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目次
今回の要点と要約文
今回の要点
- 祈りの本質は「願望を叶えること」ではなく、大いなるものに自分を委ねる姿勢にある。
- 「なりました」という断定の祈りは主体が自分になりやすく、エゴが混入しやすいため、極めて高い霊的成熟が求められる。
- 伝統的な祈りの形式である「〜でありますように」は、弱さではなく、全身全霊を委ねる強さを前提とした祈りである。
「祈り」について研究していると、祈りには「~でありますように」「~になりますように」という〈お願い型〉と、「~になっています」「~になりつつあります」「~になりました」という〈断定型〉があることがわかります。
断定型は、文法的には「現在形」か「過去形」を取ります。
私は〈お願い型〉の方が断然良いと思っています。
その最も簡単な理由は、神道の祝詞、仏教の経文、キリスト教やイスラム教の祈りなど伝統的な祈りは、一部を除いてすべて〈お願い型〉だからです。
一方、最近シリーズで話している成功哲学・自己啓発、はたまた「引き寄せの法則」においては〈断定型〉を主張する人が多い。
彼らの論理は「〈お願い型〉の『~でありますように』は曖昧である。そこには主体性がない。もっとハッキリと自分の願望を明確にしなければ、あたかも「的がわからずデタラメに矢を射るようなもの」だ。それでは叶うものも叶わないじゃないか。だから意識の上では『すでに叶ったもの』として、祈りは〈断定型〉でなければならない」というもの。
確かにこれは一理も二理もあるし、個人主義の時代を生きる私たちにはかなり説得力のある論理でしょう。
だからこそ、現代では自己啓発でもスピリチュアルでも〈断定型〉の方がウケるわけです。
「自分」が、「自分」の意志によって、「自分」の主体的な行為の積み重ねで、ついに願いを叶える。
この世では当たり前のことだし、これができる人間は周囲から一目置かれる。
・・・そう、だから「エゴ」にとってはこちらの方が魅力的に感じるんですよ。
「自分」の力で、「自分」の意志で、「自分」の才覚で、「自分」の思い通りに夢を叶え、「自分」の願った通りに引き寄せていくこと以上に、エゴにとって気持ち良いことはない。
エゴが助長していくことは、エゴにとっては心地よい。
だから現代人の多くは〈断定型〉を好むし、これを受けて自己啓発やスピリチュアルでは〈断定型〉が多く言われるわけです。
〈断定型〉が完全に悪いとは言わないけど、もしやるならエゴから完全に距離を置けているという大確信がなければ、簡単に欲望に絡め取られてしまう。
それでオーラが暗く重たくなっている人を、たくさん観てきました(それでこの世では成功している人もいますが)。
〈断定型〉の立場からすれば、「~でありますように」という〈お願い型〉は、いかにも弱々しく見えるでしょう。
しかし、現代の諸方面における文明の行き詰まりや崩壊を見つめるとき、人間の理性には限界があることがわかります。
神仏を前にすれば、我々は無力・無知の存在です。
最近、島根方面で大きな地震がありましたが、明日何が起こるのかもわからない。
人工知能でも予測不可能。
どこまで「知能」が発達しても、私たちは大切なことは何もわからない。
この頭脳の限界、根源的無知を思い知ったとき、「根源的叡智」への道が開かれる。
その立場から、全生命・全運命を神仏宇宙に託するということが、本来の、そして伝統的な祈りです。
「他力本願」は、決して弱いものではありません。
もし弱いとしたら、単に祈りが弱いだけであり、欲望で「祈ったフリ」をしているだけです。
「本願」とは、本当の想い、誠の想いです。
小さな自分の生命を超え、大いなる生命に本気でゆだねる行いが、弱いわけがない。
その意味で、本当は〈お願い型〉の方が圧倒的な強さを持っていることを、知るべきです。
要点・要約文を読んで、あとは動画でご覧になりたければ以下からどうぞ。
祈りの本質は大いなるものへ委ねることにある
今回、YouTubeをご覧いただければお分かりの通り、プレゼンの資料を使っています。
これはAIですぐに作ることができて驚いたのですが、せっかくなので今回使いましょう。
今回は「祈りの形式」について考えていきます。
祈りとは「大いなるものに自分を委ねること」ですが、その実践においては「形式」も大切なんですね。
今回の内容は、少し前にあるクライアントさんと個人セッションをさせていただいた際に話した内容の一部です。
では、スライドの1枚目です。

