※ウェブサイト『マジスピ』には音声の文字起こし(読みやすく加筆修正済)があります。

■YouTubeではメモ、資料、スライドなどを映していますが、音声プラットフォームの「ながら聞き」でも十分ご理解いただけると思います。
ウェブサイトでは最下部に音声プレーヤーがあります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。
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ここから下はまだ編集中です。「一部に誤字脱字を含む、ざっくり文字起こしの段階」をご理解の上で読んでください。配信日から1週間以内に加筆修正とスライド等を足して読みやすくするので、待てる方は少しお待ちください。
目次
今回の要点と要約文
今回の要点
- この世界の理不尽は神の不在ではなく、人類の自由意志の結果である。
- 「神などいない」という嘆きは魂の反抗期であり、その思考自体が自らの波動を重くさせている。
- 真の霊主体従の生き方とは、環境のせいにせず、自らの意志で人生にイエスと言うことである。
※要点は以下のショート動画でも語っています
(ここにショート動画が挿入される予定です)
■「神への反抗期」からの卒業。天与の"自由意志"に霊的な責任を持つ。■
今の世界を見渡せば、戦争や貧困、痛ましいニュースが絶えず、誰もが一度は「本当に神様はいるのか?」と疑問を抱いたことがあるのではないでしょうか。
今回の内容はYouTubeのショート動画に寄せられたあるコメントがきっかけで作成しています。
それは
「神など存在しないのだから祈りには意味がない。もし神がいるなら、どうしてこんなに酷い世の中になったんだ」
という、切実な嘆きの声でした。
「この物質世界が薄汚れて見える」感覚には、私自身も共感できる部分があります。
でも「真のスピリチュアル」という視点からは、そこにはある「大きな誤解」が隠されているように思いますね。
人間は神("法則"でも"摂理"でも"自然の仕組み"でも結構)から「自由意志」を与えられた存在です。
今の理不尽に思える世界は、神がいない/神が死んだ証明ではなく、人類が自由意志をエゴ的に使ってきた結果です。
しかし、それを「神なんていないんだ!」と嘆き、外側に責任を転嫁している人は、間違いなく波動(オーラ)が暗く重たい。
それに対してどんな姿勢を取るかもまた「自由意志」にかかっているわけですが、それを放棄するわけだから、そりゃオーラは重たいし誰もあなたを尊敬しないよ。
「自然の仕組み」は実にシンプルで、調和から離れ、自己中心的になればなるほど、その人のエネルギーは淀み、不運を招いてしまう。
こんな理不尽な世界でも、前を向いて、あきらめずに闘っている人はいます。
そういう立場から見れば、嘆く人はいわば「神への反抗期」であり、魂の幼さの現れではないでしょうか。
ちょっと厳しく聞こえるかもしれませんけど、そうやっていわば「主体的に不幸を選択している」ことに気づかないと。
前回も引用した精神科医ヴィクトール・フランクルは、地獄のアウシュビッツ収容所の生き残り。
講演集『それでも人生にイエスと言う』で語った通り、人間にはどんな境遇にあっても、自らの解釈・態度によって状況を肯定できる力がある。
それが自由意志なんですよ。
もちろん簡単にできることじゃないから、いま私たちはこうして学んでいるわけです。
もし人間に自由意志がなく単なる操り人形だったら、他の動物と同じく苦悩はないだろうけど、同時に成長もないんですよ。
たとえ明日世界が滅びるとしても、今日という日を魂の成長に向かって生きる気概を持っている人は、オーラが実に輝いている。
私はたまたまそういうのがある程度わかる人間なので、理屈抜きにそういう生き方が良いと信ずる。
もちろんどんな価値観もアリだとは思うけど、自分だけでなく周りも傷つけるような価値観は、素朴に考えてやめた方がいいんじゃない?ってこと。
すべてはあなたの選択次第。
それが「天与の自由意志」に責任を持つ、ということなんです。
要点・要約文を読んで、あとは動画でご覧になりたければ以下からどうぞ。
神は操り人形師ではない|人間に与えられた「自由意志」という諸刃の剣
今回のタイトルは、「神への反抗期を超える」というテーマですね。
サブタイトルは「なぜこの世界は理不尽で悲しみに満ちているのか」というタイトルです。
最近の配信は、ちょっと声が大きくなる場面が結構あるのですが、今の収録は深夜に撮っていますので、いつもよりは少し落ち着いてお話ししたいなと思っています。
