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目次
シルバーバーチの言葉が示す「悲しみ」の意味
今回の文字起こしの要点
- 悲しみや苦悩は、魂の目を覚まさせる、最も深い体験である。
- 人生の理不尽や不合理は苦悩を生み出すが、それが理性の限界を打ち破る。
- 普通のスピリチュアルにありがちな「安楽な人生への祈願」が実現したら、霊的な価値観からすれば「失敗の人生」である。
- この世は「あの世=霊界」で本格的な仕事をするために、魂を鍛える場である。
今日はですね、何回か前にご紹介した、シルバーバーチの言葉を改めて取り上げます。
悲しみ、人生の悲哀や苦難について、シルバーバーチが語っている言葉があります。
メルマガではすでに2、3回ほど紹介していますが、今回はYouTube・Podcastでもお伝えしたいと思い、このテーマにしました。
まずはその言葉を読み上げます。
悲しみは、魂に悟りを開かせる体験の中でも、特に神聖なる意味を持つものです。それが魂の琴線に触れた時、一番よく魂の目を覚まさせるものです。
というものです。
スピリチュアル業界では「悟り」とか「覚醒」といった言葉がよく使われます。
他のスピ系のYouTubeをたまにチェックすると、「覚醒した人の特徴」みたいなタイトルの動画が出ます。
ただ、そこで語られている言葉はなんだか軽くて、ポップでカジュアルな雰囲気になっているように感じます。
でも、本来「悟り」や「覚醒」なんてのは軽い言葉ではないはずですよね。
実際、お名前だけで人の波動(オーラ)を観る私の立場からすれば、自分で自分のことを「覚醒した」「目覚めた」なんて言っている人の大半のオーラは、とてもじゃないが「光に満ちた」ものでは言えない。
やはり、軽々しく言えることではないのです。
一方、上に引用したシルバーバーチの言葉には重厚さを感じます。
彼は「悲しみこそが悟りを開かせるためのとても重要な体験なのだ」と言っています。
悟りは、滝に打たれたり、断食をしたり、瞑想をしたりといった「修行」でも成し得ると思います。
ただ、それは現代においてはごく限られた人の話で、リアリティがない。
工業社会に生きる現代人における「修行」とは、「生老病死」の日常に降りかかってくる理不尽や不合理による苦しみや悲しみの体験に他なりません。
ときに「なんでこんなことが起こるんだろう」と、嫌な気分になったり、深い悲しみに襲われることもあるでしょう。
でも、後から振り返ってみれば、そういった体験こそ、自分の魂の目を開かせるとても重要なきっかけになっていた──
そう思える方も、きっといらっしゃるのではないでしょうか。
個人的なことですが、今回の配信時期のほんの少し前、「まさか、こんなことが……」と思わざるを得ない出来事に直面しています。
それはもう、理不尽で、不合理な体験です。
これによって、今後の人生計画をかなり変更させられてしまうような出来事です。
当初はかなり苦しい思いを味わいましたが、普段から人生や生き方について偉そうなことを言っているので、その実践としてしばらく深い内省の時間を過ごしていました。
私はその中で、上のシルバーバーチの言葉が、以前よりも深く心に染み込んでくるようになりました。
悲しみが魂の目を開かせる――これは理屈抜きでその通りです。
「理不尽」や「不合理」というのは、言葉の通り、理性では到底説明がつかないことです。
私たちの普段の世界は、理性や合理で動いています。
その「理屈」というものが通じず、「頭」が打ち壊されてゆく。
それでもなお耐え忍んでいるうちに、ようやく私たちは角が取れ、素直になっていくのでしょう。
「幸福で安楽な人生」は、本当は失敗に満ちている?
