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林 昭裕(マジスピ)の詳しい自己紹介

林 昭裕のプロフィール写真

(有形文化財『百段階段』にて)

まずは簡単な自己紹介

お名前だけで、人やモノのオーラ(波動)がわかるスピリチュアルカウンセラー

 

25歳ごろ「師との出会い」からスピリチュアルな能力が「修行ゼロ」で開花

 

現在は千葉県松戸市を拠点に「スピリチュアルセッション」や「カウンセリング」や「講座やセミナー」などを行っている

 

既婚。


最初に読んでいただきたいのは「ごあいさつ」のページです。この詳しい自己紹介のページは結構長いので、もしまだであれば、「ごあいさつ」から読んでいただければと思います。

ごあいさつ

詳しい自己紹介

特に「スピリチュアル」の分野では、多少とも「人となり」を知っていただくことが大事だと思うので、ここで詳しく自己紹介いたします。

霊感が全くなかった幼少期

幼少期のころ過ごした武庫川
(兵庫県は武庫川の近くで育ちました)

兵庫県尼崎市に生まれ、個人事業主の父と専業主婦の母の家庭で普通に育ちました。

霊感は全くありませんでした。

子どものころ「何か “この世ならざるもの” が見えていた」とか「亡くなったおじいちゃんが視える」とかのエピソードは皆無です。

ただ小学校1年生か2年生の通知簿に「協調性が足りません」とハッキリ書かれていたので、少し変わった少年ではあったと思います(だから今はフリーランスなわけですね)。

中1の頃に大阪に引っ越し、それから高校は地元の進学校に進んだものの、ここで

「何のために勉強するのか」

という問いを抱えてしまい、それを解決するのに何の役にも立たない受験勉強は早々に放棄しました。

その頃から両親や先生の大半との間にさまざまな葛藤を抱えたことにより、「人生や社会に対する根本的な疑問」を沸き立たせることになりました。

・人生とは何なのか?

 

・生きているとはどういうことか?

 

・いかに生きていけばいいのか?

といった問いに対して思い悩み、哲学・思想・宗教、また松下幸之助など偉大な経営者による生き方の本などを読んでいました(スピリチュアル系はまだほとんど触れていません)。

その一方で、葛藤のはけ口として水泳部の活動に打ち込みました(華奢な体格ですが一応は体育会系です)。

「住み込み新聞配達員」の浪人時代

かつて働いた新聞店
(かつて働いていた新聞店。今も営業されているようです)

卒業後は1年ほどバイト暮らしでしたが「大学に行け!」と言う親に猛烈に反発し、その勢いでアテもなく東京まで家出しました。

たまたま求人で見つけた「住み込みの新聞配達員」に応募して、朝2時起きで働くことになったのです。

有名な進学校出身者の「就職先」が “住み込みの新聞配達員” というのは、学校の歴史始まって以来の「珍事」でした。

プレッシャーから逃れた当初は気楽でしたが、「関東言葉」が生理的に嫌で「~じゃん」と聞くと反射的にイラッとしていました・・・。

それで職場の人間とはあまりコミュニケーションを取らず、地元の友人とも一切連絡を取らなかったので、だんだん孤独感が深まっていきました(友人の間では「林・死亡説」が流れていたようです)。

人生に夢や目標を持っていたらまだ良かったのですが、当時は「自分は何をしたらいいのか」全く見当がつかず、流されて生きる毎日でした。

ただ、心の底では「打ち込める何か」が強く欲しかったので、だんだんやり場のないフラストレーションが溜まっていきます。

たとえ両親や学校の支配から逃れたとしても、主体的でなければ、どこにいても何も変わらない。

そうして自分のエネルギーを持て余し、結局「過食症」「円形脱毛症」に陥ってしまいました。

その頃の記憶は、実は今でもあまり思い出せません。

それだけ自分にとっては「灰色の季節」だったのでしょう。

ところが当時から20年ほど経ったあるとき、急に視界が晴れるように「思い出せる」ようになりました。ようやくこの時期の苦悩を、完全に受け入れられるようになったのでしょう