クライアントさんとの対話をAIで文字起こしし、その内容に基づいてさらに資料まで作ってもらったところ、私が考えていないタイトルを勝手につけてくれました(笑)
いやー便利な時代になりしたね。
では次のページです。

今回は祈りについてご質問をいただきました。
私の過去の発信内容をご参考に、例えばここでよく話している『世界平和の祈り』などを祈っておられるようですが、その中でふと次のような言葉が湧いてくることがあるそうです。
「人類の心に平穏が訪れて、安心の中で過ごせますように。
世界から争いがなくなりますように。
人々の中から恐れや悲しみ、妬みが手放されて、平和の中で過ごせますように」
そして「こうした心から湧いてくる言葉を、祈りとして唱えてもいいのでしょうか?」というご質問をいただいたんですね。
それに対して私は、「素朴に、素直に、心から湧いてくる言葉であれば、それは祈っていいんじゃないですか」と回答いたしました。
では次のスライドです。

自然に湧き上がってくる「即興の祈り」は全然OKですが、無理やり頭でこねくり回して、変に独自のもの、オリジナルのものを作ろうとしなくてもいいです(自己顕示欲の強い人はやりがちですが)。
通常であれば、伝統的な宗教の「定型・定番の祈り」や『世界平和の祈り』のような波動の高い祈りでOK。
短い言葉であれば「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」などもあります。
実践においては、『世界平和の祈り』もそうですが、短い方がやりやすいですね。

世界人類が平和でありますように。
日本が平和でありますように。
私たちの天命がまっとうされますように。
守護霊様、ありがとうございます。
守護神様、ありがとうございます。
他には「般若心経」も比較的短いので実践しやすい。
祝詞の『大祓』は少し長いですが、ずっと唱え続けていれば暗記できるくらいの長さだと思います。
いずれにしても、短かろうが長かろうが基本的には定番の祈り、伝統的な祈りをされたほうが良い。
伝統的な祈りは、多くの人々が唱えてきたことによって「集合的な意識」「集合的な波動」というものが、その言葉に宿っています。
(ただしポジティブなものだけでなく、宗教対立・宗教戦争などのネガティブものも含まれます)
ですから基本は定番の祈りを行い、その途中で自然と湧き上がってくる言葉があれば、それは素直に唱えたら良いでしょう。
「断定の祈り」がエゴを呼び込みやすい理由

ここからだんだん本題に入っていきます。
これはクライアントさんからのご質問ではなかったんですけど、注意点としてお伝えした内容をここでもシェアします。
祈りの言葉というのは、基本的に「〜でありますように」という形式ですよね〈お願い型〉。
先ほどの「世界人類が平和でありますように」という形です。
あるいはキリスト教で言えば、「主よ、今日一日の糧を与えたまえ」という祈りもあります。
「与えたまえ」(与えてください)と、これもお願いしています。
神社の本殿の前にはよく「祓い給え、清め給え、神ながら、守り給え、幸え給え」と書かれてある札があります。
これも〈お願い型〉です。
祝詞の多くは最後に「畏(かしこ)み畏(かしこ)みも申(まを)す」と言いますが、これもお願いしていますね。
したがって、伝統的な祈りは「〜でありますように」と、神仏に委ねる形式をとります。
一方、数は少ないですが「断定の祈り」というものもあります〈断定型〉。
〈断定型〉には「〜になりました」(過去形)、あるいは「〜になっています」(現在形)「~になりつつあります」(現在進行形)というバリエーションがあります。
ただ、私はこの〈断定型〉はおすすめしておらず、圧倒的に〈お願い型〉を推奨しています。
〈断定型〉は少しでも油断すると、エゴが混入しやすいからです。
これは最近シリーズで話している「成功哲学・自己啓発」にも関係するんですが、成功哲学では「~になっています」(現在形)「〜になりました」(過去形)で願望を描きなさい、とよく言います。
何回か前に話した自己啓発の元祖ジョセフ・マーフィーは、これを「祈り」と呼んでいました。
これは「すでに叶っている姿をイメージする」というやつで、これはスピ系の「引き寄せの法則」でも同じように言われます。
〈断定型〉の場合、願いを叶える主体・主人公は「私」です。
一方、「〜でありますように」という〈お願い型〉の祈りでは、主体は私ではなく「神仏・宇宙」です。
ここが大きな違いです。
