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目次
今回の要点と要約文
今回の要点
- この世界がいまだ不幸なのは「神の不在」ではなく、人類の自由意志をエゴの方面に使った結果である。
- どれだけ論理的に正しくとも、自分や世界を否定する考え方は、確実にオーラ(波動)を暗く重たく卑劣にする。
- 神の不在を嘆くのは自由だが、そうする限り運勢はどんどん悪くなる。その不毛さに早く気づき、「それでも人生にイエスと言う」態度を確立すること。
※要点は以下のショート動画でも語っています
■「神への反抗期」からの卒業。天与の"自由意志"に霊的な責任を持つ。■
今の世界を見渡せば、戦争や貧困、痛ましいニュースが絶えず、誰もが一度は「本当に神様はいるのか?」と疑問を抱いたことがあるのではないでしょうか。
今回の内容はYouTubeのショート動画に寄せられたあるコメントがきっかけで作成しています。
それは
「神など存在しないのだから祈りには意味がない。もし神がいるなら、どうしてこんなに酷い世の中になったんだ」
という、切実な嘆きの声でした。
「この物質世界が薄汚れて見える」感覚には、私自身も共感できる部分があります。
でも「真のスピリチュアル」という視点からは、そこにはある「大きな誤解」が隠されているように思いますね。
人間は神("法則"でも"摂理"でも"自然の仕組み"でも結構)から「自由意志」を与えられた存在です。
今の理不尽に思える世界は、神がいない/神が死んだ証明ではなく、人類が自由意志をエゴ的に使ってきた結果です。
しかし、それを「神なんていないんだ!」と嘆き、外側に責任を転嫁している人は、間違いなく波動(オーラ)が暗く重たい。
それに対してどんな姿勢を取るかもまた「自由意志」にかかっているわけですが、それを放棄するわけだから、そりゃオーラは重たいし誰もあなたを尊敬しないよ。
「自然の仕組み」は実にシンプルで、調和から離れ、自己中心的になればなるほど、その人のエネルギーは淀み、不運を招いてしまう。
こんな理不尽な世界でも、前を向いて、あきらめずに闘っている人はいます。
そういう立場から見れば、嘆く人はいわば「神への反抗期」であり、魂の幼さの現れではないでしょうか。
ちょっと厳しく聞こえるかもしれませんけど、そうやっていわば「主体的に不幸を選択している」ことに気づかないと。
前回も引用した精神科医ヴィクトール・フランクルは、地獄のアウシュビッツ収容所の生き残り。
講演集『それでも人生にイエスと言う』で語った通り、人間にはどんな境遇にあっても、自らの解釈・態度によって状況を肯定できる力がある。
それが自由意志なんですよ。
もちろん簡単にできることじゃないから、いま私たちはこうして学んでいるわけです。
もし人間に自由意志がなく単なる操り人形だったら、他の動物と同じく苦悩はないだろうけど、同時に成長もないんですよ。
たとえ明日世界が滅びるとしても、今日という日を魂の成長に向かって生きる気概を持っている人は、オーラが実に輝いている。
私はたまたまそういうのがある程度わかる人間なので、理屈抜きにそういう生き方が良いと信ずる。
もちろんどんな価値観もアリだとは思うけど、自分だけでなく周りも傷つけるような価値観は、素朴に考えてやめた方がいいんじゃない?ってこと。
すべてはあなたの選択次第。
それが「天与の自由意志」に責任を持つ、ということなんです。
要点・要約文を読んで、あとは動画でご覧になりたければ以下からどうぞ。
神は本当に存在するのか?この世界からいまだ悲しみが消えない理由。

今回のタイトルは「"神への反抗期" を超える」です。
サブタイトルは「なぜこの世界は理不尽で悲しみに満ちているのか」。
今回の配信より半年ほど前から、YouTubeでショート動画を出すようになりました(更新時点では週6回)。
過去のショートには「祈り」をテーマにした動画が割と多いのですが、その中でこのようなコメントがありました。