そんな精神的に不安定なある朝、バイクで新聞配達中、牛乳配達の軽トラックと「衝突事故」に。

命に別条はなかったものの、右肩の骨折で入院することになったのです(今も右肩には手術の跡が残っています)。

退院直後、たまたま電話をかけてきてくださった高校の恩師であるN先生に

「大阪に帰ってやり直しなさい」

という助言を受けました。

せっかく上京したのに、何も結果を残さず出戻るのは不服でした。

かといって、具体的な目標を欠いた状態ではどうしようもない自分の未熟さを思い知ったので、仕方なく実家に戻ることにしました。

このとき、ふと

 

「もし入院中だったらN先生と電話できなかったのに、退院直後のタイミングで電話があるとは・・・」

 

と不思議に感じたのです。

 

「・・・もしかして、人生は『何か』に導かれているのではないか???」

 

証明はできないけれど、なぜかそんな気がしました。

 

このことが「原体験」となり、それから「スピリチュアル」に興味を持ち始めることになります。


ちなみに、N先生とはそれから約20年後に再会することができました。

「先生のあの一言がなければ、運命はさらに悪い方向に傾いていたと思います」と、20年越しに当時の未熟さに対するお詫びと、そして感謝をお伝えすることができました。

そして、高校時代の苦悩が「魂の原点」となり、それから紆余曲折を経て、小規模ではあるが自分の納得いく人生を歩める環境に恵まれていることをご報告できたのでした。

人は「ご縁」によって生かされていることを深く味わうことが、真の幸福なのでしょう。

なお、以下のお菓子の写真はN先生に買っていただいたものです。

大阪駅改札近くのカフェで、東京行き新幹線の終電間際までN先生と話し込んでいたのですが、その後あわてて新幹線のチケットを券売機で購入している最中、近くのお土産屋さんで急いで買っていただきました。

よくあるお土産ですが、私にとっては貴重なものです。

バイトとサークルに打ち込んだ大学生時代

学生サークルの一コマ
(サークル活動の一コマ。企業の合同説明会前の打ち合わせでのスピーチ)

「受験勉強はやっぱり嫌だからしたくないけど、とりあえず大学には行っておこう」と思いました。

父は酒好きであまり働かなかったため実家は裕福ではなく、某大学へ学費は奨学金を借りて全額自己負担で入りました。

(大学卒業後、奨学金は十数年間かけ、ようやく完済しました)

せっかく受験から解放されたのに、進学校だった高校の同級生より3年遅れで入学し、かつランクのはるかに低いところで、しかも学費は全部自分で払わないといけないのか・・・と、しばらく「深い劣等感」に苦しみました。

(ところが在学中では明らかに「劣等生」だった自分が、卒業して十数年経った同窓会では、上場企業や霞が関で働く同級生から逆に「うらやましい」「ユニークな生き方」だと言われるのは、なんとも奇妙なものです)

専攻は哲学科だったものの、ただ外国の文献を翻訳するだけの授業に「生きた学問」は全く感じられませんでした。

それで2年生のときラクな社会学部に転部してしまい、その後は授業にほとんど出なくなりました。

代わりに地元の「牛角」でリーダー格になるほど接客バイトに明け暮れました(現在その店舗はもうありません)。

今の牛角もそうだと思いますが、ここはやる気さえあればいろんな社会勉強のチャンスを与えてくれたので、実に楽しかった。

これまでの孤独だった環境とは真逆で、しばらくの間、多くの人に会う日々を過ごすことになります。

この時期に稼いだお金の大半は、スピリチュアル、心理学、哲学の本やセミナーを中心に投資しました。

いま講座のメニューになっている「レイキヒーリング」(スピリチュアル的なヒーリングの基本メソッド)を学んだのもこの頃です。

最初に通ったレイキスクールの先生の影響で、「ヒーリングミュージック」や「オラクルカード」や「パワーストーン」や「神社めぐり」など、一般的なスピリチュアルは一通り体験したと思います。

霊的な能力はまだ開花していなかったのですが、いわばその「準備段階」としてスピリチュアルな世界に足を踏み入れていました。

そして、大学時代の後半は(自分も就活中の学生のくせに)企業と就職活動中の学生をつなぐイベントを企画運営するサークルで、「約80人の統括リーダー」を務めるほど打ち込みました。