〈断定型〉の「すでに成功しています」「すでに夢を実現しました、ありがとうございます」というテクニックは、前にも話したスピ系の「予祝」や「前祝い」にそのまま当てはまる。
以前私はこれを「脳のお遊びに過ぎない」と批判しました(詳細は『第336回:真の想像力は「神」から与えられる‐成功哲学・自己啓発の限界を超えて』をチェックしてください)
「自分」が達成する、「自分」が夢を叶える、という自分が主体の構造においては、ちょっとでも油断するとエゴイズムに落ちていきます。
一方「〜でありますように」という〈お願い型〉は、自分は「神仏の道具」に過ぎないわけだから、素直に実践していればエゴが入り込むスキはありません。
だから、よほど理由でもなければ〈お願い型〉の方がいいですよ、と言っているわけです。

いま話したことを、AI資料がまとめてくれています。
右側の「欲望!」という言葉が強いですね(笑)
そうなんです、成功哲学・自己啓発が〈断定形〉を好むのは、「自分の力で、自分の思い通りに、自分が生きているうちに、欲望を実現させたい」という意欲が強いからです。
後でも言いますが、〈お願い型〉では自分が主役になれないから、エゴが強い人にとっては物足りないんですよ。
まぁ野心的な欲望が完全に悪いとは言いませんが、〈断定型〉はエゴに流されやすいということは知っておいた方がいい。
ここで、過去にあるクライアントさんとの会話を思い出しました(これ、読んでくださっているでしょうか)。
その方は「私は世界平和を祈るとき、『世界が平和になりました』という過去形で言っているのですが、これはどうでしょうか」とおっしゃったんです。
そのとき私は、「別にいいんじゃないですか。それが自分にとってしっくり来るのであれば、それでなさったらどうですか」とお答えした記憶があります。
ただ、そのとき言わなかったことは、すでに述べた通り「(断定型)はエゴが混入しやすい」という点です。
なぜそれをそのときは言わなかったかというと、そのクライアントはスピリチュアルを深く学んでおられて、とても真摯な方だったからです。
エゴをベースに人生を送っている方ではありませんでした。
だからこそ私は、ご本人が実践の中で自ら学んでくだされば良いと判断し、「それがしっくり来るのであれば、それでいいと思います」とお伝えしたわけです。
でも、もしいま同じこと言われたら「〈断定型〉はエゴに気をつけてくださいね」と答えているかもしれません。
たとえエゴがベースになかったとしても、「平和になりました」という言い方は、いつかそのうちエゴが入りやすい形式ではないかと懸念するからです。
そもそも個人の願望実現と違い、世界平和のようなテーマは「人類の大悲願」と言えるものです。
「個人の力」を超えているからこそ、「祈り」の対象としてふさわしいわけですね。
だから「世界平和を願う」真摯な気持ちは尊重するべきですが、だとしたらわざわざ〈断定型〉にする必然性はあるのでしょうか。

そもそも歴史を振り返れば、縄文時代を除き、戦争がなかった時代はないわけです。
世界人類の精神性は進化するどころか、むしろ退化しているのではないでしょうか。
今や人類は核兵器を持つに至りました。
「平和ボケ」の私たち日本人はイメージしにくいかもしれませんが、一歩間違えれば地球が吹き飛ぶ、すでにそういう危機的な状況にあるわけです。
この文字起こしを作成している時点では、アメリカによるベネズエラ侵攻が起こりました。
アメリカにも言い分はあるのでしょうが、客観的に見れば国際法を無視して力づくで奪いにいっているようです。
戦争や紛争やテロはなくなる試しがないですし、国内では日本も含め移民による分断が起こっている。
どんどん平和とは逆の方向に行ってるわけです。
こういう中で、私たちは「世界が平和になりました〈過去形の断定型〉」と具体的にイメージすることは難しい。
人間の理性がとっくに限界に来ているのに、「何とかなるはずだ」と問題を先送りにしているのが現状です。
そろそろ、本当に降参しなければならないのではないか。
本当に世界平和を実現したいのでれば、私たちを生み出した創造の根源である「神・宇宙」という大いなるエネルギーに「委ねる」しかないのではないでしょうか。
この人間の理性、知性の限界を思い知ったところから、〈お願い型〉の祈りが自然と生まれてくるんです。
そういった意味から、私は大きな祈りであるほど「~でありますように」という言葉のほうが断然良いと思っているわけです。
(百歩譲って、個人レベルの小さな野望は世界平和より達成の可能性がずっと高いので、〈断定型〉でもまだ良いと思います)