私は禅の世界が割と好きなのですが、禅問答はまさに「不合理の極み」ですよね。
例えば、
「両手で拍手をすると音が鳴る。では、片手で拍手をすると、どんな音がするか?」
これは有名な禅問答『隻手の音聲(せきしゅのおんせい)』です。
現代教育のように、答えはありません。
そんな理不尽な環境の中で、修行者は考えて、考えて、考え抜く。
それでも、答えが出ない。
しかし、理性の限界を超えて考え続ける。
そのうちさすがに精根は尽き果て、中には「これでは全然物にならない……ならば、もう死ぬしかない」と自死を決行しようとした瞬間、ようやく豁然として大悟を得る……なんてすさまじい話も残っています。
もちろん現代の私たちは、なかなかここまでのことはできません。
ただ、ときに運命から与えられる悲しみや苦悩――それは人間関係からもたらされることが多いですが――が、私たちにとってリアリティある「魂を磨く修行」となることは間違いありません。
仏教の「四苦八苦」の中に「愛別離苦(あいべつりく)」と「怨憎会苦(おんぞうえく)」というものがあります。
この二つは人間関係における苦悩の中心です。
親子関係、夫婦関係における苦悩、葛藤、死別。
師弟関係、友人関係における裏切り、反目、対立。
いくら愛する人であっても、別れは必ずやってくる。
その悲しみは、筆舌に尽くしがたい。
例えば、婚約者を交通事故で亡くしてしまった、という方の話を聞いたことがあります。
これは言葉にならない……
どうして、こんなことになってしまったのか。
どうして、自分がこんな目に遭わなければならないのか。
納得できる理由など、おそらくない。
どう考えても、理不尽でしかない。
ときに運命が与えるものは残酷ですが、シルバーバーチは、こういう体験こそ魂の目を開かせるのだと、厳しくも慈しみを込めておっしゃいます。
こう述べると、真のスピリチュアル(マジスピ)というのは厳しい……と思わざるを得ません。
けれども、逆に順風満帆でラッキーでハッピーな引き寄せの連続だったら、そこに魂の進化はあるのでしょうか。
「普通のスピリチュアル」はそんな"お花畑"を語りたがりますが、やはりそれは真実ではない。
私たち現代人の多くは神社で、素朴にこんなことを願いませんか?
「家族みんなが健康で平和で、苦労や困難もなく、幸せな人生を送れますように――」
そういう人生が理想だと思っているからです。
でも、シルバーバーチに言わせれば、それは「失敗の人生」なのです。
「あなたは魂としての使命や目的を、何も果たせていない」という厳しい評価が下ります。
逆に苦悩や悲哀を乗り越えることを通じて霊性(スピリチュアリティ)を開発し、人のために少しでも貢献できた人生は、シルバーバーチ的には「栄光の人生」なのです。
ただ、多くの場合、苦悩や悲哀や降りかかってきたら、受け止め切れなかったり「なかったこと」にしたりするのではないでしょうか。
あるいは親や世間や、果ては神仏まで恨む人も出てくるのではないでしょうか。
「普通」はそうなると思います。
でも、たとえ当初は混乱したり落胆したりするとしても、少しずつ「魂の夜明け」が訪れ、それを「真の幸福」へと転換していける人もいます。
この両者の違いは、事前に「学び」があるかどうかでしょう。
シルバーバーチは「正しい知識は、運命を切り開く剣となり盾となります」とおっしゃっています。
私が運が良かったと思うのは、先ほどかなり理不尽な出来事が起こったと言いましたが、シルバーバーチのような教えに前もって触れていたことです。
理不尽、不条理、不合理と葛藤して乗り越えた先に、それまでの自分では考えられなかった心の境涯にまで至ることができる。
たとえ「頭の理解」のレベルに留まっていても、そういう知識があることで苦悩に翻弄され自分を見失うところまではいかなかった。
そして今度は、葛藤を通じて「頭の理解」を「身体的理解」のレベルまで深めることができるだろう。
それが、魂としての喜びにつながっていきます。
もしこういうことを何も知らなかったら、気が狂っていたかもしれませんね。
苦難を通して魂は成長する──信じる力と体験の意味
私は高校を卒業後、東京方面で住み込みで新聞配達をしていた時期がありました。
高校は地元・大阪では有数の進学校だったので、この進路は「前代未聞」でした。
