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第346回:絶望を希望に変えるには”法則の神”と”愛念の神”を深く知ること。

※ウェブサイト『マジスピ』には音声の文字起こし(読みやすく加筆修正済)があります。

■YouTubeではメモ、資料、スライドなどを映していますが、音声プラットフォームの「ながら聞き」でも十分ご理解いただけると思います。

ウェブサイトでは最下部に音声プレーヤーがあります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。

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今回の要点と要約文

今回の要点

  • 心のあり方が運命を決定する宇宙法則に、同情や共感は一切ない。厳しく聞こえるかもしれないが、これこそ「神の下の真の平等」である。
  • 多くの場合、自分の無知が招いた苦痛や絶望に打ちのめされることによって「自我の壁」が破れ、人生の真実に目覚めてゆく。
  • 「神」には人情なき冷徹な〈法則の神〉と、慈悲深い〈愛念の神〉の両面がある。まず〈愛念の神〉である観世音菩薩や守護霊などとの関係を築くことがおすすめ。

※要点は以下のショート動画でも語っています

今回の要約文

■絶望を希望に変えるには"法則の神"と"愛念の神"を深く知ること■

前回の最後は、どれだけ人間世界としての事情があろうと、否定やネガティブな感情からは何も生まれないどころか、運気・運勢はダダ下がりしてしまうという話をしました。

「神仏などこの世にいないんだ」と嘆く自由も人間にはありますが、その意識ですべてを否定的に見ると、ますます嘆きたくなるような状況に陥るでしょう。

これ、かなり冷たく聞こえてしまうと思うんですが、これは「法則」であり「摂理」なので、人情の入る余地はありません。

普通の人間は、水や空気を一切摂取しなければ、すぐ死ぬ。

これは「肉体生命の法則」であって、「食べられない人の事情も尊重してほしい!」なんて権利の嘆願は一切聞かれない。

肉体はわかりやすいですが、目に見えない精神生命にも「法則」があります。

「思考は現実化する」という自己啓発のド定番テーゼは必ずしも正しくないですが、長期的には思考の流れや傾向の通りになってゆくのは間違いない。

だからこそ、いかなる人間的な事情があろうと、心を暗く重たくしてはいけないわけです。

ただ、こう言われてすぐに心を立て直せるようであれば、この世を生きるのはどれほどラクなことか。

それができないから、この地上に人間が誕生して以来、苦悩し続けてきたわけですよね。

で、厄介なのはこういうことを言うと、「自分は普段からネガティブなことばかり考えているから、今後はもっとダメな状況になってしまう・・・」と、さらに自分を暗い方面に追い込んでしまう人もいることです。

