※ウェブサイト『マジスピ』には音声の文字起こし(読みやすく加筆修正済)があります。

■YouTubeではメモ、資料、スライドなどを映していますが、音声プラットフォームの「ながら聞き」でも十分ご理解いただけると思います。
※今回使った資料(前回も含む)は以下からダウンロードできます
https://x.gd/KMJd4
ウェブサイトでは最下部に音声プレーヤーがあります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。
■ご感想・ご質問は『アンケートフォーム』からどうぞ
https://x.gd/Mp7Lg
目次
今回の要点と要約文
今回の要点
- 苦の原因は常に変化する(=無常)実体のない縁起(関係性)を固定化する無知によって生まれる(※難しいので説明を読んでください)。
- 過去世から積み上げている煩悩は「戒律」を守ることで抑え、「瞑想」と「布施」の両輪の実践を通じ、苦難として現象化する前に消していくこと。
- 布施(利他行)は道徳ではなく「真の幸福を得る人生戦略」であり、「大いなるいのち」と接続し自己の生命を拡大させる実践だと心得よ。
- 瞑想と布施を実践していても苦難は生じるだろう。その際は過去世から溜め込んだ煩悩が浄化されるプロセスと受容することが「正しい忍耐」である。
■利他の力―カルマ・煩悩を消す最高の実践■
先週に続き『ダライ・ラマの仏教入門』を取り上げます。
「人生の苦しみは外側の出来事ではなく自分の心が作り出している」というのが、お釈迦様が述べた「人生は苦なり」の意味です。
アタマで理解することはなかなか難しいのですけど、本来は実体がないものを「実体がある」と思い込む【無知】によって、苦しみが生じるわけです。
仏教で言う「縁起」とは、簡単に言えば「関係性」のこと。
言い換えれば、すべてのものは「原因と条件の関係の上に成り立つ」ということ。
今回取り上げたご相談は親子関係の葛藤がテーマになっていますが、親子関係もまた「生まれる時代」「生まれる家庭」「親と子の関係」などの原因と条件(=縁起)の上で成り立っていますね。
縁起は絶えず変化していく。
今は子に攻撃的な親も、老化によってトーンダウンしていき、やがては地上から去ってゆく。
その変化点滅を仏教では「無常」と呼ぶわけですが、無常であるがゆえに「実体」はないわけですよ。
もっと根本的なことを言いましょう。
「私」は確かにここに存在しているけど、その「私」の根拠を問うていくと、実は「実体としては存在しない」ということになってしまう。
なぜか、そうなってしまう。
ここ、わかりますか?
普段の感覚だとわからないでしょうから、わからなければとりあえず保留にしましょう。
般若心経の言う「空」の世界だから難しいのは当然で、このあたりを掴み取るには継続した学びと瞑想が必要です。
ダライ・ラマ法王はチベット仏教の方なので、「過去世」も視野に入れています。
法王は「過去世から積み上げてきた膨大な煩悩によって私たちは苦しむのだから、今こそ煩悩を消滅させるべく仏教を学び、利他の人生に生きなきゃいけない」と言います。
その実践として、戒律、瞑想、布施(利他行)がある。
この3つをもう少し広げれば、先週も述べた6つの六波羅蜜(ろくはらみつ)ですね。
智慧を深めていくには、特に禅定(瞑想)が有効です。
智慧が深まるほど、煩悩は自然に解消されていきます。
瞑想と同じく重要なのが布施(利他行)です。
これは単なる道徳ではないですよ。
自分以外の生命のために奉仕する精神は、宗教的・哲学的には自分を超えた「大いなる生命」につながる。
実際に貢献の人生に生きる人は、私が観ていてもオーラはキレイで大きいんですよ。
その「清らかな波動」が煩悩を少しずつ浄化していくわけですから、布施は単なる道徳項目じゃなくて「真の幸せを得るための人生戦略」と言っていいでしょう。
ただし「布施」はカルト宗教が悪用すると「お布施の強要」になってしまうため、旧統一教会の事件からわかる通り、その点は気をつけなければなりません(無理のない範囲の金銭の布施は良い行いなんですけどね)
金銭以外にも行動・言葉・意識などいろんな布施があります。
自分にできることの積み重ねが、煩悩の滅尽する実践になる。
ただ、そうやって常に心がけていても、人生には不幸や災難が降りかかることがあります。
