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第344回:スピ系の”言霊”が心を救わない理由。神なき時代の「本当の自分」の探し方。

※ウェブサイト『マジスピ』には音声の文字起こし(読みやすく加筆修正済)があります。

■YouTubeではメモ、資料、スライドなどを映していますが、音声プラットフォームの「ながら聞き」でも十分ご理解いただけると思います。

ウェブサイトでは最下部に音声プレーヤーがあります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。

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ここから下はまだ編集中です。「一部に誤字脱字を含む、ざっくり文字起こしの段階」をご理解の上で読んでください。配信日から1週間以内に加筆修正とスライド等を足して読みやすくするので、待てる方は少しお待ちください。

今回の要点と要約文

今回の要点

  • 現代のスピリチュアルや自己啓発は、答えのない「実存的な問い」を安直な回答にすり替え、魂を浅薄化させる高度消費社会の商品となっている。
  • 真のスピリチュアルとは、苦悩を避けることではなく、他者や世界との関係性(縁起)の中で「自分が世界に何を期待されているか」を問い続ける実践である。
  • 自己中心的な「私とは何か」という問いから脱却し、不完全な自分を認めながら他者のために何ができるかを模索することこそが、本質的な霊性への道である。

※要点は以下のショート動画でも語っています

(ここにショート動画が挿入される予定です)

今回の要約文

■スピ系の"言霊"が心を救わない理由。神なき時代の「本当の自分」の探し方。■

今回は、加藤有希子さんの著書『カラーセラピーと高度消費社会の進行』を題材に、「なぜ現代のスピリチュアルは心を救わないのか」という本質的な問いを考察しました。

現代のスピリチュアルや自己啓発の多くは、私たちが本来抱えるべき「答えのない実存的な問い」を、安直でインスタントな回答にすり替えてしまうシステムと化しています。

それは、物やサービスを次々と消費させることで成り立つグローバリズム経済や、高度消費社会にとって非常に都合が良い構造です。

たとえばファッションの世界で、タイトなシルエットが流行ればそれを買い、流行が終わればまだ着られる服を捨ててワイドなシルエットに乗り換える。

このように、ビジネス側が作り出したニーズに深く考えず乗っかってくれる「浅い消費者」こそが、今の社会を回すエンジンになっているからです。

この消費の論理がスピリチュアルにも持ち込まれ、「幸せ」や「運気」までもがマニュアル化された商品として売られています。

「これを買えば幸せになれる」「このワークを機械的に繰り返せば引き寄せが起きる」といった手法は、一時の安らぎをもたらす麻酔のようなものです。

しかし、そうした甘美な言葉には人生の重みがなく、結果として私たちの魂を浅く、脆弱なものにしてしまいます。

特に注意すべきは「スピリチュアル・マテリアリズム(精神的物質主義)」という罠です。

「思考は現実化する」という法則は一見ポジティブですが、うまくいかないときに「あなたの思い方が足りないせいだ」という自己嫌悪や自己否定の道へと人々を引きずり込みます。

成功者が一握りである以上、この論理は必然的に多くの「失敗者」を生み出し、また新しい「新時代の引き寄せ」という看板を書き換えただけの商品を消費させるループを生んでいるのです。