「神など存在しないのだから、祈りには意味がない。もし神がいるなら、どうしてこんなに酷い世の中になったんだ」
この嘆きのコメントを読んだ私の第一印象は「わかる。確かにそうだな」というものでした。
この物質世界は本当に腐ってるなあと感じているのは、私だけではないはず。
色々な宗教が「愛」とか「平和」とか言うし、私も過去の配信で何度も『世界平和の祈り』を推奨してきたけど、それらは虚しく響きます。
この現状を見れば、「本当に神様っているのか?」という疑問が湧くのは当然でしょう。
ですから、このコメントに対しては共感できる部分が確かにあるんですね。

最近のニュースでは、小中学校の子供の自殺者が過去最高になったというニュースを見ました。
これは公表されているだけの数字なので、実際はもっと多いのかもしれません。
よく言われることですが、物質的には豊かになっても、悩みや苦しみは深まるばかりだと。
「神が全知全能であるなら、どうしてこんなことに?」という疑念を抱かざるを得ない気持ちはありますよね。
ただ・・・この考えは人情としては理解できるんですが、「真のスピリチュアル」という観点からは誤りを含んでいると言わざるを得ません。
それを今回は、しっかり説明していきます。
この世界には「神仏」、あるいは「真理」とか「摂理」とか「自然の仕組み」とか呼ばれるものがあります。
それらは目には見えませんけれども、実際にはある。
例えば物理宇宙の運行を概観すると、そこには超精密な摂理に則って動いている天体があります。
これを古くは「常」とか「道」とか言うわけです。

とはいえ、私たち人間は「神の操り人形(マリオネット)」ではありません。
なぜなら、人間には「自由意志」が与えられているからです。
確かに、今の世界は物質的には豊かになっている部分もあるけれど、全体としてはいまだ不調和であり、その不調和度は年々深刻になっている。
それは、私たち人類がそれを「自由意志」で選択してきた結果なんです。
本来の地球は、大自然を眺めればわかる通り、もっと美しい世界です(もちろん人間の立場からは自然の残酷さも目に映るが、それを含めて調和した世界です)。
こう言うと、コメント主の方は「私が生まれたときはすでに不調和な世界だった。だから私にはその責任がない」と言うかもしれません。
もちろん直接的な責任はないかもしれないけど、「世界人類」とはあなたも含んだ存在なんです。
「波動の法則」の観点からすれば、あなたはあなたの魂の波長に合った世界に「同調」して生まれてきました。
この私もまた、私の魂の波長に合ったこの世界に「同調」して生まれてきました。
ですから、大きな視座においては、あなたも私もこの「腐敗した世界」に加担しているといっていい。
後でも言いますが、本当にこの世界がイヤなら、1ミリでも良い方向に変えるべく自分のできることをするのが、成熟した人間の「責任」ではないですか?
もしそれをしないんだったら、あなたは「駄々をこねている子ども」だと言われても仕方がないでしょう。
もっとも、視点を変えればあなたの魂はピュアだと言えるかもしれません。
あなたの「魂の記憶」からすれば、この地球世界はもちろん理想的な場所ではない。
最近のスピ界隈でもよく言われているように、1万年以上も続いた「縄文時代」はとても平和な時代でした。
そこから農耕文化が始まり「富の所有」が始まってから、だんだんと自己中心性が生まれてきました。
太古は、神と人がそれほど分離していなかったと言われています。
物質的には現代ほど豊かではないが、精神性や感性においては遥かに優れていました。
コメント主の方はもしかしたら、遺伝子の奥深くに「縄文の記憶」が刻まれているのかもしれません。