ただ、喋っているうちにだんだん熱くなってきて、つい声が大きくなってしまう場合もあるかもしれません。
そのあたりは、あらかじめご了承いただければと思います。
半年くらい前からYouTubeでショート動画を出すようになりまして、最近はこの配信日以外、週に6回ほど、だいたい18時半頃にアップしています。
以前出したショート動画の中で「祈り」をテーマにしたものがあったのですが、そこで時々コメントをいただくことがあるんですね。
その中で、このようなコメントがありました。
今YouTubeだとスライドを通していますが、音声だけでもわかるように話をしますので、お好きな媒体でご視聴・ご聴取ください。
そのコメントというのは、「神など存在しないのだから、祈りには意味がない。もし神がいるなら、どうしてこんなに酷い世の中になったんだ」という、嘆きのメッセージでした。
今このコメントをお聞きになって、あなたはどう感じられましたでしょうか。
私の第一印象としては「わかるなあ」という感じですね。
確かにそうだよね、と。
この物質世界というのは、本当に薄汚れていて腐っているなあ、と感じたのは、たぶん私だけではないはずです。
色々な宗教が「愛」とか「平和」とか、そういったことを言います。
スピリチュアルでもそうですね、「愛」とか「許し」とか「感謝」とか。
でも、そういった言葉も虚しく響くほどに、今の世の中は決して平和とは言えないわけです。
そうなると、「じゃあ本当に神様っているのか?」という疑問に繋がるのは、当然のことだと思います。
ですから、このコメントに対しては共感できる部分が確かにあるんですね。
次のスライドにも、そういったことを書いています。
最近のニュースでは、小中学校の子供の自殺者が過去最高になったというニュースを見ました。
これは公表されているだけの数字なので、実際はもっと多いのかもしれません。
よく言われることですが、物質的には豊かになっても、悩みや苦しみは深まるばかりだと。
「本当に神様っているのか?」という疑念を抱かざるを得ない気持ちはありますよね。
ただ、このメッセージは「真のスピリチュアル」という観点からすれば、やはり誤りを含んでいる、つまり間違っているわけです。
それを今回は、しっかりと説明をしていきたいと思います。
この世界には「神仏」、あるいは「真理」とか「摂理」とか、以前解説した「波動の法則」といった「自然の仕組み」というものがあります。
それらは目には見えませんけれども、実際にはあるんです。
ただ、私たち人間は神の操り人形ではありません。
ここにマリオネットと書いていますが、人形ではないんです。
神様がいないわけではないけれど、人間には「自由意志」があると言われていますね。
この世界が物質的には豊かになっている部分もありますけれども、全体としては未だ不調和な部分が多いわけです。
それは、私たち人類がそれを選択してきた結果だということですね。
これが、この配信でよく言う「エゴ」というやつです。
ただ、これは一般庶民というよりは、権力者とか支配層とか、お金を中心としたパワーを持っている人たちですね。
いわゆるエリート層という方々が、だいぶエゴイズムに侵されていると。
そのことは、この世界の不調和の大きな原因の一つにはなっています。
ただ、そういったことも含めて、「全体の、この人類の選択なんだ」という視点が大切です。
最近のスピリチュアル界隈でもよく言われているように、縄文時代というのはとても平和な時代だったわけですね。
それが農耕文化が始まって、そこに「富の所有」というのが始まってから、だんだんとエゴイズムが出てきたという流れがあります。
太古の人類というのは、神と人がそれほど分離していなかった時代だ、というふうに言われています。
物質的なものは今ほど豊かではない代わりに、精神性とか感性とか、そういったものは昔の人の方が遥かに優れているんですね。
逆に今は、物質的には豊かになったかもしれないけれど、まるで椅子取りゲームのように、魂あるいは精神性というのは堕落をしてしまっているということです。
では、次のスライドですね。
「体主霊従(たいしゅれいじゅう)」。
これ、音だけで聞いていると分かりにくいですが、体は肉体の体です。
「体が主(メイン)となる」ということです。
「霊」はスピリットの霊ですね。「霊は従(サブ)である」と。
体がメインでスピリットはサブである、これが体主霊従と言います。
次に、スピリットがメインで、肉体がサブである、これが「霊主体従(れいしゅたいじゅう)」と言います。
この「体主霊従」の状態というのが、今の私たちの多くですね。