すでに平成の豊かな時代、文字通り「時代錯誤」の選択でした。
当時の未熟な私としては、これぐらいしか「学歴社会への抵抗手段」がなかったのです。
この時期の記憶は、そこを退職して20年ほど経っても、鮮明に思い出すことができませんでした。
思い出そうとしても「白黒の映像」しか浮かんでこないのです。
記憶が「カラー」ではないわけです。
家出同然で向かった東京は関西とは言葉遣いが全然違うし、友人は一人もいないし、さらに地元の両親や友人とは一切の連絡を絶ちました。
だから孤独でしたし、そのくせ自我だけは強いので、周りとも協調的にやっていけない。
他にもいろいろあって、本当に辛かったわけです。
おそらく、現在の言葉でいえば「トラウマ」になったのでしょう。
当時の記憶が十分に思い出せないぐらい、自分の中で「防衛機制」が約20年間も働いていたのです。
それぐらいしんどかったわけですが、いま振り返れば、まだ二十歳前後の時代に思いっきり挫折感や敗北感を味わっておいて良かったと思います。
そのままストレートに有名大学の進学していたら、絶対に体験できなかったであろう深刻な教訓があります。
また、詳しくはプロフィールに書いてあるので割愛しますが、この時代の体験が「スピリチュアル」へ興味を持つきっかけになったのです。
かといって、特に霊的な体験をしたわけではありません。
突然「目覚めた」わけでもない。
当時体験したことは、スピリチュアルと無関係のことです。
しかし、いま振り返れば、当時の深刻な苦悩が、いわば「副作用」として魂の目を開かせたと言えます。
まだ「お名前だけで波動がわかる」という霊的能力は発現していません(それは約5年後のことです)。
けれども、その序章としての「スピリチュアルへの強い関心」が湧いたのは、この時期でした。
不思議なことに、当時の体験の「意味」や「意義」が解明されてくるにつれ、その記憶は白黒からカラーになっていったのでした。
20年もかかってしまいましたが……
ここでもう一度、シルバーバーチの言葉を振り返ります。
悲しみは、魂に悟りを開かせる体験の中でも、特に神聖なる意味を持つものです。それが魂の琴線に触れた時、一番よく魂の目を覚まさせるものです。
これは、もう、理屈なしです。
無条件で、そうなのです。
ただし、できればこういった言葉は事前に学んでおくことが望ましい。
私たち凡人は、物事の道理を掴んでいなければ、いざというときに実践するのは難しいからです。
その上で、シルバーバーチはこうも語っています。
この地上での人生の体験というものが、肉体の死後──つまり、生命の本質的な世界である「霊界」において、本当の生活が始まるための「準備」になるのです。
これは科学的に証明できる話ではありませんが、私は「死後の波動」もある程度認識できる人間なので、これを信ずる立場です。
ただ、あなたは(これもシルバーバーチが言っているのですが)決して盲信せず、理性でしっかり疑ってから、このことを信ずるかどうか判断してください。
なぜこの地上の人生には苦悩や悲哀がついてくるのか。
それは「霊界」での本格的な仕事に備えるため、魂を鍛錬するため――というのが、シルバーバーチの言っていることです。
私たちが心から尊敬できる人は、たいてい苦労や困難を乗り越え、人格的に立派で、多くの人に喜びを与えている人でしょう。
「人生の意味」は――かつての私もそうでしたが――考えすぎると、かえってわからなくなります。
でも素朴な事実から素直に考えれば、実はよくわかるのです。
では、今回の内容もご参考になれば幸いです。
ありがとうございます。
追伸
YouTubeでは井上有一(いのうえゆういち・1916~1985)という、「書の破壊と創造」に命を燃やした書家を取り上げています。
本題と少し違う内容だったので、文字起こしのこの文章ではカットしました。
もしご興味があれば、冒頭に貼ったYouTubeをご覧いただけたら幸いです。
改めて、今回の文字起こしの要点
- 悲しみや苦悩は、魂の目を覚まさせる、最も深い体験である。
- 人生の理不尽や不合理は苦悩を生み出すが、それが理性の限界を打ち破る。
- 普通のスピリチュアルにありがちな「安楽な人生への祈願」が実現したら、霊的な価値観からすれば「失敗の人生」である。
- この世は「あの世=霊界」で本格的な仕事をするために、魂を鍛える場である。