かつての日本では、共同体や宗教、あるいは戦争や疫病といった「大きな物語」が、個人の生きる意味をある程度規定してくれていました。

しかし、個人主義が進み、自由が増大した現代においては、何を選んでどう生きるかという責任のすべてが個人に重くのしかかっています。

SNSのアルゴリズムや他者の評価が可視化される中で、自己はむしろ矮小化し、自由という名の不安に精神が耐えられなくなっているのが現状です。

精神科医ヴィクトール・フランクルは、「人生に何を期待できるか」を問うのではなく、「人生から何を期待されているか」を問うことへの転換を提唱しました。

自分を世界の中心に置き、自分を満たすことばかりを考える「自己中心性」こそが、現代特有の神経症的な苦しみを生み出しているからです。

真のスピリチュアルとは、苦悩を排除することではなく、他者や世界との関係性、つまり「縁起」の中で、自分ができることを問い続け、実践していくプロセスに他なりません。

「私とは誰か」という、自分を切り離して考える不可能な問いを一度手放し、他者のために、あるいは世界のために何ができるのかという視点を持つこと。

そこには安直な慰めはありませんが、他者との繋がりを回復し、不完全な自分を受け入れながら、現在進行形の物語を紡いでいく「強さ」が宿ります。

大切な家族や友人が亡くなり、自分だけが生き残ってしまったというような、答えのない問いを背負って生きる人たちに、安直な答えは通用しません。

それでもなお、人生が自分に何を問いかけているのかを忍耐強く考え続けることこそが、本質的な霊性への道です。

消費されるだけの浅薄なスピリチュアルを脱却し、痛みとともに世界と向き合うとき、私たちは初めて本質的な意味での「救い」に触れることができるのです。

要点・要約文を読んで、あとは動画でご覧になりたければ以下からどうぞ。


なぜ今、自己啓発やスピリチュアルの言葉は「軽い」のか

今回は、ある本のブックレビューをしていきます。

最近シリーズで語っている、スピリチュアル、自己啓発、成功哲学、そのテーマに沿った本です。

本のタイトルは『カラーセラピーと高度消費社会の進行』。

サブタイトルは「ニューエージ、スピリチュアル、自己啓発とは何か」という本ですね。

著者は加藤幸子さんという方で、2015年の著作です。

特にこの本をおすすめしているわけではありません。

研究者が一般の方に向けて書いた本です。

この本には書いていませんが、分野でいうと社会心理学ぐらいの感じでしょうか。

一般向けの研究書であって、スピリチュアル系の本ではありません。

もし自己啓発やスピリチュアルが生まれる、その背景の社会構造を研究したい方は読むといいと思います。

特にお勧めはしませんが、私は楽しく読みました。

いつものようにスライドを作っています。

YouTubeであればご覧いただけますし、音声だけでも分かるように説明をしていきます。

お好きな媒体でご視聴、ご聴取ください。

では、本題に入る前に、先週の前回の内容ですね。

第343回目。

「祈りとは苦悩の世界で苦悩を超えるための霊的技法」というタイトルでした。

どうも難しい、分からない、なんとなく分かるけれど意味は理解できない。

しかし、とても大切なことを言っている気がするという、視聴者からの反応が多かったですね。

今回の内容にも通じるのですが、こうすれば良くなる、救われる、運気が上がる、金運が上がるとか、そういったインスタントな内容ではないのです。

普通のスピリチュアルやセラピーというのは、苦しみや苦悩を取り除くという方向に行きます。

それがビジネスにもなるわけですが、ここで語っていることは、そのほぼ逆です。

つまり、苦悩をなくすのではなくて、それに真正面から突撃して乗り越えていくのだと。

そういった話をしています。

これを真のスピリチュアルと説明をしているわけですが、これは現代の風潮からは、なかなか受け入れられにくいということです。

しかし、これこそが本質であればこそ、私は「人からどう思われるだろうか」という恐れを捨てています。

人を相手とせず、天を相手とするということ。

これこそが、まさに祈りに他ならないということです。

自分の身をもってお伝えをしています。

今回は、そういった言葉がなかなか届かない、受け入れられないという現代社会の構造について、ご紹介した本の記載をもとに考えたいと思います。

今回のスライドの1枚目。

「浅薄さの正体」。

浅くて薄い、その正体。

なぜスピリチュアルは心を救わないのかというテーマです。

サブタイトルには「慰めという名の麻酔について」という、かなり辛辣なタイトルになっています。

これもAIが作ってくれたのですが、なかなかシビアですよね。

では2枚目に行きます。

ここに「甘美な嘘のギャラリー」と書いています。