(そのときの写真が上に載せたものです)

もともと「リーダー格」ではないものの、非常に志の高い仲間に恵まれたので、そのイベントは近年の中では一番成功したようです。

この通りバイトとサークル活動はめちゃくちゃ充実していたし、付き合ったり片思いで終わったりという恋愛も一通り経験したので、少し遅かったけれど「輝いた青春」を過ごしました。

当時よく聞いていた「globe」の曲を聞き返すと、今でもそのときの「熱」が湧き起こりますね。

なお、この時期は少しでも興味があるスピリチュアル系に首を突っ込んでいたため、例えば

 

・「言っていること」と「やっていること」が全然違うスピ系

 

・社会常識を欠いた「お花畑」なスピ系

 

・人を騙したり脅したりして商売につなげようとするスピ系

 

を実際にこの目で見ました。

 

また、会った当初は「いい人だな」と思ったけど、後になってそれが裏切られるようなケースもありました。

 

そういう体験から、

 

・「本当に良いスピリチュアルの仕事をしたい」

 

・「人を騙したり脅したりは絶対にしたくない」

 

・「あくまで地に足のついたスピリチュアルを求めたい」

 

という思いがあり、そこから【マジスピ】というテーマを掲げています。

サラリーマン時代とスピリチュアル能力の開花

サラリーマン時代2
(サラリーマン時代、ある研修での一コマ)

卒論を3日で何とか仕上げ、単位ギリギリで大学卒業後、某食品メーカーに営業として就職、再び上京しました。

当時はお金がなかったので「風呂なしアパート」に住んでいました(文京区だったのでボロアパートでも家賃は高かったですが・・・)。

そんな新入社員時代は、「組織に向いていなかった」ので精神的にかなりキツかったですね。

ただ、就職先は「初めての新卒採用」だったので、教育や研修には惜しみなく投資をしていただきました。

その学びの中には「心理学の研修」があり、それがめちゃくちゃ楽しかったので、当時の講師の先生とは深夜までよく飲んで、人生について語り合っていました。

その影響で、その後いくつかの「カウンセリングスクール」に通うようになります。

そんな中、新入社員として最初に仕えたのは「鬼の上司のSさん」で、自分の至らない点をこれでもかと指摘されました。

入社当時「住み込みで新聞配達もしていたし、オレは人より少しは苦労した方かな」と慢心していた自分を、Sさんはかなり理不尽に感じるやり方で、徹底的に叩き潰してくれたのです。

もう二度とあんな上司には仕えたくない・・・けれど、いま振り返れば一番有り難い存在です。

その一方プライベートでは、「三角関係」を原因とした大きな失恋を味わいました。

当時社内恋愛で付き合っていた彼女を、ほぼ同期入社の別部署で働く男性に奪われたのです。

数年前の「住み込み新聞配達員」の孤独の悩みとは、完全に別次元の苦しみ。

本当に気が狂いそうな時期でした。

(幸いなことにその数年後、相手の男性とは心から和解できましたが・・・)

こうして最も落ち込んでいた時期に、スピリチュアルな能力が目覚めるきっかけとなった師匠と巡り合ったのです。

 

初対面で「あなたは将来、スピリチュアルな仕事をするでしょうね」と言われたことが、すべてのはじまり。

 

半信半疑でしたが、それから不思議と短期間で、スピリチュアルな能力が開花していきました。

先ほど少し触れたように、高校時代からずっと「人は何のために生きるんだろう?」という問いを持って、スピリチュアル、心理学、哲学などを勉強してきました。

そして、多少の霊的な能力を得たために、スピリチュアルな探求はさらに進むことになったのです。

ただし、「意識のスイッチ」さえ入れなければ霊的な感覚は動かないので、別に能力が開花しようとも、以前と変わらずに過ごすことができました。

「スピリチュアルでは食っていけない」葛藤

サラリーマンしながら自分の仕事を
(「週末起業」のセミナーの一コマ)