では、次のスライドですね。
「体主霊従」(たいしゅれいじゅう)とは、肉体=エゴが中心のあり方を言います。
逆に「霊主体従」(れいしゅたいじゅう)とは、スピリット(霊)が中心のあり方ですね。
この場でご一緒に「真のスピリチュアル」を学ぶことは、もちろん「霊主体従」のあり方を追窮することです。
スピリットがメインというのは、心や肉体はスピリットの道具に過ぎない、という立場です。
エゴを超え、周囲そして世界の調和を見据えて成長を求めていくことが、真のスピリチュアルとしてのあり方です。
この世界が不調和なのは、支配層、権力層、エリート層と言われている人たちの大半が「体主霊従」になっているからです。
以前であれば宗教の力が強かったり、日本だと厳しい武士道があったりしたので、そこまでエゴが暴走することはありませんでした。
でも前回も述べた通り、西洋では神はすでに死に、日本も武士道はすでに失われ、ついでに言えば共産主義国は宗教を否定するので、世界は「体主霊従」の考え方が中心なわけです。
こういった人が死んで肉体を手放した後は、本当に大変な世界が待ち受けているわけですが、そんなの知らねえ関係ねえ、今さえ良けりゃ構わないぜ、というわけですね。
そんなクソ野郎どもが動かしているこの世界情勢を見ると、そりゃ「神様っているわけねーじゃん。だから祈っても意味ねーじゃん」って思いたくなるのは、まぁしょうがない部分はあります。
ただし、その段階に留まっている限り「真の幸福」を得ることはできません。
理屈抜きで「肯定」から始めなければ、幸福は絶対にやってこない

では次です。
素朴なことを言っておきましょう。
「神様はいない」という論理は良いとして、この世のクソっぷりを嘆いているだけのコメント主のあなたは「真の幸福」を感じられますか?
神が人間に与えた「自由意志」とは、どんな環境や境遇であっても、それを肯定して乗り越える意志の力が人間の中にあるということ。
決して簡単ではないけど、それを信じなければ、あなたもまたクソみたいな生き方になりますよ。
前回たまたまヴィクトール・フランクルの言葉を紹介しました。
フランクルの有名な著書で『それでも人生にイエスと言う』というのがあります。
これは戦後間もなく行われた講演の内容なのですが、タイトル通り「それでも人生にイエスと言う」こと。
これが人間の自由意志の力。
だから、自分の意志で不幸になることもできれば、幸福になることもできる。
(それをフランクルは「態度価値」と呼んでいます)
こう言うと、つい最近の回までシリーズで取り上げてきた「自己啓発」っぽく聞こえるかもしれませんね。
でも、それは「コップに水が半分 "も" 入っている」という表層的な話ではなく、コップに水が全くなくとも「それでもイエスと言う」意志の力のことを言っています。
フランクルはアウシュヴィッツの地獄の収容所の中で、ある夕方、水たまりに映し出された夕日をふと見て、心を奪われるぐらい感動してしまう。
私はこのエピソードを思い出すたびに、胸が震える。
もし自分が同じ境遇に陥ったとしたら、同じように感動できる人間でありたい。
いや、どんな地獄に堕ちても、「それでも人生にイエスと言う」ことのできる自分であることを、信じている。
世界がクソだとか人生がつまらんとか、そんなもん「魂」にとっては、本質的に何も関係ない。
「私こそが世界」である限り、いかなる場合においても、「霊主体従」で生きていく覚悟を持つ。
前回も引用したフランクルの言葉。
「あなたが人生に期待するのではなく、人生があなたに何を期待しているのかを問うべきである」
コメント主は前者の立場でしょうが、こういう方は人生の苦悩に耐えることはできません。
そこに隠されているのは、甘えであり依存だからです。

では、コメント主の嘆きを受けて「もし神様がすべてお膳立てをしてくれるとしたら?」という問いを立ててみましょう。
神の厳正なる裁きによって、悪い政治家、グローバリスト、学者、官僚、ウォール街の金融資本家、武器商人などを全員ぶっ潰してくれたとしましょう。
もしそうしてくれたら、果たして本当に幸せになれるでしょうか?
もし仮にそうなれば、目先の苦しみはかなり減るかもしれません。
しかし、もうそこに人間の「自由意志」は存在しないでしょう。
言い換えれば、そこに「学びはない」ということです。
これはある種の「全体主義」ですね。
すべてを神に管理運営してもらうという、嫌な言い方をすれば「家畜の安寧」(⇦進撃の巨人より)に満足するということでしょう。
動物園で、獰猛なライオンやトラとは別のオリに入れてもらうようなものでしょうか。
さあ、それは果たして「真の幸福」を生み出しますか?
安心・安全・平和という名の柵(さく)に守られて、あなたの魂は躍動しますか?