その中には「マジメ」な性格の人もいるわけで、これは本当に厄介だわ。

というわけで、今回は上記の〈法則の神〉に加え、〈愛念の神〉の存在もお伝えしたいわけです。

浄土宗・浄土真宗などが典型ですが、その教えによれば、迷える衆生、罪悪まみれの凡夫のために、阿弥陀様を名を呼ぶ者は一人残らず救い取ってくださると伝えられています。

実際に「阿弥陀如来」と言われている仏様の波動(エネルギー体)は、本当に愛が深くて、波動を拝見しているだけで私は涙が出そうになります。

他にも観音様やお地蔵様、私がときどき言っている守護霊や指導霊など、苦海に沈む人間のために遣わされた〈愛念の神〉もおられる。

ただ、そんなことを言われたって目にも見えないし耳にも聞こえないから、普通の五感ではわからない。

ここが難しいところで、わからないからこそ迷いに迷いまくって沈んでいくのも、魂の遍歴の一つのプロセスではあります。

できればそうなりたくないけど、私たち凡夫の第六感はボンクラなのでしょうがない。

でも「地獄に仏」というように、真っ暗闇のときは一条の光ですらまばゆく感じられる。

その意味では、地獄や絶望というのも一定の役割があるわけです。

「神様なんていない」なんて嘆くのは、信仰の有無にかかわらず「自分の根源」を否定することになるので、魂としては「根無し草」にならざるを得ない。

どれだけこの地上世界がひどい場所であっても、それは人間が自由意志を使った結果だということを、人類の一員として痛みとともに受け入れなければならない。

それができたとき「魂の小二病」からは卒業できるのだと思いますが、人によってはなかなか難しい。

自力ではどうしようもなくなったとき、願わくば〈愛念の神〉を想い起こしていただきたいと祈っています。

要点・要約文を読んで、あとは動画でご覧になりたければ以下からどうぞ。


「心の宇宙法則」に従えば誰でも繁栄する【神の下の真の平等】

今回は前回の続きとして「思考と運命の法則」、"なぜ絶望こそが真のスピリチュアルの入り口なのか" という話をしたいと思います。

前回は「神への反抗期からの卒業」というタイトルで、その反抗期はまるで「魂の小二病」だと厳しい表現をしました。

「この世界はとてもひどい状況で、未だに戦争や対立が絶えない。本当に神様なんているのか?もし神様がいたらこんな世の中になってないでしょ?」

これは論理的、人情的には本当に理解できるけれど、霊的な観点から見れば「魂の小二病」であり、中二病ですらないのだと。

これは「真理」ではありますが、でも、おそらくかなり冷たく聞こえるだろうと思います。

前回の内容だけでは突き離してしまったような感じもするので、今回はその補足も兼ねて話をしていきたいと思います。

どれだけ論理的に正しく、人情としては共感できる考えであろうと、それが自分および他人、社会、世界、そして宇宙を否定するものであれば、それは無条件にネガティブです。

「神様なんていないよ」という思いは、否定の中の否定です。

それは自分の生命の根源、「真の親」を忘れてしまった "魂の痴呆症" なんです。

そうすると、成功哲学・自己啓発方面では「原因と結果の法則」と言われる通り、運命は思いの内容の通りどんどんネガティブになっていきます。

思考はそのまま現実化するとは限りませんが、しかし、思考の方向に沿って現実が創られていくのは間違いない。

「神の不在」を嘆くのは同じ人間としては理解できるけど、人間ではない「心の法則=宇宙法則」は決して寄り添ってくれない。

いかなる場合においても、心の持ち方がポジティブであれば現実はポジティブに創られ、ネガティブであればその逆になる。

だから、百歩譲って「神の不在」を嘆くのはまだ良いとしても、そこから自分の人生を立ち上げる想念を持たなければ、その人がクソだと思っているこの世界のように、あなたの人生もまたクソになる。

難しいのは、こういったことをいくら論理的に説得しようとしても、心がネガティブな人に伝わることはあまりないこと。

親や先生や先輩が「あなたね、本当はこうした方がいいんだよと」いくら教え諭しても「知るか、バカヤロー!」と反発してしまうことが大半です。

まさに「反抗期」ですね。

そうして勉強を放棄し、タバコ吸ってシンナー吸って校舎の窓ガラスを割って、盗んだバイクで走り出して・・・ちょっと古いけど、要はだんだん「不良」になっていくわけです。

そうすると「思い通り」に人生がどんどん追い詰められ、働かずに金儲けをしたいと思い、パチンコや競馬にハマり、資金が尽きて闇金ウシジマくんに借金し、あとはご想像の通り。

そうやって絶望の淵に叩き落され、そこで這いずり回って「人生ナメてたらこうなってしまう」と身をもって味わうしかない。

こう考えると、本当は素直であることが最も大事なんですけど、「反抗期」の人間は素直になれないから反抗しているわけで、こりゃ難しいですわ。

硬い硬い「エゴの殻」をぶっ壊すには、「天からの一撃」が必要な人もいます。

「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」わけで、私たちも愚者かもしれないけど、できるだけ賢者になるべく今ここで学んでいるわけですよね。

「心の宇宙法則」をちゃんと学べば、ポジティブに考えていればポジティブになっていくし、ネガティブに考えていればネガティブになっていく。

たとえ時間がかかっても(場合によっては「死後」かもしれないけど)、長期的に観れば、必ず思いの方向に向かっていく。

これは「法則」であり「道」であり「摂理」であり「原則」であり、それに従わない者は滅びていく。

逆に、エゴを抱える身ではなかなか順調に進まないけど、それでもなるべく素直に、ときに失敗しながらも「法則」に従っていく意志を持つ者は、たとえ時間がかかろうとも必ず繁栄していくわけです。