仏教ではそれを、「過去世から積み上げた業」が表に現れて消えていくプロセスと捉えます。
「これでまた膿が出たんだな」と受け止められたら、苦しみの中にも感謝と忍耐が生まれますね。
ここまで行けたらかなり立派ですが、実際はなかなか難しい。
そもそも「過去世なんかあるのか?」という疑問もあるでしょうが、ダライ・ラマ法王はじめ、立派なスピリチュアルマスターは異口同音にそのことを言うので、私たち凡人は素直に信じていいのではないでしょうか。
もちろん盲目的に信じることなく、理性でよく疑って見極めていくことが大事ですね。
私は『過去世リーディング』なんてのも仕事でやっているので、過去世の存在は否定できないですね。
五感だけの世界からすれば不思議なことですが、きっと意識にはさまざまな領域があるのだと思います。
要点・要約文を読んで、あとは動画でご覧になりたければ以下からどうぞ。
仏教が教える、無常の世の中で「真の幸福」を得る方法
今回も前回に続き、『ダライ・ラマの仏教入門』という本を取り上げます。
メインテーマは「利他の力」です。
単に「世のため人のために働きましょう」という道徳的スローガンではなく、なんとそれがカルマや煩悩を消す最高の実践なんだよと、ダライ・ラマ法王はおっしゃっています。
もちろん、「利他」なんて知らなくても素直に人のためになる働きをしている人は、本当に素晴らしい。
でも現代の知識教育を受けている私たちは、やはりそれなりにちゃんと勉強して納得した上で実践にしていくということが無難な道です。
先週は要点だけざっくり説明しただけだったので、今回はもう少し詳しく解説していきます。
お釈迦様は「人生とは苦である」とおっしゃいました(「苦諦」)。
ただ、「苦」だけで終わると文字通り苦しいだけの人生なので、苦を滅するための実践を説かれたわけです(「滅諦」)。
「苦は自分の心が作り出している」というのは、こういう学びをある程度されている方なら誰も異論はないはず。
前回は「母との葛藤」を抱えるクライアントさんに、声だけご登場いただきました。
母親から度重なる暴言を受けることが苦しみになっているわけですが、前回は「母親は苦悩の直接原因ではない」と言いました。
もちろん、この母親は波動のキツい攻撃的な人なので、母親には相当な罪がある。
けれどもそれとは別に、苦悩は自分の心が作り出していることを忘れてはなりません。
本質的には、自分に降りかかる現象が幸福や不幸を左右するわけではない。
「ぜんぶ自分の心次第である」とよく言われはしますが、じゃあこれはどういうことなのか。
仏教というのは、実はかなり緻密に構築された哲学だと私は思っています。
なので、今回は「仏教入門」としてダライ・ラマ法王がわかりやすく言ってはくださっているけど、それでも元が難しいから入門レベルでも難しいんですね。
法王が属するのはチベット仏教の中の「ゲルク派」というらしいですが、この派では「苦悩は過去世から積み重ねてきた煩悩も大きく影響している」と説明しています。
過去世の有無に関しては科学的な説明はまだありませんが、ここでは「ある」という前提に立っています。
私も『過去世リーディング』なんてやっていますので、やっぱり「ある」という立場ですね。
ただ、自分の頭で考えて「それは違う」と思ったら否定すればいいし、「確かにそうだな」と納得できるのであれば、仏教からは有益な智慧を受け取ることができるでしょう。
で、前回難しかったのは「縁起」ですね。
前回は「縁起をめっちゃ簡単に言うと〈関係性〉ですよ」と言いましたけども、実はいろんなレベルの縁起があります。
興味があれば、簡単には理解できませんが『ダライ・ラマの仏教入門』を読むと良いでしょう。
関係性というのは、言い換えると「原因と条件」なんです。
前回の話でいけば、親子という縁起は原因であり条件ですよね。
この時代、この国、この家庭に生まれたという「原因と条件」によって、親子関係という縁起が生じるわけです。
これを縁起というわけですね。
これはOKですよね。
で、原因と条件、つまりこの関係性ですね、この因果関係というのは常に変化していくわけです。
今回の例では母親が攻撃的な人格であるという「原因と条件」によって「苦しい親子関係」という縁起が生じる(ただし苦しいと思っているのはあくまで自分です)。
ただ、時が経過して気が強かった親も病気になったり年老いて弱体化したりしたら、そのパワーバランスは変わりますよね。