スピリチュアル系の本やコンテンツ、動画などを見ていると、こういった言葉が書いてありますよね。

「大丈夫です」「心配しないで」「幸せになろう」。

「すべては自分を知ることから始まる」。

「出会いには必ず何か目的がある」「人生に間違いは一つもない」「すべてのことに意味がある」。

「必要なら助けはいつでもやってくる」「実はすべてが計画されている」「すべては必然」。

こういった、いわゆるスピ系の文脈の言葉がありますよね。

どこか、これらの言葉には軽さを感じるということです。

実際、そういったスピ系の本を読んでみますと、実に言葉が軽い。

行間から重さを感じません。

そして私は人や物のオーラ、波動を見る人間なので、実際に波動も軽いわけです。

それは、なぜそんなに軽いのだろうかということを考えたいのです。

では3枚目ですね。

「問いのすり替えシステムとしての現代のスピリチュアル」。

これは自己啓発、成功哲学も含まれます。

ここに「実存的な問い」という言葉があります。

ちょっと難しい言葉ですが、私がよく使っている表現でいけば「答えのない問い」ですね。

よく言っているのは「天命」ということです。

これは天から問われている、天が命じているということです。

天や宇宙、神というものは、人間が使っている言葉は持ちません。

ですから、答えのない問いなのです。

本質的なものであればあるほど、そこに答えはありません。

自分はどう生きるべきかということもそうだし、例えば卑近な受験を考えてもそうです。

A大学、B大学、C大学、それぞれ比較検討しても、究極的にどれが最も自分に向いているかということは、まだ大学に行く前の、自分が確立していない時点では分かりません。

自分のことも知らないし、社会も知らない。

限られた情報しかない中で、自分に本当に合っている道を選択することは、その時点ではかなり難しいと言わざるを得ません。

昨日、たまたま大学生としゃべる機会があって、人生について語り合っていました。

彼らは漠然とした人生の計画はあるけれども、昨今、人工知能、AI含め、どんどん社会の構造が変わっている。

その中で本当に自分のやりたいこと、合っていることを見出すのは難しいということですね。

これは当然です。

後でも言いますが、個人主義の今の時代において、選択肢の幅が昔に比べて圧倒的に増えてしまった。

その社会においては、答えが分からないわけですね。

試行錯誤して、歩きながら考えていくということが必要になります。

それは同時に、不安を抱えるということでもあります。

もしかしたら自分の歩みが間違っているかもしれないという問いを、常に抱えるということです。

この例はちょっと分かりやすいですが、実存的な問いということです。

本来は分からない問いというのを、現代の自己啓発や普通のスピリチュアルというのは、すり替えてしまうのです。

例えば占いで「あなたはこっちの方向に行った方がいいですよ」という答えだったり。

あるいは、これは私も問われることですが、過去生リーディングや守護霊リーディングなどで、「あなたの守護霊はこっちの道に行った方がいいと言っていますよ」と言う。

答えのない問いに対して、回答を与えてしまう。

それが本当に正しい回答か分からないのだけれど、とりあえず過去生がそうなんだ、守護霊はそう言っているんだということで、手の届く問いとすり替えてしまう。

そういった周到なシステムなのです。

ところがインターネットや人工知能がいくら発達しようが、この実存的な問いというのは変わらないんですよ。

いくら答えらしきものがあろうとも、最終的に決断して歩むのは自分であるし、そこにはもちろん自己責任が伴います。

自由というのが大きければ大きくなるほど、また責任も重たくなっていくということです。

その責任の重たさ、問いの深さに、精神が耐えられないということですね。

ですから安直な問いで手を打とうとする。

それには現代の浅薄な、浅い自己啓発やスピリチュアルが、まさにぴったりであるということです。

安直な答えで満足する、そんな傾向があるわけです。

それはある種の幸福感をもたらすわけですが、しかしそれと引き換えに人生の偉大な謎を省略し、省いてしまうということです。

つまり、先週の内容から言うと、苦悩をなくす方向に行くわけです。

先週は、本当の幸福というのは苦悩に真正面から取り組み、そしてそれを乗り越えていくということだとお話ししました。

この地上世界にある意味では落とされてしまった人間である限りは、苦悩があるのが当たり前なのです。

それは、まともに生きている人だったら誰でも分かっていることです。

しかし、こういった安易なスピリチュアルや自己啓発というのは、「あなたはこう生きれば幸せになりますよ」と、安直な答えにすり替えてしまう。

まさにここに「すり替え」と書いています。