実は、私が最も気になったのは、コメントをくださった方のオーラ(波動)なんです。
私はペンネームでも源氏名でもオーラはある程度わかります。
もうご想像がつくと思いますが、今回のコメント主はネガティブなオーラ、重たいオーラの持ち主でいらっしゃる。
「なんで神様がいるなら、この世はこんなに酷いんだ!」という否定的な考え方は理屈抜きでオーラを汚すのであって、これは決して幸せに繋がらないということをご自身のオーラが証明しているわけです。
自分を否定し世界を否定することが生命エネルギーを腐らせているのは、もう一度言いますよ、理屈抜きです。
このオーラ(波動)というのは、調和がとれていればいるほど、清らかで明るくて、涼やかで穏やかで、楽しい響きになります。
不調和というのは、もちろんその逆です。
これは本当にシンプルな原則です。
食べ物だって新鮮なものはツヤがあって良い香りがするものですが、腐っているものはドロドロしていて臭い。
理屈抜きで、どっちを食べたいですか?という話なんですよ。
何も難しくない。
百歩譲って、その考え方でオーラがクリアにパワフルになるのであればそれでいいんですが、決してそうじゃない。
どう考えてもそれは修正した方がいいんじゃないですか?と言いたいわけです。
「魂の小ニ病」とは、人生の不平不満をすべて神様のせいにする甘え

ここまで説明すると、今回のタイトル「神への反抗期を超える」はもうご理解いただけるでしょう。
だいぶ前ですが、このマジスピラジオで「魂の中二病」という話をしたことがあります。
※「第78回:『魂の中二病』にご注意。スピ好きが陥る「スピリチュアルエゴ」「特別意識のワナ」について。」
「魂の中二病」とは、少しの神秘体験(光が見えたとか声が聞こえたとか)で「自分はイケてる!」と調子に乗ってしまう軽薄な状態のこと。
スピ業界の中で「覚醒」とか「目覚め」とか言っている人たちの99%は、その波動(オーラ)は大したことがない。
「自分は目覚めたぜ」なんて、"寝ぼけたこと" を言ってやがるアホなわけです。
今回の「神への反抗期」は、魂の中二病に通じる話だなと思いました。
ただし、魂の中二病の方はまだ、神仏的なもの、心霊的なものを肯定している立場なんです。
だから、まだマシ。
「神への反抗期」は神的なものを否定している限りにおいて、魂の中二病よりさらに精神的に幼くなる。
その意味において、これも嫌な表現ですが「神への反抗期は、"魂の小二病" である」と書いたわけです。
さっき述べた通り、依存や甘えがあるのは子どもですからね。
ただ、これは誰もが魂の遍歴において通る道なんです。
私自身も、かつてこうした状態に陥っていた時期があります。
ただ幸い、優れた師匠や先達のご指導のおかげで、その迷妄からは何とか距離を置けています。
なので、今回のコメント主も(たぶんこの配信には触れていないだろうけど)いつかどこかで迷妄を脱する時期が来ることを願っています。
確かに、人間の世界は腐っている部分があるのはよくわかります。
とはいえ、ひとたび目を移せば自然が美しさを発見できます。
最近は少し乱れているとはいえ、四季の折々の美しさもある。
あるいは、伊勢や出雲といった由緒ある神社にお参りしたときの、荘厳さに打たれる感じ。
日々いただく食事のありがたさ。
こうして喧騒の人間社会から少し距離を置けば、時代を超越して存在する「大きな豊かさ」が見えてくるはず。