さらには寿命が尽きて亡くなりでもすれば、「原因と条件」は大きく変わります。
このように、縁起=関係性というのは常に変わっていくわけです。
この常に変化してやまないものを、仏教では「無常」という。
常に移り変わっていくのだから、、そこに本当は実体はない。
目の前に見えるのは「鬼のような母親」かもしれないけど、本質的にはその実体はない。
ただ、自分の心が「この母親は鬼のようだ」と思い定め、常に移り変わる無常を観念で固定化することにより、そこに苦しみが生じる。
これが「人生とは苦である」のメカニズムです。
本当は無常なのに、本当は実体などないのに、それを掴んでしまう(執着する)ことによって、苦が生じる。
もちろん現象的に、この母親はダメな人ですよ。
前回の動画の前半で語られたように、孫の幸せにすら嫉妬してしまうぐらい心の貧しい人です。
常識的には、こういう人には厳しく対応しなければならない。
「理不尽な暴言はダメだ」と毅然として言わなければならない。
それは現世的には闘いとなるでしょう(ダライ・ラマ法王が中国共産党と非暴力で闘っているように)。
けれども、しつこいですが、それは自分の苦悩の直接原因ではない。
ここが本当にわかるかどうかがポイントなんですけど、正直言ってなかなか難しい。
ここが掴めるかどうかで世界観がガラッと変わる大事な部分なので、今はわからなくとも諦めずに勉強を続けましょう。
そして後でも言いますけども、瞑想を実践していくことです。
(瞑想ではなく、このマジスピラジオでもたびたび言っている「祈り」でもいいですよ。ただし「本気ならば」というのが大前提ですが)
そもそも、世界のはじまりであるこの「私」という存在。
この「私」という観念は確かに存在していますが、その「私」の実体を辿っていくと、実はどこにもないことがわかってしまう。
「私」は思いとしては存在しているんだが、実体としては無い。
「私の体や心」は確かに存在しているけど、「私の実体」および「私そのもの」はどこを探しても無い。
・・・わかりますか?
わからなければ、これも保留にして考え続けてください。
本当は実体などないのに、この世を生きる "暗黙の約束事" として「私の実体はこの肉体ですよ」と仮定しているわけです。
現象としては確認できるこの肉体に「林 昭裕」という、この浮世を生きるための "仮の名前" を与える。
これを法王は仮説(けせつ)という仏教用語で説明しています。
そうやって、そう遠くないうちに寿命を迎えて灰になるこの「無常なる肉体」を固定化してしまう。
これによって、四苦八苦で織りなす地上ドラマのはじまりはじまり。
わかるようでわからない?
なんだかナゾナゾみたい?
このあたりが、前回言った「空」ということですよ。
そもそも「実体がない」んだから、学校のお勉強みたいな学び方じゃ、わかりゃしませんわ。
一切皆空、すべては空であるというのは、すべては縁起(関係性)によって生じているだけであって、そこに実体はないんだってこと。
けれども、私たちは言葉や観念でもって、「この人はいい人だ」とか「こいつは嫌な野郎だ」とか、いろんな色をつけたがる。
そうやって本来は実体がないものを固定化したがるのは、私たちの生得的な(生まれつきの)「無知」なんです。
まぁ、これはしょうがないんですよね~。
私たちの五感の知覚はかなり制限されているんですから。
光だって音だって、人間が知覚できる波長や周波数は限られているのは科学的な事実。
それと似たようなもので、五感≒この世を超えた「六感以上の世界」に気づいて修練していかない限り、「生まれつきの無知」に幻惑されて、無常の世界に囚われてしまうんですよ。
そこからあらゆる苦しみが生まれてくるわけです。
そんな苦しみはこれまでの「過去世」でさんざん味わってきたんでしょうから、そろそろこの不毛なゲームを卒業しようぜ、というのがダライ・ラマ法王の言いたいことではないかと思います。
人生は縁起であり、縁起に「実体はない」ことから、ダライ・ラマは「人生は幻に近い何かである」と言います。
(ただし「私」や「世界」は確かに存在するわけだから、「すべては虚しいのさ」なんて虚無主義に陥ってもいけない。ここを上っ面で理解すると、つまらない人生になりますよ)
「映画」みたいなものですね。