さっきのスライドにも記載した通り、この「宇宙法則」は人間界の都合には一切同情しません。

これは人情からすれば、冷たいんですよ。

けれども、これこそ真の意味における「神の元の平等」であることを知らなければなりません。

社会的な立場を問わず、「法則」や「道」に従っていく者は、時間はかかっても必ず繁栄していきます。

あなたの現状がどれだけみじめであっても、才能もお金もチャンスもなくとも、バカはバカのままで良いから、この「道」を歩んでいけば、いつか必ず運命は好転します。

(ただし、こういう哲理は深い次元まで学んでいかなければ、なかなかモノにすることはできません)

「誰にでも必ず更生や挽回のチャンスが与えられている」という意味では、これほどありがたい「法則」はないし、人によっては「救い」とすら感じるでしょうよ。アーメン。

「水は高きから低きに流れる」のは法則ですね。

そこに同情の余地はないですよね。

「水が落ちるのは可哀想だ!」なんて言いますか?

「時には水が空に上がっていく権利を認めてもいいんじゃないか?」と言う人はいない。

これが法則です。

感情を入れてはいけないし、そもそも感情が入る余地もありません。

魚は水の中で生きているわけですけど、普段は水についての意識は全くないですね。

でもひとたび陸に打ち上げられると、どえらいことになる。

私たち人間も空気の中で生きているけど、普段は全く意識していません。

生活ではお金のこと、食っていくこと、あるいは人間関係とかプライドが傷つけられたとか考えてますけど、肉体生命にとって最も大事なのは空気です。

でも私たちは普段、水も空気も意識しない。

それがなくなったときに、初めて強烈に意識するものです。

これは肉体生命の方面だから、まだわかりやすい。

これが「目に見えない心の世界」になると、肉体よりはるかに気づけない。

精神生命の法則とは、ネガティブな考え方はネガティブな人生を招き、その逆もそうだということ。

でも、空気みたいに欠如するとすぐ必死になる種類のものじゃないから、わからないんです。

たとえ絶望の淵に叩き落されたても、それでもまだ気づけない場合すらある。

肉体においても精神においても、根源的なものほどその恩恵は「当たり前」のものとして認識されない。

逆に言えば、普段からこういう法則を認識する工夫を積み重ねれば、その人は「人生の真の勝者」になれるわけです。

こう考えていけば「神様なんていないんだ!」と言っている人が、どれほどバカ野郎なのかわかりますよね。

自分で「心の目」を閉ざしておきながら「神様がいない」と言ってるようなもの。

繰り返しますけど、「神なんていない」と言ってもいいんですけど、それで心の世界を暗くするようなら、そこに「法則」や「摂理」が働いて、その人の人生はエスプレッソみたいに黒く苦くなってしまう。

それでホンマにええんか?

合理的に考えても、めっちゃ損やで?

ということを問いたい。

(でも、こうした論理的説明ではなかなか変わりません。素直な人は別として・・・)