そのことによって心は楽になるかもしれないが、魂としては軽くなる、浅薄になるということです。

しかし、浅薄になった方が、今のグローバリズム経済、高度な消費社会、大量消費社会にとっては都合がいいわけです。

この資本主義がどんどん成長していくためには、どんどん物やサービスを購入してもらった方がいいわけですね。

例えばファッション、服ですね。

今はタイトなシルエットがトレンドだとします。

それに合わせて服を買っていると、だんだん飽きてきて、「じゃあ今度はワイドなシルエットがいいね」ということで、今度はだんだんワイドに移行していく。

それによって、まだ使える服なのにそれを捨てて、「今はワイドがイケている」とか、そういったことでどんどん乗り換えていく。

これは車もそうですね。

今は電気自動車が流行っている、もうガソリン車は古い、とか。

ビジネスを仕掛ける側はニーズを作っていくわけですね。

それに対して、あまり深く考えずに「これが今イケている」という理由で買ってくれた方が、高度消費社会にとってはいいわけですよね。

この延長線上に、例えば「幸せを買う」「運気を買う」「引き寄せを買う」「幸福を買う」。

これが現代の自己啓発、成功哲学であり、スピリチュアルだと。

何らかの幸福、幸せのマニュアルを提供する。

これさえやれば幸せになりますよと。

「ありがとう、ありがとう、ありがとう」と、心を込めなくても単に機械的に繰り返していれば、ありがたいことが起きますよと。

例えばこういったことです。

これがマニュアルですよね。

誰でも簡単に実行できるマニュアルを作り出し、購入し、消費をしていく。

これはスピリチュアルの本来の意味であるところの、精神性あるいは霊性ではありません。

物質化されるわけです。

お金として、サービスとして消費されていくわけです。

だから本当はスピリチュアルではないわけです。

しかし、伝統的な宗教は力を失い、そして私たちが何のために生きるのかという問いを失ってしまったこの現代社会においては、スピリチュアルあるいは自己啓発は、まさに消費者のための宗教だと、このスライドに書いているわけです。

消費者のための宗教と化した「スピリチュアル・マテリアリズム」

この商品としてのスピリチュアルというのは、この本の中には「スピリチュアル・マテリアリズム」と書いていました。

これは日本語で言いますと、「精神的な物質主義」ということですね。

これは何かというと、あなたもご存じの引き寄せ、思考は現実化する、といったものです。

精神的なものが物質化する。

思考という意識が物質化する、現実化する。

これがスピリチュアル・マテリアリズムです。

ところが、これは全く優しくないわけですね。

例えば「思考は現実化する」「思った通りに引き寄せる」という法則。

宇宙法則であるという説明をよくしますよね。

もしそれでうまくいかなかったとしたら、「それはあなたの考え方、思い方に間違いがあったからだ」「雑念があったからだ」「本当は潜在意識では否定的な観念があるからだ」ということで。

本来は人生を豊かにするはずが、ポジティブシンキングから出発したはずが、自己嫌悪への道へと繋がる。

「自分は思い方、考え方が足りない」「本気ではない」「本気で祈り、願い、思考していないから、私は成功しないんだ」「自分はなんてダメなんだ」という、自己嫌悪、自己否定の道へと引きずり込んでしまうわけです。

しかし考えてみてください。

いわゆるこの世で社会的に成功する人というのは、一握りなわけですね。

もし社会的、物質的、経済的成功が人間のゴール、あるべき目標だとすると、ほとんどの人はそれに失敗をするわけです。

嫌な言い方だけれども、失敗者、敗北者、負け犬になるわけですね。

そうなるとまた、この成功哲学やスピリチュアルというのは、「今までのポジティブシンキングではうまくいかなかったあなたへ」ということで、また新しい装いを変えた「新時代の引き寄せの法則」というのが誕生するわけです。

「今までの引き寄せは古い」「これまでの成功哲学には欠点があった」ということで、新しい法則が出てくる。

それがほとんどは看板を書き換えて、単に衣装を変えただけなんですけどね。

この繰り返しになっているわけです。

その背景にあるのは「楽して成功したい」ということですね。

さっきの「苦悩へ向かう人生」ではなくて、苦悩を極力避けて、安易に、安楽に、無事平穏に。

家内安全、商売繁盛。

そのニーズですね。

それがある限り、そのスピリチュアル・マテリアリズムというのは、今後も手を変え品を変え出されていくということですね。

次のスライドです。

「『私とは誰か』という不可能な問い」と書いていますね。

ちょっと真面目なスピリチュアルだったら、例えば「自分とは何か」「私の天命とは何か」「自分はどんな役割、使命を持ってこの世に生まれてきたのか」という問いを立てます。

