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第284回:神社仏閣での正しい祈り方。神仏の波動に合う願望の大きさが望ましい。

※ウェブサイト『マジスピ』には音声の文字起こし(読みやすく加筆修正済)があります。

■今回は以下のブログを違う角度から語り直しました(https://prism-life.com/make_a_wish_at_a_shrine/

■YouTubeではメモ、資料、スライドなどを映していますが、音声プラットフォームの「ながら聞き」でも十分ご理解いただけると思います。

ウェブサイトでは最下部に音声プレーヤーがあります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。

■ご感想・ご質問は『アンケートフォーム』からどうぞ
https://x.gd/Mp7Lg

ここから下は編集中です。まだ「一部に誤字脱字のある、ざっくり文字起こしの段階」をご理解の上で読んでください。近日中に加筆修正して読みやすい文章にしますので、待てる方は少しお待ちください。

神社での祈願は願いを叶える場所ではなく志を誓う場所である

神社での祈願は願いを叶えるためではなく志を誓うためのものである
夢や目標を本当に叶えたい人が神社で祈るべき本当のこと
神社での祈りが人生を変えるのは見上げるものが変わるときである
願い事よりも大切な神社での祈願と魂の志の話
神社で祈るとは結果を求めることではなく生き方を誓うことである

今回の要点

  • 神社での祈願は、願いを叶えてもらう場ではなく、崇高なものを仰ぎ、志を誓う場として捉えることが大切である。
  • 本当の「夢」とは、今生で実現できる欲望ではなく、生き切る方向性としての志や悲願である。
  • 結果や成功に満足して成長を止めるのではなく、見果てぬ理想を見上げ続け、挑戦し続ける姿勢こそが魂を輝かせる。