28歳ごろからサラリーマンとして働きながら「週末起業」として、カウンセリングやセミナーを行っていました。

そういえば、学生時代から友人に「これは親にも恋人にも言ってないことなんだけど・・・」と、密かな悩みを打ち明けられたことが何回かありました。

もしかしたら、「こいつに相談してみようかな」と感じさせる何かが、私の中にあるのかもしれません。

そういった経験も手伝って、人の悩みをお聞きするのは、自分にとって不自然なことではありませんでした。

当時のセミナーに関しては、まだ営業サラリーマンだったので写真の通り、スーツを着ることが多かったですね(今は冠婚葬祭以外ではほぼ着なくなりましたが)。

これらの活動は無料はお茶代程度のご負担で行っていたものの、そのうち「すごく良かったので、ちゃんと支払いをさせてほしい」という方が出てきたのは、とても有り難いことでした。

カウンセリングで最初にいただいた金額は、3,000円。

最初はすべて無料(お茶代のみご負担)で行っていたのですが、そのうち「無料では申し訳ない。お支払いしたいです」という方が現れたのです。

たとえ3,000円でも、自分がやりたいことで初めてお金をいただけたという体験は、いま思い出しても胸が熱くなります。

その喜びを胸に、いつかはちゃんと独立しようと思い、それまでの「つなぎ仕事」として正社員から派遣社員にシフトダウンしました。

ただ、一方で

・「スピリチュアルは怪しい・・・あまり理解されないだろうな」

 

・「自分がやりたいのは本格的なスピリチュアル(今の【マジスピ】)であって、軽いやつではない・・・」

 

・「そんなお硬いシロモノに興味を持ってくれる人が、いったいどれぐらい存在するんだろうか・・・」

といった怖れが強く、そのうち「スピリチュアルで食っていくのは難しい」とあきらめるようになりました。

せっかく「つなぎ」で派遣社員をやっていたのに、また正社員に舞い戻ってしまったのです。

完全独立への決心と奇跡

六本木ヒルズ
(それは六本木ヒルズでの集まりでした)

納得しない限り言うことを聞かない生意気な自分でも、10年ほどサラリーマンをやってきたので、やろうと思えば「空気を読んでテキトーにやり過ごす」こともできるようになりました。

「給料はガマン料」とも言うし、スピリチュアルは「趣味程度」にやればいいかな・・・。

当時同棲していた彼女と婚約もしたし、オレはこれからちゃんとした仕事をして、家庭を築いていかないといけないのかな・・・。

けれども「もう一人の自分」は、

「このままでは、オレは精神的に死んでしまう・・・」

と正直に思っていました。

その「声」がだんだん大きくなっていき、会社勤めが文字通り「死ぬほど」イヤになってきたのです。

この時期、不思議なことがありました。

時計が立て続けに止まったり、買ったばかりのパソコンが完全に故障したり、履いていた靴が「ワニの口」のようにパックリ割れたりしたのです。

まるで、「オマエ、早く決意しないとダメだぞ!!」とでも言われているかのように。

そして・・・ある日、ようやく完全に独立を強く決意しました。

まぁ「決意した」というよりは、「追い込まれて逃げ道がなく、もう前に進むしかなかった」というのが正直なところですけど。

その2日後、六本木である経営者の方々との出会いがありました。

 

聞かれるままにいろんな人のオーラ(波動)を指摘していると、その中のスピリチュアル好きな方が、

 

「林くん、めちゃくちゃ面白いね!応援するから独立して頑張りなよ!」

 

と背中をドーンと押してくださり、その後たくさんのお仕事を頂戴することで、たちまち軌道に乗れたのです。

 

(その方とは、今でもお付き合いをさせていただいています)

決心してからリアルに2日後ですからね・・・

これは「めっちゃツイてる!」としか言いようのない不思議な展開でした。

ただ、単なる偶然ではなく、おそらくここには「決心の強さ」も関係しているのでしょう。

本気で決心すれば、すべてがそうだとは言い切れないけれど、現実が変わることもある・・・それを実感しました。

そして現在へ



生まれつき何の霊感もなく、多少遠回りはしたけれども平凡な経歴だった自分が、いまスピリチュアルな仕事をしているというのは、とても不思議です。

最初から自分で志したわけではないので、ここには「大きな流れ」「意図を超えた導き」というものも介在していると思われます。

そこに働いているであろう「大いなる恩恵」に対し、私は心から感謝を捧げたい。

 