この根底にあるのは「私とは何か」「私とは誰か」ということであって、これがちょっと前にあった「自分探し」ということです。

スピリチュアル業界ではこの派生系として「覚醒」「目覚め」という言葉があります。

これも根本には「自分とは何か」という問いがあります。

ところが、この「私とは何か」「私とは誰か」というのは、詰んでしまう問いなのですね。

なぜなら、私とは本来不完全なのです。

もっと言うと多面的なのですね。

私とは、一つの固定化した性格ではないわけです。

時と所と立場、シチュエーションによって、いろんな私というのがここにあります。

今ここでしゃべっている私は、真のスピリチュアルの専門家として話をしています。

けれどこれが終われば、今度は家族で食事をする。

その時は家族の一員であり、また夫という立場があるわけですね。

あるいは会社で行けば部長とか課長とかいう立場があり、また同窓会に行けば今度は同級生としての自分がいるわけです。

あるいは自分の先生や師匠に会う時は、自分は生徒であったり、弟子であったりと、私と一口に言ってもそれは多面的であるわけです。

つまり「私」というのは他者との関係性においてでしか存在しない。

これはちょっと前にしゃべったダライ・ラマの仏教入門の中でも言いましたけども、これがいわゆる「縁起」というやつですね。

縁起が悪い、縁起がいいという、あの縁起です。

つまりは、これは関係性ということですね。

私なくして他者はありえないし、他者なくして私はないわけです。

他者と切り離された私は存在しないし、私と切り離された他者は存在しない。

これは考えれば分かりますね。

ですから本来問うべきなのは、「何が私を作っているのか」「何が私なのか」というのが本来の問いなわけです。

ところがスピリチュアルというのは、得てして「私とは誰か」ということで、他者や関係性や社会というのを排除した「純粋な私」というのを問おうとするわけです。

その背景にあるのは「他者の肥大化」だと、この本には書いていました。

実は今の現代社会、自由社会、個人主義というのは、自己の肥大化ではないのだと。

逆に「他者の肥大化」をもたらしていると言いますね。

これは考えれば分かります。

今、私はこれをカメラで収録をしています。

今、スマホがあれば簡単にできるわけです。

あるいは例の感染症以降、カメラがいろんな店に着きましたね。

あれは監視社会の入り口だと言われているわけです。

政治の話はこういった表ではしませんけども、監視社会はどんどん進んでいるわけですね。

そして私もやっていますけども、SNSですね。

これによって、例えば「いいね」の数だったり、再生回数だったり、他者の目、関心、あるいは評価というのが可視化されるわけです。

これが他者の肥大化ということですね。

もっと言えば、この他者というのはアルゴリズムも含まれますよね。

今、そのアルゴリズムの奴隷に私たちはなっているわけです。

だから自己、自分は肥大化しているのではなくて、実は矮小化しているということですね。

これは確かにそうだなと思います。

この自己が矮小化するというのは、昔であれば、例えば日本社会が分かりやすいですけども。

昔、ある村に生まれれば、その村の掟があってそれを守ってね。

例えば農民に生まれたら、生まれて死ぬまでずっと農民をやればよかったわけです。

共同体が自分の生きる道というのを選んでくれていたわけですね。

あるいは昨今でも、例えば医者の家庭に生まれれば医者になるということだし、政治家の家庭に生まれれば政治家、二世三世多いですよね。

昔は階層社会であり階級社会でした。

ですからそこでもすでに、自分という物語が与えられていたわけですね。

ただ今はそれがどんどん溶けていって、個人主義になっていったということです。

また昔であれば、戦争や疫病というのがありました。

数年前のカッコつきパンデミックではなくて、ガチの疫病ですね。

もちろん戦争というのは起こってほしくないことですけども、ある意味では戦争があるおかげで、国家、国民は一丸となることができたわけですね。

別に肯定しているわけではありませんが、「一億総玉砕」なんていう言葉も数十年前にはあったわけです。

それは善悪を超えて大きな物語だったわけですね。

大きな物語が機能している時というのは、いわゆる精神疾患というのはほとんど起こらないわけです。

昨今はそれが逆に多いというのは、生きる大きな目的を失った。

それによって個人が、この自由な社会の中で、自分でたくさんある選択肢の中からある可能性を選択して、それを生きなければならない。

そこには当然責任が伴う。

しかしそれが正解かどうかは分からない。

そこで迷って、人によってはそこで心を病んでしまうということがあるわけです。

現代はかつてないほど自己像の確立、自己肯定感なんて言いますけどね、それを確立しなければいけない。

けれども、その確立するための素材というのが極めて希薄になっている。

生きるための何らかの物語がないと、人は生きてはいけないわけです。

これは人生の意味と言ってもいいですね。

その意味が今は溶けてなくなってしまった。

けれど人は意味がなければ生きていけない。

そこで自己啓発やスピリチュアルが、物語の代替品、代わりの物語、商品としての意味を与えてくれるということですね。

しかしさっきも言ったように、それは実存的な問いをなくす方向に行ってしまうので、実は魂としては脆弱になってしまう。

もうすでに今口頭でしゃべったように、スピリチュアルはこの隙間、私が何者か分からないという不安の隙間に入り込んで、安易な答えというある種の快楽を提供するということですね。