映像の世界にどっぷり入り込んでいると、それが「リアル」に感じるわけだけども、実はそれはスクリーンに映し出された「光の離合集散」に過ぎない。
この「リアルな幻想」の中に喜怒哀楽という人間ドラマが生まれるわけですが、そこに実体はない。
なので、喜びや楽しみは十分感じればいいですが、怒りと哀しみについては「実体がない」と見抜けばいい。
そうすれば、たとえ苦しくても正しく忍耐(後述する六波羅蜜・ろくはらみつの中の「忍辱」)することができる。
これが仏教でいうところの正見(しょうけん)、正しく見るということです。
とはいえ、正見を得るためにはかなり学びを深めていかないといけません。
偉そうに言っている私も、腹の立つときはめっちゃイラッとしております(汗)
ただ身内からは「昔に比べたらずいぶん穏やかになった」と言われております。
慌てないで、ひとつひとつ学んでいきましょう。
「過去世」から積み上げた煩悩を解消するのが仏教の実践

ダライ・ラマ法王は、煩悩の積み重ねによって生まれるネガティブな力を「潜在力」と呼んでいます。
過去世から積み上げてしまった膨大な煩悩。
それによって、この現世ではどうしても苦しみが出てきてしまう。
人に暴力を振るいたくないのに、カーッとなってついつい手や口が出てしまう。
潜在力とは「業」(ごう)と言ってもいいでしょう。
解脱というのは、まずは「①煩悩の積み上げを止めること」から始まります。
次に「②煩悩の潜在力を解消すること」です。
この2つの方法の実践の上に解脱があるわけです。
「①煩悩の積み上げを止めること」の実践として「戒律」(六波羅蜜の中の「自戒」)があります。
戒律とは、例えば人を傷つけてはいけないとか、殺してはいけないとか、多くを奪ったり貪ったりしてはいけないとか、情欲・性欲を暴走させてはいけないとか、いろいろあります。
現代的に言えば「良い生活習慣」であり、身近には「適度な食事と睡眠と運動」です。
どうしたって健康が良くないと気分がネガティブになりがちですから。
気分がネガティブであれば、また煩悩を積み重ねてしまう。
戒律を守るというのは、それによって本能に流されにくい環境を作るということ。
日常的には、お掃除もそうですね。
部屋をちゃんと片付けるとか水回りをきれいにしておくとか、これも現代の戒律の一つでしょう。
『ザ・ノンフィクション』などのドキュメンタリー番組を見ていると、生活が荒れている人の大半は部屋が汚い。
食事もあまり良いものを食べていない。
私は「無料のメルマガ限定」のコンテンツに、良い食事について詳しく解説しているページがあります(『波動を高める食事』)。
食事を整えるのもまた戒律です。
そりゃ食品添加物だらけのものをたくさん食べるより、無肥料・無農薬のものを中心に食べた方が心は落ち着くに決まっている。
そうやって、まずは「①煩悩の積み上げを止めること」です。
その上で「瞑想」と、今回のメインテーマである「布施」。
この2つが「②煩悩の潜在力を解消すること」のツートップになります。
この2つは前回述べた「六波羅蜜」(ろくはらみつ)に含まれています。
簡単に振り返っておくと、まずは①「布施」。
人のため、世のために良い行いをすること。
このあと詳しく解説します。
次の②「持戒」はもう説明しました。
③「忍辱」(にんにく)、これは「正しい忍耐」ということ。
これは「前回(331回目)の文字起こし」で詳しく述べたので、ご興味あればご覧ください。
なお、忍耐は我慢ではありません。
我慢は怒りや不満を抑圧することによって、逆に煩悩を積み上げてしまう行為です。
真面目な人ほど「我慢」になりがちなので気をつけましょう。
「④精進」も我慢して行うのは、正しい精進ではない。
本来は喜びをもって精進するのが、正しい精進です。
これも一度読んだだけではなかなかわからないので、慌てないでじっくり自己研鑽を積んでいきましょう。
そして「⑤禅定」。
これは前回も少し触れた「瞑想」ですね。
瞑想は「⑥智慧」に直接的にアクセスするための方法です。
長い時間はかかりますが、瞑想を重ねてゆくことで「⑥智慧」を得ることができるようになります。
「⑥智慧」に至った分だけ、煩悩は解消されていきます。
これが仏教を学び実践する者に与えられる功徳といっていい。
法王は瞑想を推奨されていますが、私個人としては「祈り」でも良いと思います。
祈りもまた「神聖なるもの」、つまり智慧にアクセスする方法ですから。
