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写真集『メメント・モリ』は、本物の人生・運命を歩むには死を見つめる以外ない真実を突きつけてくる。


(写真は藤原新也『日々の一滴』より)

お名前だけで人やモノのオーラ(波動)がわかる、波動カウンセラーの林 昭裕です(「詳しい自己紹介はこちら」)。

【マジスピ】(真のスピリチュアル・脱お花畑スピリチュアル)をテーマに情報発信しています。

今回はロングセラー写真集『メメント・モリ』(藤原新也・著)を久々に読み返して考えたことを言葉にしてみようと思います。

「メメント・モリ」とはラテン語で【死を想え/死を忘れるな】という意味です。

今回はこの写真集のネタバレレビューはせず、あくまで自分の所感を述べるまでです。

この写真集は都市文明に生きている私たちが絶対に触れられない世界が描かれています。

価値観を揺さぶるショッキングな写真も一部掲載されているので、ぜひお手にとってチャレンジしてみてください。

(※なお、これから本題に入りますが今回はいつもの「ですます調」でなく「~だ、~である調」で語ります。なんだかそういう気分なので)


以前、

「死生観の欠けたスピリチュアルは、寝言かお花畑である」

という音声配信をしたことがある。

ブログも書いた。

「魂」を見つめるのに「死」を考えることは必要不可欠なのに、いわゆる普通のスピリチュアルにおいて死生観について語っているのをあまり見たことがない。

「あの世」については語るのに、最大にして最深の現実的問題である「死」については触れない。

それどころか、やれ金運だ、やれ恋愛運だ、やれ幸福になりたいなどと「生の充実」ばかり語る。

なぜそこらへんのスピリチュアルが「生の充実」しか語らないかといえば、「死」を語ってもビジネスにならないからだ。

お金や恋愛や健康などの「生(性)の欲望」を刺激した方が、文字通りお金になりやすいからだ。

そして、それは人々の「死から目を背けたい」という肉体に根ざした欲求を満たすものでもあるからだ。

だから大半のスピリチュアル系は「引き寄せ」を筆頭に「生の充実」ばかりを語る。

需要と供給がマッチングして、「ウィンウィン」で何より。

もちろん「ニーズ」に寄り添うのはビジネスの基本だ。

しかし、それらは断じて「スピリチュアル」ではない。

スピリチュアルの皮を被った「成功ビジネス」なのだ。

しかも「誰でも」「ラクして」「思いのままに」という保証付きだってよ。

一方、こちとら【マジスピ(真のスピリチュアル)】として、決して儲からないであろう死について語っている。

少し前、ある人気物件の波動(エネルギー)の鑑定依頼があった。

見事に一桁が「4」の部屋だけ空いていた。

こうして「4=死」は忌み嫌われる。

しかし、本来は死こそ、最も身近に置いておくべきものなのだ。

私なら喜んで「4」の部屋に入る。

たとえ儲からなくとも、たとえ注目されなくとも、「死」は魂にとって最も大事なことだから、私は語り続ける。

いくら生を充実させたとしても、その「生」は宇宙からすれば一瞬で過ぎ去るものなのに、そこからいつまで目を背けたまま生きるのか?

死から目を背けるための「生の充実させるためのお得なプラン」として、今日もこうすれば幸せになれるよ、夢が叶うよ、あなたらしく生きられるよ、しかもラクして簡単に! という妄想やファンタジーが蔓延する。

しかし、いくら策を弄したとて、死から完全に逃げ切ることなど、絶対不可能。

すべてを無に帰する死は、そう遠くないうちにやってくる。

「朝に紅顔ありて、夕べに白骨となる」

葬式で坊主がよく唱える一節、あなたもご存知かもしれない。

これを坊主は亡くなった故人に言っているのではない。

ちょっと考えたら、もう白骨と化した故人にわざわざ言う必要はないとわかるだろう。

坊主は前を向いて唱えているからわかりにくいが、本当は後ろにいる私たちに向かって言っているのだ。

「ワシもお前らも、そう遠くないうちに白骨じゃ」と。

だから、死の学びは、死の予習は、できるだけ早い方がいい。

多くの人は死を見つめることを怖がるだろうが、本当は怖くないのだ。

死は自然現象であり、生あるものの絶対的宿命なのだから、本当は静かに受け入れるだけなのだ。

普段から死を考え、学び、観じていれば、怖くなることは絶対ない。

今日も、日はまた昇り、そしてまた沈む。

生も死も、これと全く同じではないか。

例の感染症で人々の多くが怖れたのは「死そのもの」ではない。

怖れたのは、肉体が「未知の痛み」に襲われるであろうこと。

それによって、安定した社会生活が崩れ去るであろうこと。

そして、感染者になることによって、周囲から忌み嫌われ村八分にされるかもしれないことをこそ怖れた。

これらはすべて「生=肉体への執着」に過ぎない。

もし多くの人が死生観をそれなりに確立していたなら、いま思えば軽度の流行り病ごときであれほどバカ騒ぎすることはなかっただろう。

私はあの最中(以下の動画は2020年3月31日配信)から「コロナでなくとも人は死ぬ(のだからギャーギャー騒ぐんじゃねえ)」と言っていたが、多勢に無勢だった。

もちろんあのバカ騒ぎはマスコミを中心とした洗脳と扇動によって作為されたわけだが、逆に言えば多くの人々が普段からいかに死を見つめずに生きているかが露呈された形でもある。