しかし私はよく言っていますが、本来、自己啓発やスピリチュアル、あるいはカウンセリング、心理学、セラピーも全部そうですけども。

それは「何が私であるのか」「私はどう生きるべきか」ということを、自分で問い考えるヒントを提供するに過ぎないわけです。

私も過去生、守護霊のリーディング、あるいはタロットリーディングというのをやっていますけども。

それはしょっちゅう言っている通り、答えではなくて「考えるためのヒント」ですよと。

「本当の答えはあなたの中にありますよ、だからそれを一緒に考えましょう」ということで、私は仕事をしているわけです。

ところがこれは安易な答えを与えるものではない。

現代のニーズからはズレているわけですね。

私はそのズレを認識した上で、この仕事をやっているわけです。

たとえ先週の内容みたいに「分からない」とか「難しい」とか、ちょっと何というか分からないと言われてもですよ、私もまた忍耐強く問い続けるわけです。

「これが分かれば救われます」ということはないわけです。

で、ここに「なぜあの人は死んだのか」というのは、例えば戦争とか天変地異とかで亡くなった方ですね。

家族の中で、同じ場所に爆弾が降ってきたのに、同じ場所に地震や津波が起こったのに、なぜか私だけが生き残ってしまった。

なぜ大切な家族や友人はみんな死んで、私だけが生き残ってしまったのか。

これに答えはないですね。

まさに実存的な問いです。

あの先の戦争においても、ある戦艦の生き残り、自分だけが生き残って戦友たちはみんな散っていったと。

なぜ自分だけがこの戦後社会を生きているのだろうか。

それには答えはないわけですね。

いわば戦友の命も、あるいは十字架も背負って生きていくと。

答えのない問いをずっと与えられるわけですね。

これに安直な答えはないわけです。

死ぬまで抱え続けるその問いですね。

おかげさまで生きる:関係性と縁起の中に現れる真の自己

ここにすごく有名な精神科医のヴィクトール・フランクルですね、その言葉が紹介されています。

これはこの本には書いていなかったのですが、AIがやっぱり賢いので、フランクルの有名な言葉を引っ張ってきてくれましたね。

実際に引用されてあったフランクルの言葉。

それは「自己中心性」、自分さえ良ければいい、それは神経症特有の性質であるということですね。

神経症だと、病んでいるのだと。

自分のことしか考えないというのは。

けれどそれを追求するのが、この高度消費社会、大量消費社会の特徴ということですね。

そしてそれを恥とも感じないということです。

そうではない。

自分への執着を捨て、矢印を「私は何か」という問いではなくて、「何が私を形成しているのか」、その社会であり世界に問いを向けていくということですね。

ベクトルが全く逆なのだと。

フランクルの有名な言葉でいけば、あなたは人生に何を期待できるか、それを問うべきではない。

そうではない。

あなたは人生から何を期待されているのか。

人生があなたに何を問うているのか。

それを問うことである。

これをフランクルは「コペルニクス的展開」と言っているわけです。

つまり自己中心性、私たちは何かという自己中心の問いではなくて、他者に向けていく。

この社会であり世界にその問いを向けていくということ。

それがこの「他者の回復」ということですね。

現代は宗教は力を失っています。

信仰も弱くなってしまった。

日本においても素朴な宗教観、「お天道様が見ている」というそれすらも今は失いつつある。

神を殺し天を失ってしまったこの時代において、この真のスピリチュアルということにご興味があるのであれば、今こそ私を脱却して、他者や社会や世界に目を向けていく必要があります。

それにはまずは、この大量消費社会の中で自分が矮小化されているということ。

これを痛みとともに認識する必要がある。

要はこの資本主義に侵されているのだと。

スピリチュアルもまたそこに侵されていて、もはや精神性でも霊性でも何でもない、単なる物質主義の追求である。