ただし真剣であればですよ・・・これは強調しておきます。
祈りは見た目は簡単であるため、油断するとおそろかになるので注意です。
ちゅうど最近、このことに関してショート動画を作成したので下に貼っておきます。
自分のためだけに祈るんじゃないと、他のショート動画でもよく言ってます。
自分のためではなくて利他、人のために祈る。
「①布施」のために祈る。
瞑想も、結局は「①布施」のために行うんですからね。
「自分だけ悟りたい」なんてのは立派なエゴイズムですし、そんなヤツの波動(オーラ)はショボくって悟りとはほど遠いんですよ。
この六波羅蜜を指針として実践し続けることにより、過去世から積み上げてしまった「煩悩の潜在力」がこの現象世界に苦難として現出する前に、いわば「潜在意識」レベルで解消してゆく。
これがダライ・ラマ法王、というか仏教が流派や宗派を問わず説いていることだと思います。
布施・利他の実践は煩悩を大きく消し、深い喜びの人生を創造する
今回、最も大事なのは「①布施」としての利他行です。
「世のため人のため」だというと、「なんだよカタい道徳かよ」と思われるかもしれませんが、実はそうじゃないんだと。
いわば「最高の人生戦略」なんです。
利他行というのは、自分以外のためにやるわけです。
利他は自分を超えた「大いなるいのち」に向かうこと。
大生命・大宇宙を相手にする行いですから、それだけ波動・エネルギー量は大きくなる。
それが「煩悩の潜在力」を減衰させる力となるわけです。
だから「単なる道徳」とナメてかかったらあかんのです。
波動(オーラ)の大きい人に共通するのは、世のため人のために尽くそうという気持ちが強い。
その意欲の実現がまだ途中であったとしても、その意識自体がオーラを大きくしてゆくんです。
ヤクザの疑似家族の世界だって、子分から慕われる器の大きい親分は、「子供のために命を張れる人間」でしょ。
そして、親分に可愛がられる器の大きい子分は「オヤジのためなら命を捨てても惜しくない」と心底思える人間です。
どの世界でも、自分のことしか考えないヤツはオーラが小さいんです。
オーラを大きくしようと思うなら、利他行によって大生命と接続をすることです。
それによって大生命からいただいた「功徳の力」が、煩悩を解消していくわけです。
「①布施」の利他行ができることを、ダライ・ラマ法王は「人間として生まれた本当の幸せ」とおっしゃっている。
だって、我慢ではなく心から布施ができるということは、それだけ自我が生み出す煩悩から離れているということであり、それがそのまま幸福につながっているからです。
活字の行間から法王の喜びが伝わってきますね。
もちろん「世のため人のため」なんて言うと、どこか偽善や欺瞞が付きまとってくるのですが、それを超えて利他の精神に生きたいと願うこと。
それだけで煩悩の解消スピードが加速度的に上がっていくんですよ。
最終的には、煩悩が消えようが消えまいが「人のために働くのは無条件に楽しいなぁ」と思えたら本物ですけどね。
まずは自分のためでもいいので、自分ができる利他の行をやりましょうということですね。
ただし、これを悪用されるとカルト宗教による「高額のお布施」になってしまいかねない。
旧統一教会みたいな献金地獄によって、一家が破産させられかねない。
布施とはもちろんそういうことではありません。
例えば笑顔を向けることだって、優しい言葉をかけることだって、これも布施の一つなんです。
金品の布施だけがすべてではありません。
(とはいえ無理のない範囲で金品を布施することは、立派な布施の一つです。誤解なきよう)
この布施と瞑想を循環させていくことが、煩悩の潜在力の解消に役立ちます。
瞑想によって得た智慧によって布施を施し、布施を通じて得た体験を瞑想によって智慧に昇華させること。
瞑想だけだと「自分の悟り」だけを目指す小さなスケールになってしまう。
布施だけだと「第326回のマジスピラジオ」で解説した通り、ボロボロの自己犠牲になってしまう。
瞑想と布施をバランス良く実践していくことです。
ただし、そうやって真剣に実践していても、なお現れてしまう苦難はあるでしょう。
例えば、
「なんであの人はとても性格が良く、人のために尽くしている素晴らしい人なのに、どうして分不相応な災難や不幸に見舞われるんだろう?」
という疑問はありませんか?
