一隅を照らす光」へと変容してゆくはずなのです。もしそうでなければ、やはり観念的であり、さらに言えばエゴによる表層的な「スピリチュアルポーズ」といえます。

本当にスピリチュアルを学ぶというのは、自分自身の霊性を開発すること、わかりやすく言えば「人としての道」を常に問うて生きることです。「あの世の事柄」を学ぶのは、本来はあの世と表裏一体であるところのこの世を生きるためです。したがって、スピリチュアルな知識が足下の実践へと向かわない段階は、ワンネス(すべては一つ)と言いながら、実はこの世とあの世が分離している、さらに言えば自分の中の物質性と精神性・霊性が分離している、ということになってしまうのです。その姿は、いくら美しいポーズを取っていたとしても、波動(オーラ)には明瞭に現れます。

もちろん、まず知ることが大切であるのは言うまでもありませんが、その先へ具体的に歩むことがなければ、それは知らないことと同じだ、という厳しい見方もあるのです。特にスピリチュアル方面の知識というのは、それが目に見えない事柄を扱っているため、ともすると観念的な段階で満足してしまう懸念があります。私のような「スピ好き」な人は、特に心すべきことでしょう。