自分で明かりを消しておきながら「人生真っ暗闇だ!」と。

これは「クソワロタwww」と言わざるを得ない。

まさに悲劇的喜劇、はたまた喜劇的悲劇か。

ね、こうやって客観的に語ると馬鹿らしくなるんですよ。

自分でわざわざ運気、運勢を悪くするような選択をしているわけですから。

そんなところにチャレンジしなくたっていいよ。

これをちゃんと意識化して「ああ自分はなんてバカなことをやってるんだろう・・・」と、血も涙もない闇金ウシジマくんに搾り取られる前に気づかねばならんわけだ。

前回の文字起こしでは「クソガキ」と表現しましたけど、本当にそうなんですよ。

「魂の小二病」とは、つまりクソガキです。

ガキは正確には「餓鬼」ですけど、心の世界が暗くて自他を否定するような精神状態であれば、死後は本当に「餓鬼」なっちゃうんですよ。

せっかく人間に生まれたんだから、まだ肉体のあるうちにちゃんと学んだ方がいいですよ。

絶望の中でこそ、宇宙法則や人間の道を徹底的に学ぶことができる

次です。

魂の小二病には「不幸の三原則」がついていて、これは「自己憐憫」「依存心」「責任転嫁」です。

自己憐憫は「自分はなんて可哀想なの」と自分に酔うこと、悲劇のヒロインを演じること。

依存心と責任転嫁は説明しなくていいですね。

これらはレジェンドの江原博之さんの表現をお借りしたもので、魂の小二病もこれだなと思いました。

不運やアクシデントがあったとき「自分に何か原因がある」と反省できればいいんですけども、不幸の三原則をキッチリ遵守している人はさらに神様を呪ったり不運を嘆いたり、いわゆる「前世」で悪い行いを積んだ報いが来ていると疑ったりする。

でも前世を持ち出すまでもなく、テメーの心の運用が悪いからそうなってるんだよということを、身をもって学ばなければならない。

ただ、逃げる人は「逃げグセ」がついてしまっているので、さらに不幸の三原則に突っ込んでいくことになりがちです。

すると現世がすでに地獄と化すわけですが、この「地獄とは抵抗のこと」なんですね。

この現象世界のありさまは、前回言った通り、個人および人類の「自由意志」の選択が生んだ結果です。

だからいかに現実が残酷だろうが、それは偶然ではなく心の運用による必然的結果なんだと受け入れなければなりません。

ただ「これは自分の理想と違う!」とか「なんてひどい世の中なんだ!」とか嘆くだけだと、その抵抗は苦しみを生みます。

お釈迦様は「法灯明・自灯明」という考えをおっしゃています。

仏法という灯明を照らしていくのも大事だが、それより自分の心の明るさでこの世を照らす方がもっと大事だと。

「自灯明」の考え方を踏まえれば、自分で明かりを消しておきながら、「この世界は暗い、光がない」なんて言っているのは、めっちゃアホなんですよ。

でもさっき述べた通り、こういうアホには言葉で言ってもわからないので、「じゃあ現実の結果を身を持って味わってもらうしかねえな」ということで、様々な苦しみがやってくるのが「法則」です。

その意味では、私たち現代人にはちょっとキツいんですけども、安っぽい希望より「徹底的な絶望」を知らなければなりません。

前々回述べた通り、自己啓発、スピ系、セラピー系には「安っぽい希望」や「安直な答え」で溢れています。

多くの人は「答え」が欲しい。

ところが「人生の問い」に安直な答えなどありません。

ただ問い続けるしかないわけです。

けれども現代は検索すればすぐに答えが出る時代で、AIの登場でさらに加速していますね。

それらが奪ったのは「絶望する力」です。

現代は「希望の力」ではなく、「絶望の力」が足りないんですよ。

「絶望の力」がないということは、同時に「希望の力」もないということです。

「魂の力」というのは、実は絶望できる力です。

本当の希望というのは、絶望の中から立ち上がってくるもの。

だから「神様がいない」と思うのは自由ですけど、その全否定の責任として、その考え方がもたらすであろう「絶望的な結果」を徹底的に味わっていただきたい。

そして、その絶望の中で自己の存在意義を徹底的に問い続けることです。

願わくば、その絶望から絶対に逃げないこと。

ところが現代は、絶望から目を逸らす仕掛けがたくさんある。

凡庸なスピリチュアル、自己啓発、セラピーもその一つですね。

安直な答えでそれを埋め合わせようとする。

そのことによって、絶望の苦悩に絆創膏を貼ろうとする。

それによって表面的には「キレイ」になるものの、本当の希望も立ち上がらなくなってしまう。

こういうのを「根無し草」といって、現代には増えている印象を受けます。

願わくば、その絶望の中に踏み留まり、ついに自我の壁が破れ、バカの壁が壊れ、魂の変容を迎えられることを。

生まれ変わるには、必ず「死の関門」を通過しなければなりません。

誰しも挫折や敗北を乗り越えて強くなるし、例えばバトルマンガで(私は男性なのでこういうたとえになりますが)主人公がピンチに追い込まれたとき、たいてい新しい攻撃技や打開策を思いついて乗り越える場面は王道です。