これは物質文明が栄えることによって、反比例するかのように精神文明が衰退している結果だ。

スピリチュアル系のみならずいろんな識者が言っている「物心ともに豊かになる」ことを本当に求めるなら、今こそ死を見据えなければならない。

死を見据えたその先に、「生まれる前の世界」=「死んだ後の世界」がある。

それは大宇宙であり大生命であり、私たちの魂の故郷、大いなる実家なのだ。

「実家」に帰省ことが、怖くないわけないだろう。

それは肉体に付随する恐怖心を超え、静かに死を見つめ続けていれば、必ずわかるときがくる。

物質世界だけを眺めても、「大いなる叡智」はこれほど壮大かつ複雑な秩序を生み出しているのだ。

まして、これが肉眼や物質科学ではまだわからない「霊的世界」や「神霊世界」まで含めたら、いったいどこまで宇宙は広がっているのだろうか。

私たちが死んだ後に還る故郷は、そういう世界なのだ。

もちろんときどき言っている通り、「死後の世界」のありようは私たちの今生の波動(オーラ)がどれだけ磨き高め上げたかで変わってくる。

「地獄の心の持ち主」がそれにふさわしい世界へ旅立つのは、私の限られた霊的感覚をもってしてもわかる。

ただ、それすらも含め「大いなる叡智」の一つなのだと考えたとき、

私にとって死を見つめることは、夜の満天の星々を眺めることに近い。

私も最初は死が怖い、できれば見つめたくない気持ちがあった。

死を見つめることが逃れるために、無駄な抵抗を試みた時期もあった。

けれども、どう考えても、また先人の優れた教えに触れても、この人生において「死」以上に大切な絶対的真理は他に見当たらなかった。

また冒頭で述べた通り、表面的にはいくら崇高で高邁なことを言おうとも「死生観」が欠けた瞬間、途端に低次元に堕することを観じざるを得なかった。

それゆえ死を自分なりに考え続けているうち、

大切なのはただ死を見ることではなく、その先にある「大いなる生命世界」までを見据えることだと気づいた。

この直観に立たなければ、決して「死生を超える」ことはできない。

私はたまたま波動的な世界が普通の人より少しだけ垣間見られる特異体質であるがゆえに、死の先にある「生命世界」を観ずることは、満天の星空を見上げることに近いとわかった。

いや、私たち一般人が夜空の星々に心を奪われているとき、実は「魂の故郷」を思い出しているのではないだろうか。

なぜか懐かしい感覚、そしてあの向こう側に行ってみたいという憧れ。

それは神の分霊(わけみたま)としての私たちが、「大元」としての大宇宙に帰還したいと願う理屈抜きの衝動ではないのか。

こういうことを考え続けていくと、やがて死への恐怖は皆無になる。

それどころか、死を想うことは「大元」の大生命と交流・交差・交歓するための「祈り」にも等しいことを知るだろう。

私たちが一般的に怖がるのは、ただ病や事故などを通じて感じる肉体的苦痛であって、それは死への恐怖とは全く関係ない。

もちろん肉体的苦痛はできれば味わいたくないが、それとて宇宙の永遠なる時間からすれば一瞬のこと。

これが覚悟できれば、苦痛も苦悩もいくぶんかは和らぐだろう。

「死」と「肉体的苦痛」とを混同することに注意すれば、死を見つめることはそう難しくないとわかる。

もちろん「生への執着」があるほど死は見たくないが、遅かれ早かれそれはやってくる。

「借金取り」と「死」はいくら抵抗しても確実にやってくるのだから、無駄な抵抗はやめなさい。

さあ、ここまでお読みいただければ死を見つめることはマジスピ(真のスピリチュアル)の必須科目であることがおわかりいただけるだろう。

そして、巷にあふれているスピリチュアルがいかに「死を忘れさせる」ソフトドラッグなのかもわかるはずだ。

そういう表層的なものにワクワクするほど、人生は決して長くない。


今回はこれで終わりですが、もう少しだけ。

死を見つめるにあたって、写真集『メメント・モリ』(藤原新也・著)はとても参考になるでしょう。

肝心なのは写真ですが実は文章のセンスも優れているので、以下にまえがきの言葉を紹介して終わりにします。

本当の死が見えないと本当の生も生きられない。等身大の実物の生活をするためには、等身大の実物の生死を感じる意識を高めなくてはならない。

 

死は生の水準器のようなもの。

 

死は生のアリバイである。

 

MEMENTO – MORI

 

この言葉は、ペストが蔓延り、生が刹那、享楽的になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語である。その言葉の傘の下には、わたしのこれまでの生と死に関するささやかな経験と実感がある。

・・・いま引用して気がつきましたが、ペストが流行った頃に「メメント・モリ」の言葉が多用されたんですね。

ならば、その脅威はペストに全く及ばないが、例の感染症で「未曾有の危機」を味わったであろう現代に生きる私たちは、今こそ「メメント・モリ」を心に刻むべきではないでしょうか。

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