次のスライドですね。
「なぜ神は沈黙するのか」ということを書いていますが、神は人間のような言葉は持っていません。
もっと言えば、神は常に「言霊」を発しているわけですが、それは人間の肉体の耳には聞こえない「声なき声」。
ただ、先ほどから述べている通り、人間には自由意志が与えられています。
世の中には善人も悪人もいます。
神の化身のような人間もいれば、悪魔の手先のようなクズもいる。
それもこれも(いわゆる「過去世」も含め)人間の自由意志をどう生かしているかにかかっています。
確かに周りを見渡せば、神が不在であるかような悲惨で無慈悲な出来事が起こっているでしょう。
じゃあ、それを見てあなたはどのような態度を取りますか?
あなたも同じように、そこに流されていくのですか?
いや違う、自分はこんなひどい言動はしたくない。
「たとえ明日世界が滅びようとも、今日自分は、自分の考えうる真善美を実行するのだ」と、自由意志で決められることもできる。
百歩譲って、たとえ神など本当にいなかったとしても、自分は魂を与えられた誇りある人間としてそれを実行する、と自由意志で決めることもできる。
もしそれができなかったら、あなたもまた、あなたがひどいと思っている人間たちと、そう大して変わらないんでしょうね。
だったら「魂の小二病」だなんてクソガキ扱いされても、仕方がないでしょ?
あなたは同じ痛みを抱えている人には同情され、カウンセラー・セラピストには共感されるかもしれないけれど、決して尊敬はされない。
それはあなたの嘆きの中には、依存心や甘えがあることを感じ取るからですよ。
それが嫌なら、あなたは剣を取って闘わねばならない。
それが嫌なら、あなたは誰かを守る鉄(くろがね)の盾とならねばならない。
それをしないのであれば、あなたは神が与えたであろう自由意志を放棄したのであって、それは魂を失ったのと同じです。
だから、そんなあなたのオーラは暗く重たいんですよ。


「神様なんていないよ」と思うのは自由ですが、そういったことを言って波動が重たく暗くなるようであれば、そこに何の意味も価値も生産性もない。
その思想信条も憲法が保証していますが、その結果として、あなたの運命・運勢はどんどん落ちていく。
自由意志を放棄するのも、あなたの自由意志。
その結果を、あなたは引き受ける責任がある。
それは「摂理」と言って、絶対に逃れられない「神」の厳粛なる側面。
あなたが否定しても、「神」はそこにおられますよ。
それを思い知って「神」に心からお詫びするまで、あなたは苦しみ続けることになるでしょう。
どうぞ、中途半端に苦しまず、エゴの殻がぶっ壊れるほど思いっきり苦しむことです。

では、最後のスライドです。
「神への反抗期」を卒業しましょう。
世界は必ずしも自分の思い通りにはなりませんが、そこにどう対峙するかは「自由意志」で決められます。
決めないこともまた、自由意志で決められる。
そして、その責任を私たちは背負っていく。
これをスピリチュアルに寄せれば「カルマの法則」と言われているわけです。
「カルマ」古今東西の宗教家が異口同音におっしゃっていることなので、私たち凡人は素直にそれを受け入れていくことが大切ですね。
神様は確かに目には見えないけど、いろんなものに化身しているように感じます。
ですからときどきは人間の世界を逃れ、スマホも見ず、散歩でもして自然をじっくり味わってみてください。
近くの花屋さんで買った一輪の花をじっくり見つめてみるのもいいでしょう。
あるいは、祈りや瞑想を習慣にして、「神」は内側にもあるという「気づき」を得るのも一つです(少し時間はかかりますが)。
その気づきを深めていくことによって「神への反抗期」を卒業していける時期が来るんじゃないかなと思います。
すべては自由意志、あなたの選択次第です。
今回は「神への反抗期を超える|なぜこの世界は理不尽で悲しみに満ちているのか」というお話をしました。
ご参考になれば幸いです。
改めて、今回の要点
- この世界がいまだ不幸なのは「神の不在」ではなく、人類の自由意志をエゴの方面に使った結果である。
- どれだけ論理的に正しくとも、自分や世界を否定する考え方は、確実にオーラ(波動)を暗く重たく卑劣にする。
- 神の不在を嘆くのは自由だが、そうする限り運勢はどんどん悪くなる。その不毛さに早く気づき、「それでも人生にイエスと言う」態度を確立すること。
なお、YouTube(Podcast)は今回の文字起こし編集でカットした部分があります。
今回も動画と文字起こしは少し内容が変わります。
なので動画(または音声)もご視聴いただけると、より理解が深まるかと思います。
※この下に「音声プレーヤー」があります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。