まさに陰極まれば陽、絶望やピンチが深いときほど、希望やチャンスが立ち上がってくる。

陰を極めなければ、陽に行くこともないわけです。

ここが中途半端だと、ずっとくすぶったままで終わったり、場合によっては(あまり言いたくないことですが)自殺する人も出てきます。

まさにデッドゾーン(死の領域)。

(絶望感が襲ってくるときは、信頼できる誰かに話をしっかり聞いてもらうことで、しっかり絶望することができるようになります)

次です。

「地獄に仏に逢う」と書きましたけども、仏の有り難さは地獄だからこそ、より深くわかります。

何事もないときに仏に逢っても、観光地で軽く眺める程度でしょう。

誰もが地獄に行きたくないでしょうけど、地獄には地獄の役割があり、100パーセント悪いものでもない。

本当は不平不満や「神様なんていない」と嘆くより、喜びと感謝に生きる方がラクなんです。

なんでかというと、喜びと感謝に生きていると「法則」や「摂理」を積極的に活かすことになるからです。

確かにこの地上世界は薄汚れた場所ではあるが、その中においても、明るい方面を見ることは前回述べた「自由意志」の選択であり、さらに言えば「習慣」の問題なんです。

ただし、このことは「自我のバカの壁」の中に囚われていると、実践はおろか理解することすらできないでしょう。

スライドに「心の躾」と書いたのは、「魂の小二病」に罹った人は「躾」(習慣)がなっとらん、という意味を込めています。

ところがこういう心の躾、「法則」や「摂理」に自分を合わせていくことは、親も先生も教えてくれない。

というか、親も先生も知らない(十代の頃の私はそれに猛烈に怒っていました)。

だから、自分で学んでいくしかないんですよ。

己の弱さを自覚し〈愛念の神〉の守護霊・指導霊との絆を強くしよう

「地獄で仏に遭う」というのは、どれだけ地獄に堕ちても、例えば観音様とか阿弥陀様とか、霊的には守護霊や指導霊という存在がこちらの心の眼が開くのを待たれているということ。

これはただ信ずるしかない世界ですね。

客観的には証明できませんが、少なくとも私は「波動」でわかるので、こうしてお伝えをしているわけです。

神仏は決して沈黙していないんですが、人間の言語はお持ちではないので、こちらがわかるまで背後でただただ涙するしかない。

いつか、どこかで、あなたが気づいて、こちらの方を振り向いてくれるまで、待っている。

厳しいのは、自分で気づく必要があること。

自分が無意識のうちに塞いでいる心眼と心耳とを開かないといけない。

観音様というのは「音を観る」と書きますが、こちらから「助けてください」と懇願して初めて応えてくださる。

これもまた「法則」です。

ただ、何度も言いますけど、こういうのは説得や論理では絶対にわからないんです。

なので、もし神なるものを否定するんだったら、逆にとことんやることをオススメしています。

死ぬほどやりましょう。

人生をかけて、神の不在を証明してみたまえ。

中途半端が一番良くない。

でも、死ぬほど嘆いたら、考えてみてください。

「神様がいない」って嘆くのは、そこに「対象」があるからですよ。

神を否定するには、神の存在を認めていないいけないじゃないですか。

ちょっと理屈っぽいですが、わかるでしょうか。

「神様なんてなんていない」と嘆くのは、「神様」という言葉を使わなければできないんです。

「神様なんていない、いるもんか!」って、ずいぶん情熱的に神様のことを想っているんじゃないの?

言葉は「神」でも「仏」でも「宇宙」でも「法則」でも「摂理」でも「原理」でも何でもいいんですけど、そういったものから私たちは逃れることはできないんです。

それどころか、霊的には「神」は私たちの根源であり、いわば「大きな親」です。

大きな親だから、親はどこまでも "保護者" としてあなたを追いかけてくる。

ですから変な表現ですけど、「神は不在としてすでにここに現れている」ということ。

本当の本当に不在だったら、なんでその不在を嘆く必要がある?

その嘆きは、求めるための叫びではないのか?