現象だけ眺めると、とても理不尽です。
それは仏教的に見れば、やはり過去世から積み上げてきたその煩悩の潜在力が現象として出ているのではないか、という見方をします。
その人は、もしかしたら過去世ではめっちゃ悪い人間だった可能性が考えられます。
(『過去世リーディング』をするとときおり出てくるパターンです)
今生では人が良くても、過去世ではマジで人を殺しまくっているような、めっちゃ悪い奴だった可能性もあるわけです。
断定はできないので、一つの可能性です。
でも、そうやって苦難が現象として現れてきても、「これでまた一つ、煩悩が消えたんだ」と。
いわば借金がその分だけ返済された、というのが伝統的な仏教的な物の見方です。
だから、煩悩の膿が出たら「ああ、これでまた一つが消えていってクリアになったな」と心から思えて、しかも感謝までできれば、実践レベルとしては相当深いです。
これは簡単にはできないので、やはり瞑想が必要でしょうね。
これが六波羅蜜の中の「③忍辱(にんにく)」、正しく忍耐するということです。
繰り返しますが、この学びがなくただ耐えているのは「我慢」であって、これは煩悩を深めてしまうので要注意ですよ。
(わざわざ繰り返すのは、宗教を学ぶような真面目な方は、ここで引っかかることが少なくないからです)
こういう実践ができれば、この腐った世の中でも、それなりに充実して生きていけると思いますね。
この薄汚れた、濁った世の中で得る「真の幸せ」だからこそ、価値が高いんですよ。
現代の「物質主義的価値観」というのは、教育を通じて「エゴを追求しなさい」と教えてきました。
この大量消費の社会経済を回していくには、個人がエゴの追求をしていかないといけない。
私は進学校の出身でしたが、「世のため人のために役立つ立派な人間になるために勉強するんだよ」とハッキリ教えた先生は、当時の私が知る限り、一人もいませんでした。
要は、「勉強して高い偏差値の大学に行って、一流企業に入って、物質的に良い暮らしをしなさい」と教えてきた。
そうやって個人のエゴを追求することを疑わないほど、私たちの魂は汚染されているわけです。
だから「世のため人のため」なんて言うと、「それは偽善ですか? それともお硬い道徳ですか?」と思われてしまうフシがある。
国家や社会が「なぜ生きるのか?何のために生きるのか?」という価値を喪失しているから、現代では気づいた個人がやっていくしかない。
大っぴらに言うと臭いと思われるので、心の中で思って、粛々と実践していけばいい。
これまでの過去世では、たくさん煩悩を積み上げてしくじってきたかもしれないが、「それはもう今生で終わりにしよう」というのが法王のメッセージです。
ダライ・ラマ法王が世界からあれだけ尊敬されているのは、チベット仏教の教えが根底にある。
法王は素晴らしいけど、それは教えが素晴らしいからです。
そこに共感するもの、惹かれるものがあるなら、ちょっと難しいけど『ダライ・ラマの仏教入門』を手に取って読まれるといいでしょう。
今回は煩悩やカルマを消す最高の実践として、「利他の力」(加えて瞑想の力)を取り上げました。
ご参考になれば幸いです。
改めて、今回の要点
- 苦の原因は常に変化する(=無常)実体のない縁起(関係性)を固定化する無知によって生まれる(※難しいので説明を読んでください)。
- 過去世から積み上げている煩悩は「戒律」を守ることで抑え、「瞑想」と「布施」の両輪の実践を通じ、苦難として現象化する前に消していくこと。
- 布施(利他行)は道徳ではなく「真の幸福を得る人生戦略」であり、「大いなるいのち」と接続し自己の生命を拡大させる実践だと心得よ。
- 瞑想と布施を実践していても苦難は生じるだろう。その際は過去世から溜め込んだ煩悩が浄化されるプロセスと受容することが「正しい忍耐」である。
なお、YouTube(Podcast)は今回の文字起こし編集でカットした部分もあります。
なのでこちらも聞いていただけると、より理解が深まります。
※この下に「音声プレーヤー」があります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。