いずれにしても、根源的な問題というのは、私たちのエゴですね。
これ、よく言ってますよね。
問題の核心は、祈りの言葉の形式ではなくて、根源的にはエゴの話なんです。
ですから、さっきの断定の祈り、それをやるのはいいんだけども、そこに私はエゴはない、エゴはないんだと。
本当に本気で心底から、世界の平和を願っていると断言できるんであれば、いいです。
ところが厳密に言えば、「自分が平和を実現したい」「自分の生きている地に実現したい」。
これもまたエゴに落ちる可能性がある。
自分が主役になって、自分の力で平和を達成できれば、例えば周りから褒められる、評価される、もてはやされる。
英雄だと言われる。
愛国者だと言われる。
あなたは世界を救うリアル・アベンジャーズだ、と。
そこには地位や名誉、お金、そういったものが厳密に言えば結びついてくるわけですよ。
実現の主体が自分である、というのは、そういう危険をはらんでいるわけですね。
それでもなお「私にはエゴがない」と、そういった自信を持てるんであれば。
まあこれも厳密に言いますが、自信というのもまたエゴに簡単に結びつきますからね。
だからこの「なりました」という過去形は、相当レベルが高いと思ってくださいね。
別にやるなとは言いませんし、私が過去に学んだ人間として、本当に立派な方々の中で、こうした断定調で祈りをされる方はおられます。
だから絶対やるなとは言いません。
ただ、その方々、私の知ってる範囲ですけども、共通しているのは、過去に宗教的な修行を相当積んだ方です。
徹底的にエゴを見つめて、見つめて、見つめ尽くした方が、英知として、直観として、インスピレーションとして、いわば神仏から祈りの言葉を与えられる、ということがあるわけです。
具体的に言いましょうか。
例えばこれ、前もマジスピラジオの100回ぐらい前ですかね、紹介したことがありますけども、仏教詩人の坂村新民さんという方がおられますね。
有名な方ですけども、この方も断定の祈りというのをされていたんですね。
その言葉は、ちょっと高度になっちゃいますけども、「大宇宙大和楽」という言葉です。
もう一回言います。
大宇宙大和楽。
「和楽」っていうのは、「和をもって尊しとなす」の和に、楽しいという字ですね。
大宇宙大和楽。
これは断定の祈りです。
ただし、新民さんはご存知の方もおられると思いますけども、詩人としての修行、ご自身は苦労の多い人生で、そして宗教的な修行を積んでこられた方ですよ。
その方が「大師魂様」とご本人がおっしゃってますね。
大は大きい。
師はポエムの詩。
魂は魂ですね。
大師魂様から受け取ったと。
この「大宇宙大和楽」という言葉を。
これは自分から出ていない、エゴから出ていないんです。
「大宇宙大和楽」っていうのは断定の祈りだから、主体は自分のように見えるんだけども、実はその言葉は大師魂様から、大直観として与えられたものなんですよ。
だから断定の祈りで主体は自分ではあるが、実はそこには深い「天に委ねる」善託と言いますけども、それがあるわけですね。
そこまで行けるんであれば、こっちでいいですよと。
ここまで言うとお分かりの通り、まあ私も含めて普通は「なんとかでありますように」。
「なんとかせしめたまえ」とか、「かしこみかしこみ申す」ですよ。
こっちのほうが、私はいいと思いますけどね。
他力本願とは全てを捧げ尽くす祈りである
「なんとかになりました」っていうのは、スピリチュアルとか自己啓発とか、勉強をした方が、こっちへ行くことがあるんですね。
だって「なんとかでありますように」って、これ自分がないじゃん、なんか物足りないじゃん、という意見もあるんですよ。
私が、自分がやるんだ、俺が叶えてやるんだ、というですね。
その主体性がないように感じるんですね。
ある程度勉強してきた段階で、こっちがなんか弱々しく見えてしまう。
学びの一時期においては、過去形とか現在形のほうが面白くて楽しくて、なんかやりがいがあるように感じる時期もあるかなと。
私個人としては、あまりこっちはやらないんですよね。
っていうのはね、なんか違和感があったんですよ。
自己啓発や成功哲学が、個人的にあまりしっくり来なかったっていうのもありますけど。
私としては、やっぱりこっちですね。
っていうのは、自分の力を超えたものに突き動かされたような、あるいは守られたような経験があるからです。
例えば、これもずっと前にマジスピラジオで言いましたけども、交通事故にあったときですね。
当時、会社勤めで営業をやってたとき、首都高を走っていたときに、一瞬の油断で壁に激突した。