これも気づけるかどうかです。

今回は "神なるもの" の「二つの側面」をぜひ知っていただきたい。

まず一つは、これまで説明してきた〈法則としての神〉ですね。

「人情に関係なく、思考や観念の流れに沿って運命が創られていく」という法則です。

これこそ「神の下の真の平等」です。

ただし、これだけだと人によっては冷厳に感じられてしまう。

それを"大いなる叡智" は先刻ご承知なのか、神にはもう一つの側面があります。

それが〈愛念としての神〉です。

これはさっき述べた観音様や阿弥陀様、守護霊や指導霊など、私たち迷える凡夫を救い取ろう抱き取ろうしてくださる〈慈悲としての神〉です。

我々の日本は八百万の神々の国なので、いろんな神様がおられいろんな役割がおありなのは、感性として理解できるはず。

愛の厳格な側面が〈法則の神〉だとすれば、愛の柔和な側面が〈愛念の神〉だということです。

この神の両面を循環させていくことがとても大事です。

特に今回の場合は〈法則の神〉の厳格さ、冷厳さに囚われ「神様なんていない」という嘆きモードになっているので、〈愛念の神〉に意識を振り向けることが大事です。

それを学ぶのが「真のスピリチュアル」です。

まずは素直に謙虚に、このウェブサイトで述べていることを理解しようと務めることが大事です。

私が述べていることは独創ではなく、過去の偉大な先人たちが残した言葉を私なりに噛み砕いて表現しているだけなので、安心して読んでいただければと思います。

(もちろん私自身の表現や霊性レベルは常に問われていますが)

その上で、当サイトで何度も紹介している『世界平和の祈り』のような言葉を実践され、目に見えない〈愛念の神〉に思いを向けることです。

〈愛念の神〉の光や導きを受けながら、少しずつ〈法則の神〉に則っていけるよう意識していくことですね。

「絶望を本当に味わった者だけが、深い信仰の領域に至ることができる」というのは、エゴにとっては厳しいですけど、真実です。

絶望の中から、本当の希望が立ち上がってくる。

私はどこまで深い絶望を味わったのか、自分では言えることではないと思います。

ただ、少なくとも私自身が「霊性の世界」に本当に関心を持ったのは、また別の機会に話そうと思いますけども、一番絶望が深い時期でした(家出して住み込みで働いていた時期)。

ここでは偉そうに言っている私も、その時期は恥ずかしながら中途半端に逃げていたように思います。

ただ、最後は保護者としての「大きな親」に、捕まえられてしまったんでしょうね。

幸い、心を病んだり事故に遭ったりして、ようやく地に足が少しついたというわけです。

中途半端な否定や絶望は、ある意味では「ぬるま湯」なんですよ。

見た目はしんどいアピール、苦しいアピールをしておきながら、実際に波動(オーラ)を通じて潜在意識まで観ていくと、実は「けっこう気持ち良かったりする」んですよね。

もしこういったことを聞いてドキッとするのであれば、自分の心の中にある本当に暗いものをちゃんと見つめなければなりません。

それは勇気が必要だけども、その勇気を持った人にしか得られない本当の希望、本当の光明というのがあります。

これは体験した人にしかわかりません。

頭だけの理解では難しい内容ではありますけども、何かヒントとなれば幸いです。

改めて、今回の要点

  • 心のあり方が運命を決定する宇宙法則に、同情や共感は一切ない。厳しく聞こえるかもしれないが、これこそ「神の下の真の平等」である。
  • 多くの場合、自分の無知が招いた苦痛や絶望に打ちのめされることによって「自我の壁」が破れ、人生の真実に目覚めてゆく。
  • 「神」には人情なき冷徹な〈法則の神〉と、慈悲深い〈愛念の神〉の両面がある。まず〈愛念の神〉である観世音菩薩や守護霊などとの関係を築くことがおすすめ。

なお、YouTube(Podcast)は今回の文字起こし編集でカットした部分があります。

今回も動画と文字起こしは少し内容が変わります。

なので動画(または音声)もご視聴いただけると、より理解が深まるかと思います。

※この下に「音声プレーヤー」があります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。

マジスピラジオ:脱・お花畑の「真のスピリチュアル実践」
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第346回:絶望を希望に変えるには"法則の神"と"愛念の神"を深く知ること。
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