そして、恵まれた運命であればこそ、「天命」が課してくる義務を遂行する責任がある。

おかげさまで、これまで約2500件以上のスピリチュアルセッションをお受けしてきました。

先ほど「決意したら、すべてうまくいった」ような書きぶりをしましたが、もちろん「奇跡」が長続きするわけがありません。

今でも、悩み、迷いながら、それでも何とか前を向きながら試行錯誤しています。

当初の不安だった「食っていけるかどうか」は、もはや問題ではありません。

「本当に、自分の魂の道を歩んでいるのか?」

「本当に、人の役に立っているのか?」

「本当に、これまで受けた恩に報いられているのか?」

それだけが問われているような気がします。

最後に:運命をすべて受け容れるということ

このページはあなたへの「自己紹介」のために作っていますが、同時に「自分がこれまで受けてきた恩」を振り返るためでもあります。

運命を十分に活かすには、自分がこれまで与えられた体験を、個人的な好き嫌いを抜きにして、すべて心から受け容れなければなりません。

これを「『引き寄せ』より『引き受け』の方がずっと大事だ」と長く主張しています。

私は理屈っぽくて生意気であるため、両親や先生や会社の上司など「目上の人々」にかなり反発してきました。

それは上記の通り、私の人格や運命を形成したのは、間違いのない事実です。

しかし、それと同時に、いかに自分が狭い物の見方しかできなかったかも痛感しています。

「すべての出来事には、恩恵が隠されている」

私はそれを深く見つめ、感謝をもって受け取るだけの「魂の力」が、まだなかったのです。

今となっては、今さらだけど、両親には感謝をしている。

両親とも「在日韓国人」で、学歴もなく苦労したからこそ、たまたま進学校に入れた息子の自分には「いい大学」に行かせたかった気持ちが、今となってはよくわかる。

特に父は、5歳で父を亡くし、10歳で母も亡くし、その後は親戚の家に預けられた。

そして、病気によって高校を中退している。

そういう境遇であれば、息子の「幸せ」を願うのは、当然のこと。

10代の自分には、それが「押し付け」のように感じられたが。

ただ、いま振り返って、思う。

反発ばかりして、愚かな息子で、本当に申し訳なかった、と。

東日本大震災の翌年の桜の季節、父は、借金苦のため、自殺した。

その数年前に自己破産していたが、また借金を作った。

その苦悩から逃れるように、毎晩酒を浴びる生活が長く続いた。

自殺の少し前、父から電話があり

「アキヒロ、ちょっとカネ貸してくれへんか?」

『誰が貸せるか!酒ばっかり飲まんと、ちゃんと働けや!』

という会話をしたのが、今生の最後の会話となった。

「コイツ、オカンに迷惑ばかりかけよって!ホンマ、はよ死ねや!」と思っていたら、ホンマに死んでしまった。

あれだけ父に反発してきたのに、その遺体を前にしたら、涙が止まらなくなってしまった。

それでも亡くなってから数年は、「仕方がない・・・それも自己責任だから」と思っていた。

ただ、それから時が流れゆくにつれ、父にも父なりの苦悩があったことに、思いを馳せるようになった。

それとともに、「父の自殺」を【自分に与えられた運命】として、受け止め直したい思いが生まれてきた。

「父の存在の、自分にとっての意味」とは?

それを深く考えていったとき、やはり、今の仕事において、苦悩の中にいる方に対し、自分ができる援助をしていくこと。

それ以外に、父の「無念」に報いる道はないのだろう。

いま父のことを想うと、反発したことよりも、なぜか小さな頃、肩車をしてくれた記憶を思い出す。

父は不器用な人だったけど、それでも、オレを愛してくれたんだな。

そして、そんなオレも、不器用だから気がつかなかったけど、父のことを愛していたんだな。

その「愛」にようやく気づいたとき、これからの人生の根本的な目的は、父の「無念」を晴らすことだと思い定めた。

もうこの世では会えないけど、どうか、あの世で見守っていてほしい。