つまり、この肉体が自分だと思っている。
自分の生存本能、自分さえ良ければいいと考える、このエゴイズムですね。
物質主義的価値観、そして自己中心性。これが体主霊従、自分さえ良ければいいという生き方です。
ところが一方で、こうしたスピリチュアル、とりわけ真のスピリチュアルを学ぶというのは、人間の本体というのは霊(スピリット)であると知ることです。
目に見えない、いわば「気」のようなものですね。
目に見えないから「霊」なわけですけれども、本来はこの魂こそがメインであると。
肉体や心というのは、その従者であり道具に過ぎないんだ、ということですね。
これが、物質主義的価値観が全盛を極めるとともに、徐々に失われていってしまっているわけです。
さきほども言いましたが、とりわけエリート層と言われている人たち。
表に名前が出ている人で、時々オーラや波動を見るわけですけれども、まあ酷い人が多いわけですよね。
利権のことしか頭にない、この世さえ良ければいい、という感じです。
こういった人は、死んで肉体を手放した後というのは、本当に大変なんですよ。
もし、いわゆる「あの世」が映し出せるような機械でも発明されるのであれば、よく分かります。
本当に悲惨なことになっていますから。
ですから、自分の与えられた能力を生かして人に喜ばれるような、そしてそれが地球全体のためにもなるような、そういった生き方を心がけること。
これは単なる道徳の綺麗事ではなくて、本当に大事なことなのですが、こういったことが今分からなくなっているということです。
それだけ、左側の「体がメイン」とする体主霊従の考え、これは動物とほぼ一緒ですけれども、それが広がってしまっています。
ですから、こういった真のスピリチュアルを学ぶ私たちは、「霊主体従」なんだと。
スピリットがメインなんだ、という意識を持って、未熟なエゴを抱えながらも、祈り心を持って「今日よりは明日」と、霊的に、魂として成長していくことが必要なわけです。
その思考で幸せになれますか?|否定と嘆きが引き寄せる重苦しい波動
はい、では次ですね。
さきほどのコメントをくださった方に、まず素朴なことを言っておくと、「神様はいない」というその論理はいいとして、じゃあ、それであなたは幸せを感じられますかと。
本当に心から幸福を感じられますか、という素朴な問いがまずあります。
さきほど言った自由意志に絡めて話をすると、自由意志というのは、どんな環境や境遇であっても、それを肯定する力が人間の中にはあるんだということ。
それをまず信じる必要があるんですね。
以前見た『フェイトレス』という映画は、あまりメジャーではありませんけれども、ある少年がアウシュビッツの収容所に入れられてしまうという内容なんです。
アウシュビッツなので、当然そこには悲惨な現実があるわけですが、ネタバレになるのであまり言いませんが、それでもなお、彼はその悲惨な状況を肯定するんですね。
ちょうど先週、ヴィクトール・フランクルの言葉を紹介しました。
フランクルの著書で有名な『それでも人生にイエスと言う』という本がありましたね。
これは講演集なのですが、戦後すぐに出されたもので、このタイトル通り、それでも人生にイエスと言うのだと。
これが人間の自由意志の力なんです。
だから、自分の意志で不幸になることもできれば、幸福になることもできる。
そう言うと、なんだかさきほど言っていた自己啓発っぽく聞こえるかもしれませんが、そういった安っぽい話ではなくて、本当の「魂の力」として、そういうものが人間にはあるんだということを、どこまで信じられるかが大事ですね。
次のスライドですが、じゃあ、さきほどのコメントをくださった方に、「もし神様がすべてお膳立てをしてくれたら」という問いを立ててみましょう。
「これはいいよ、これはいけないよ」と、人間にもわかる言語でちゃんと喋ってくださって、すべてを整えて、悪い政治家や学者、官僚、ウォール街の連中を全員ぶっ潰してくれたとしましょう。
もしそうしてくれたら、果たして幸せになれるでしょうか。
もし仮にそうなれば、目先の苦しみは減るのかもしれません。
しかし、そこには人間の自由意志はもう存在しないわけです。
言い換えれば、そこに学びはないということです。
ただ言われるがままに従って生きさえすればいい、ということにならないでしょうか。
さあ、それは果たして真の幸福に繋がっていくのでしょうか。
実は、私が最も気になったのは、コメントをくださった方のオーラや波動ですね。
もうお分かりかと思いますが、私はペンネームでも源氏名でも波動はわかりますので、ふっと波動を見ますと、だいいぶネガティブなオーラで満たされていて、重たいオーラなんですね。