では今回のタイトルは、神社での祈願ですね。

お願い事、それを通じて夢や目標を本当に叶えるためには、どのように神様に祈ればいいのか、というテーマです。

ちょうどこの配信日から一年ぐらい前のブログを取り扱っています。

YouTubeではブログの画面を映していますけれども、ほぼラジオですので、耳だけ傾けていただければ結構かと思います。

では、ブログに書いていないことも含めて、話していこうと思います。

ちょうどこの配信が十二月、もう半ばですね。

年末年始ということで、神社に初詣に行かれる方もいらっしゃるでしょうし、個人的には年末の末詣ですね。

年始はどうしても人が多いので、個人的には年末にお参りをしています。

何年か前に、年始に伊勢神宮に行ったことがあるんですけども、あれはもう人が多すぎてですね、本当に大変でした。

せっかく伊勢にお参りに行っているのに、なんだかイライラしてしまうという、本当に笑えない体験でした。

そういうこともありまして、それ以来、個人的には年末にお参りをしています。

最近では、近くの神社ですね。

以前は、わりと有名な神社に年末に行っていたんですけども、最近は近場で済ませています。

そこで、神社でどんな願い事をすればいいのか、という話になります。

よく言われるのは、神社というのは、感謝をする場所だ、という考え方ですね。

私も大学時代に、当時いろいろな経営者の方とお付き合いがありまして、その中の一人が、神社が大好きな方でした。

時々ご一緒して神社に行くことがあったんですけども、その経営者の方は、神社というのは感謝をするだけでよい、お願いをする場所ではない、と言っていました。

感謝をすればいい、という考え方ですね。

そういった考えもありますし、いやいや、ちゃんとお願い事をすればいいんだ、という考え方もあります。

どちらがいいのかは、人それぞれだと思います。

ただ、職業柄、祈りや願いについてよく考えるんですけども、原則としては、やっぱり感謝をするということ、これがまずベースにあるかなと思います。

つまり、神社というのは、パワースポットだと言われますよね。

パワースポットというのは、もともと、いろいろな波動の場所がある中で、特に波動が高い場所、という意味です。

私も職業柄、引っ越しの家だったり、土地を買う、実際に家を買うといったことで、その土地や物件の波動、エネルギーを見てほしい、というご相談を受けることがあります。

神社仏閣が建つような場所というのは、もともと、その波動のエネルギーが高い場所なんですね。

昔の人々というのは、今の私たち現代人以上に、感性が鋭かったわけですから、ここはすごい場所だ、と感じて、そこに神社を建てたり、信仰の場を作ったりしてきたわけです。

ですから、由緒ある神社、まともな神社と言っていいでしょうか、そういった神社であれば、基本的に波動は高いです。

もちろん、神社によっては、パワーダウンしている場合もありますので、何でもかんでも神社であればいい、というわけではありません。

ただ、一般的に有名な神社であれば、まず大きく外すことは少ないでしょう。

そういった場所は波動が高い、だからパワースポットと言われるわけです。

そこには、信仰があります。

信じて仰ぐと書いて、信仰ですね。

日本であれば、八百万の神々が宿る場所だ、と考えられています。

波動が高いということは、神、あるいは神になるものが、降臨しやすい場所だ、ということでもあります。

ですから、そういった場においては、まず感謝をする。

そして、もっと言えば、崇高なもの、高貴なものを仰ぐ、ということですね。

これは、宗教をやっているかどうかとは、関係ありません。

先ほど伊勢神宮の話をしましたけれども、行かれた方は分かると思います。

あそこには、なんとも言えない、崇高な感じがありますよね。

確か西行法師だったと思いますが、こんな歌があります。

何者かおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼれる。

何がいらっしゃるのか、それは分からないけれども、なぜか、かたじけない、ありがたいという思いに、涙が自然とこぼれてくる、という意味の歌です。

これは、無条件に湧いてくる、その崇高な気分を詠んだ歌なんですね。

感謝というものを、一歩深めると、信仰になります。

いかなる宗教をやっているか、やっていないかに関係なく、仰ぐものがある、ということです。

これを、少し哲学的に言えば、垂直性、という言葉になります。

垂直、つまり、まっすぐ上を向く、ということですね。

神様の数え方に、一柱、二柱、と柱という単位を使いますけれども、これは、天と地をつなぐ、光の柱を意味しています。

その柱の向こうを見上げる。

それが、神社参拝の前提にある姿勢だ、ということです。

そして、そこからお願い事をするのであれば、その信仰、崇高なものを仰ぐ、という前提があってこその、お願い事なんですね。

このブログでは、キング牧師、マーチン・ルーサー・キング・ジュニアの話も出てきます。

英語の教科書で学んだ方もいらっしゃるでしょうし、私も中学生の頃だったと思いますが、授業で、I have a dream、の音声を聞きました。

この夢というのは、お願い事と言ってもいいかもしれませんが、単なる欲望ではありません。

崇高な夢を描く、ということですね。

崇高な気分で、崇高な思いで、崇高な夢や願いを描く。

それをお願い事として、神社で祈る。

それであれば、とても良い祈願だと思います。

これが、神社での祈願における、マジスピ、真のスピリチュアルとしての祈り方になります。

ただ、こういったお願い事をする人は、正直、少数派でしょうね。

年末年始であれば、受験に受かりますように、とか、縁結びで良いパートナーに出会えますように、といったお願いが多いと思います。

それ自体が、悪いとは思いません。

ただ、波動としては、小さいんですよね。

神の目から見れば、小さい願いです。

別に悪いわけではありません。

みんな、そういった欲を持っているわけですから。