軽自動車に乗ってたんですけども、車は3、4回転ぐらいして、廃車ですよ。
けど私は怪我は一つもなかったんですね。
軽く100円玉ぐらいの薄いあざが、足にできたぐらいでした。
こういった、自分の力を圧倒的に超えたような経験があると、自分の頭、理性や知性では到底及ばない世界があるなということを、実体験として痛感せざるを得ない。
そういった経験が何回かあると、自分の自我で、エゴで、ああだこうだ思うよりも、委ねたほうが、こう言うとなんですけども、楽だなと思いますね。
せっかく自分を生かしてくださっている力があるんであれば、そこに委ねたほうがいいんじゃないかなと思いますね。
一部では、こういったのを他力本願と言って、なんか弱々しく見る節があるんですよ。
ただそれは、他力本願の中でも初歩的な部分ですね。
本当の他力本願というのは、さっき善託という言葉を使いましたけども、すべての力を託すことですから。
「なんとかでありますように」という他力本願の心髄というのは、すべてを捧げ尽くすということですから。
これは、ちょっとあやかろうとか、なんかいいことがあればいいな、みたいな、そんなちっぽけな思いではないんです。
本当の全身全霊を、この祈りに捧げる。
これは大きな力なんですよ。
聖書に記載がありますけども、神に至る門というのは狭き門なんですよ。
狭いってのはどういうことかというと、自分が謙虚になって小さくならなければ入れない、という意味ですね。
大きな力がそこになければ、人間は謙虚にはなれないんですよ。
だいぶ前の回で言いましたけども、本当の感謝というのは、心が強くなければできないんですよ。
これと同様に、本当に謙虚になるっていうのも、心が強くなければできないんですね。
ですから「なんとかでありますように」というのは、初歩的な他力本願のレベルでは小さいものです。
ところが、これがどんどんレベルが上がっていくと、最強になるわけですね。
この祈りの道を歩んでいって、時に大直観として来るのであれば、こっちの断定、過去形でやってもいいと思います。
ところが、なんかこっちがかっこいいとかね、自分が主役になれるとか、そういった思いが少しでもあるんであれば、エゴに簡単に流されてしまうので。
次元の低い自己啓発や成功哲学の、エゴイズムの世界に絡め取られて終わると。
例えばそれで成功できたとしても、波動は重たく暗くなりますよって、もう何回も言ってきましたね。
(自力の世界に入ると、他力が受け取れなくなる怖れがある)
だから普通は「なんとかでありますように」という、神様、仏様、宇宙に委ねるつもりでやればいいし。
本来それは弱いものではなくて、その逆です。
本当に狭き門に入るほど小さくなれるというのは、強くなければ絶対できないです。
ただし、こういったことは、さっきも言いましたね。
自分の心に響いて、しっくりくるんであれば、この断定、現在形、過去形でもいいですよと。
結局、答えは自分の中にあるわけですから。
私はこっちのほうは、しっくりは来なかった。
けど人によっては、こっちのほうがいいという方もおられるかもしれませんね。
だからそれはそれでやればいい。
やっていって、何か違うなと思ったら、やっぱり帰ればいい。
こっちの「なんとかでありますように」をやってて、なんかこっちがいいなと思ったんであれば、こっちをやればいいんですよ。
ただ、私の過去の経験だったり学んだことを総合すると、普通はこっちのほうがいい。
いろんな祈りも、仏教の教典も、祝詞も、全部こっちです。
こっちが伝統です。
だから間違いないんです。
自分は人と違うことをやりたいとか、差別化したいとか、そういった見栄の心でこっちをやるんであれば、それはあんまりおすすめはしないですよ、という話でした。
今回は祈りの形式について考えてみました。
祈りとは、小さな私が大いなる者へと委ねる、その道であるという話でした。
ご参考になれば幸いです。
改めて、今回の要点
- 上の文字起こしはまだ編集中です
- ここまでの文章は誤字脱字を含む「ざっくり文字起こし」の段階です
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なお、YouTube(Podcast)は今回の文字起こし編集でカットした部分があります。
今回も動画と文字起こしは少し内容が変わります。
なので動画(または音声)もご視聴いただけると、より理解が深まるかと思います。
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