だから、そういった思考や考え方そのものが、決して幸せには繋がらないということです。
これは合理的に考えた方がいいと思います。
こういう言い方をすると、いわば「波動原理主義」みたいになってしまうかもしれませんが、別にどんな思想や考え方、いかなる価値観を持っていてもいいんです。
ただ結果的に、それによって自分の波動が良い状態であるかどうか、ということですね。
このオーラとか波動、エネルギーというのは、調和がとれていればいるほど、清らかで明るくて、涼やかで穏やかで、楽しい感じというのがあるわけです。
不調和というのはその逆ですね。
肉体中心になって物質主義やエゴイズムに落ちれば落ちるほど、なぜか波動というのは重たく、暗くなり、そして臭い。
腐った感じがする、というのもあります。
これは本当にシンプルで面白い原則なんです。
だから、そのコメントをされた方の波動が重たい以上、やはりその考え方は修正する必要があるんじゃないか、ということですね。
そして今回のタイトル、「神への反抗期」。
もうわかりましたね。
「なんで神様がいるんだったら、こんなに世の中は悲しみや暗さに満ちているんですか」という問いの中には、神に対する反抗があるわけです。
ずっと前ですが、このマジスピラジオで「魂の中二病」という話をしたことがあります。
これは、少しの神秘体験、光が見えたとか声が聞こえたとか、そういったちょっとしたことで調子に乗ってしまう、増長してしまうということですね。
スピリチュアル的な傲慢というやつです。
これを魂の中二病と言いました。
だから、この業界の中で覚醒とか目覚めとか言っている人たちの99%は、全くの勘違いだと。
「自分は目覚めた」なんて、寝ぼけたことを言っているわけです。
これはオーラや波動を見ればすぐにわかります。
ちょっと光を見たくらいで調子に乗っているようでは、先が思いやられるということです。
この「神への反抗期」というのは、この魂の中二病に通じる内容だなと思いました。
ところが、魂の中二病の方はまだ、神秘的なものや神仏、心霊的なものを認めている立場なんですね。
だから、まだいいかなと思ったんですよ。
それよりも「神様なんていません」というのは、全否定ですよね。
だから、この魂の中二病よりさらに次元が落ちてしまうなあ、と。
ちょっと申し訳ないのですが、そういうふうに感じました。
ですから、あえて分かりやすくするために「魂の小二病」と書きました。
ちょっときつい言い方かなと思いましたが、あえて中二病という言葉を使いました。
ただ冒頭でお伝えした通り、これは誰しもが通る道なんですね。
私自身も、かつてはこうした状態に陥っていた時期があると思います。
ただ幸い、自分より遥かに優れた師匠や色々なご指導があって、「自分は大したことがないな」と思い至るわけです。
ですから、誰もがその魂の遍歴において、こうした道を通って、そして成長・成熟をしていくわけですね。
まあ、でもお気持ちはすごくよくわかります。
それだけ、この世界がまだ発展途上だということですよね。
とはいえ、目を移せば、たとえば自然が美しかったり、最近はちょっと乱れているとはいえ、四季の美しさがあったり。
あるいは、伊勢や出雲といった神社にお参りした時の、あの荘厳な感じ。
あるいは、日々いただく食事のありがたさ。
そうやって視点を少し変えれば、あるいはこの人間の喧騒の社会から少し距離を置けば、大きな豊かさというのもまた見えてくるのかな、というふうに思います。
次のスライドですね。
「なぜ神は沈黙するのか」ということを書いていますが、さきほど言ったように人間には自由意志が与えられています。
世の中には色々な人がいます。
当然、波動が重たく、動物に近いような人もいる。
一方で、歴史を紐解けば、本当に偉大な、「この人は神様の化身か」というような人も、数は少ないけれどもいらっしゃるわけです。
それもこれも、人間の自由意志をどう生かしたか、というその一点にかかっているわけですね。
確かに周りを見れば、まるで神様がいないかのような苦しいこと、悲しいことが起こっているかもしれませんが、じゃあ、それを見て私やあなたはどうするのか、ということです。
自分も同じように、そこに流されていくのか。
いや違う、自分はこんな生き方をしたくない、と。
たとえば「明日世界が滅びようとも、今日自分は、自分の考えうる善や愛、義を実行していこう」と。
これは自由意志で決められることですね。
それは百歩譲って、たとえ神様がいなかったとしても実行する、ということです。