マジスピ、真のスピリチュアルはそうではない。

「私とは何か」というその解答不可能な問いを抜け出して。

これ補足で言うと、哲学だったらいいんですよ、「私とは何か」というのは永遠の問いですから。

しかし実際にこれを生身の人間として実践して生きていくには、この問いは詰んでしまうのですね。

そうではなくて「何が自分にできるか」「他者のために何ができるのか」。

そのためのスピリチュアルであるべきだと私は思いますね。

スライド最後になりますけども、「浅薄な慰めを捨てる」ということですね。

さっきのフランクルの言葉にも通じますが、「世界はあなたのためにあるのではない、あなたが世界のためにあるのだ」ということですね。

これはジョン・F・ケネディの有名な言葉の通り、「政治があなたに何をするか、それを期待するな。あなたがこの国のために、政治のために何ができるのか、それを問うべきである」と。

これもさっきのフランクルの言葉と構造は全く同じですね。

よくスピリチュアルで「ワンネス」という言葉もありますけども。

これはつまり「世界は私であり、私は世界である」。

本当のスピリチュアルとしての立場に立つのであれば、世界は私であるわけだから、「私とは何か」という詰んでしまう、自己を矮小化させてしまう問いを問い続けるのではなくて。

自分がこの世界に何ができるのかということは、己を知らなければいけない。

この他者や世界との関係性において、この縁起において、そこに初めて自分というのが現れてくるわけですね。

もっと簡単に言えば「おかげさま」ということです。

これこそが本来の感謝に通じる道なのですね。

あなたがあって私があり、私があってあなたがある。

それを深く認識していくところに、愛というのが生まれてくるわけですね。

愛という小さい物語によって自己を肯定するのではなくて、常に問われ続けているということです。

ですから物語というのは、作っていくのですよ。

はじめから「あなたの天命はこうだ」と決まっているわけではないです。

これはよく言っていますけども、天命というのはこの仕事とかこの役割という固定化されたものではないわけです。

根本的には、常に問われ続けているということ。

物語というのは今この瞬間も紡ぎ出されている、その現在進行形なのですね。

ですから、これは不完全から出発するしかないわけです。

「どこかに完璧な私というのはあるのか」と。

それを認識するところから本当の意味での成長や発展があって、成功はこれまでも言ってきましたけども、そのプロセスの一つに過ぎないということです。

答えのない問いを伏せて、安直な答えで自分を慰めてしまった瞬間、魂が軽くなってしまう、浅薄さということですね。

今回は「なぜスピリチュアルは心を救わないのか」ということを考察いたしました。

ご参考になれば幸いです。

改めて、今回の要点

  • 上の文字起こしはまだ編集中です
  • ここまでの文章は誤字脱字を含む「ざっくり文字起こし」の段階です
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なお、YouTube(Podcast)は今回の文字起こし編集でカットした部分があります。

今回も動画と文字起こしは少し内容が変わります。

なので動画(または音声)もご視聴いただけると、より理解が深まるかと思います。

※この下に「音声プレーヤー」があります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。

マジスピラジオ:脱・お花畑の「真のスピリチュアル実践」
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第344回:スピ系の"言霊"が心を救わない理由。神なき時代の「本当の自分」の探し方。
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