さきほど「魂の小二病」なんて嫌な言い方をしてしまいましたけれど、あのコメントの中には、やっぱり依存心が隠れているなと思いました。
「自分の思ったように動いてくれない」ということで、拗ねているような感じも受けましたね。
だから、そこをやはり脱却しないといけないわけです。
前々回までよく言ってきましたが、周りがどうかなんてどうでもいいわけです。
「自分がどうするか」です。
他人なんて変わらなくてもいい、世界なんて変わらなくてもいい。
ただ、自分がやるべきことをやるだけ。それもまた自由意志なわけですね。
そして大事なのは、やはり「気づき」です。
「神様なんていないよ」と言うのは自由ですが、そういったことを言って波動が重たく暗くなるようであれば、そこに何の意味も価値も生産性もないわけです。
そうやって考えるのは結構ですが、その結果として、自分自身の運命や運勢はどんどん落ちていく。
それが結果です。
「神様なんか存在しない」と思うのは自由ですが、そう思っているあなたの波動が重たいとしたら、その結果をすべて、自分の自由意志が生んだ結果として引き受けなければならないわけです。
どっちがいいですか、という話ですね。
ここ何回かは、自己啓発や成功哲学の話をしてきました。
思考のすべてが現実化するとは思いませんが、どういうふうに解釈をするかということは、それはそれで大事ですよね。
わざわざ自分の人生を暗く悲しくして、さらに自分の周りまでそのネガティブさを広げていく。
それは本当に自由だろうか。
百歩譲って、神様は存在しない。だから自分の意志だけで生きていくんだと。
100%自力で生きていくのであれば、それはそれで立派なことです。
真のスピリチュアルという観点からすれば、自力だけではどこかで行き詰まると思いますが、それはそれで一つの立派な生き方です。
「全部自分の力で切り拓いていく」と。
けれど、それもしないのであれば、やはり一種の依存心があり、また幼い部分から脱却できていないな、という印象を受けざるを得ません。
全てはあなたの選択次第|不平不満を越え、明日をより良く生きる智慧
では、最後のスライドです。
反抗期を卒業する。
世界は必ずしも自分の思い通りにはなりませんが、そこに解釈の余地は「自由意志」として与えられているわけですね。
不平や不満は、人間である限り当然あります。
それらを引き受けて人間としての成長を求めていくか、それともすべてを責任転嫁して人のせい、さらには神様のせいにしていくのか。
当然ですが、前者の方が波動やオーラとしては非常に清らかなんですね。
私はさきほども言いましたが、いわば「波動原理主義者」なので、波動の綺麗な方を選びます。
面白いことに、波動が清らかか汚いかというのは、そのまま人間の「善と悪」に通じていくんですね。
やはり法則や摂理、自然の仕組みというのは絶対にあるな、と感じます。
そういったことは、過去の立派な宗教家やスピリチュアルマスターと言われている人たちが、異口同音におっしゃっていることです。
私たちはそれを、まずは素直に受け入れていくことが大事ではないかと思います。
神様は確かに目には見えません。
けれど、自然の美しさを見つめていると、そこにやはり神様を想わざるを得ません。
理屈抜きで感じてしまうんですね。
ですから、願わくば人間の喧騒を逃れて、スマホも見ないで、時々は自然をじっくり見つめてみてください。
あるいは、私などは祈りや瞑想を習慣にしていますので、その「神なるもの」は内側にもあるのだという、さきほどの「気づき」ですね。
それを深めていくことによって、この神への反抗期というのは卒業していける時が来るんじゃないかな、というふうに思います。
すべては自由意志、あなたの選択次第です。
今回は「神への反抗期を超える|なぜこの世界は理不尽で悲しみに満ちているのか」というお話をしました。
ご参考になれば幸いです。
改めて、今回の要点
- 上の文字起こしはまだ編集中です
- ここまでの文章は誤字脱字を含む「ざっくり文字起こし」の段階です
- 1週間以内に完成させます
- 良かったら、先にYouTubeに「いいね!」していただけると励みになります
なお、YouTube(Podcast)は今回の文字起こし編集でカットした部分があります。
今回も動画と文字起こしは少し内容が変わります。
なので動画(または音声)もご視聴いただけると、より理解が深まるかと思います。
※この下に「音声プレーヤー」があります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。