ただ、受験であれば、当然、勉強しなければいけません。

合格したければ、合格するだけの学力を身につける、それが前提です。

パートナーシップについても、最近のメルマガで書きましたけれども、縁結びの神社に行くだけでは、やはり足りません。

婚活であれば、結婚相談所、マッチングアプリ、合コンなど、いろいろな方法があります。

そういった行動を取らなければ、出会いが少ないのは、当然のことなんですね。

だから当然、努力が必要になるわけです。

祈った上で神社で願った上で、そこで終わりではなく、実際に努力をする。

その意味で、神社を「誓いの場所」として使うのであれば、それはとてもいいと思います。

ただ、願って終わりだったら、それではあまり意味がありませんし、波動としても小さい。

たとえば伊勢神宮のような、厳粛で特別な場所に行って、厳粛な気持ちになったとしても、そこで、

「自分の受験がうまくいきますように」

「自分が幸せになりますように」

といった、自分ごとのお願いだけをする。

これは、波動が合わない、ということですね。

本当の夢とは欲望ではなく今生を捧げる志のことである

ここで、マーチン・ルーサー・キング・ジュニアの話に戻ります。

「I have a dream」。

有名なスピーチです。

キング牧師は、いわゆるアメリカンドリームを語っています。

このブログでは、その中でも有名な一節を抜き出していますので、冒頭だけ読みます。

これだけでも、ニュアンスは十分に伝わると思います。

「絶望の谷までもがくのはやめよう。

ともよ、今日、私は皆さんに言いたい。

我々は今日も明日も困難に直面している。

それでも、私には夢がある。

それは、アメリカンドリームに根差した夢である。

私には夢がある。

いつの日かこの国が立ち上がり、

すべての人間は生まれながらにして平等であるという、

自明の真理を、本当の意味で実現させるという夢がある。」

ここで語られているアメリカンドリームというのは、

「一攫千金」とか、

「なり上がる」とか、

そういった話ではありません。

次元が、まったく違います。

一発逆転の成功でもないし、自分一人の幸せだけを願う「引き寄せ」でもありません。

「自分が良ければいい」。

そういう欲望の話ではないんですね。

語られているのは、

真の意味での世界平和。

そして、差別の撤廃。

これが、永遠の理想です。

それは、自分が生きている間には、決して叶えられないかもしれない。

それでも、それに向かって生きていく。

これこそが、崇高な夢だと思います。

普通、多くの人が「夢」と呼んでいるものは、実は欲望です。

自分の今生において、実現できそうなこと。

しかし、定義からすれば、それは夢ではありません。

それは、欲望であり、野心です。

この「夢」という言葉を、別の言葉に言い換えるなら、「志」です。

本当の夢とは、志のことです。

この今生の命。

宇宙から与えられた、おそらく百年にも満たない、この小さな命。

それを、何に捧げるのか。

何に、生き切るのか。

これこそが、本当は、神社で祈るべき、願うべきことなんですね。

このブログにも書きましたけれども、大切なのは、

「夢を叶えること」以上に、

「どれほど崇高な願いを抱き、その実現に向けて、どれだけ力を尽くすか」。

ここにあります。

これが、マジスピ的な、真のスピリチュアルとしての夢であり、志です。

これを、仏教的には「悲願」と言います。

悲しい願いと書いて、悲願。

とても重い言葉ですよね。

どうしても、これだけは達成したい。

どうしても、実現したい。

しかし、それは、自分が生きているこの今生の時間では、絶対に実現できない。

それでも、願う。

誰かが、その後を継いでくれることを願って、祈り続ける。

これが、悲願です。

こういった夢や志、悲願を持つ。

もちろん、私たちは凡人です。

私もそうですし、キング牧師のような立派な人間ではありません。

現実的に見れば、私自身も、千葉県の片隅で、本当に小さく活動しているにすぎません。

現実のレベルでは、そうです。

でも、心は、信仰なんです。

「信じて、仰ぐ」。

こういう話をすると、よく言われます。

「キング牧師のような有名な人だから分かるんでしょう」。

「自分は、ただの専業主婦です」。

「もう年を取って、余生を静かに生きたいだけです」。

「今さら、志とか悲願とか言われても」。

こうした反応ですね。

常識的に考えれば、もっともです。

普通で、当たり前です。

ただ、それは、スピリチュアルではありません。

あくまで、現世的な発想です。

スピリチュアルというのは、肉体が本体ではありません。

これは、これまでも何度も言ってきました。

人間は、肉体と精神と、そして霊魂、魂から成り立っています。

スピリチュアル的に考えれば、人間は肉体ではありません。

肉体は、仮のものです。

たとえ肉体が滅んでも、霊魂は続いていく。

宗教では「霊魂不滅」と言います。

私自身も、亡くなった方のオーラや波動を見ることがあります。

肉体を持っているかどうかは、関係ありません。

名前だけで分かる。

これは、冒頭でいつも言っているとおりです。

人間の本体は、肉体ではない。

そう考えたとき、

「この世で実現できるかどうか」だけにフォーカスすると、

キング牧師の「I have a dream」は、ある意味、狂っている。

クレイジーです。

実際、キング牧師は暗殺されました。

でも、本体は肉体ではありません。

キング牧師は、深いキリスト教の信仰を持った人です。

永遠の生命という前提を、当然、踏まえています。

たとえ道半ばで倒れたとしても、

キング牧師の精神や魂は、今も残っている。

これは、かなりスピリチュアルな話になりますが、

たとえば、キング牧師の演説を聞いて、

「こんなすごい人がいたのか」と心を打たれる。

その人を尊敬する。

「この人ほどではないけれど、自分も、こういう生き方をしたい」。

そう思う。

その瞬間、

今も地上に留まっているキング牧師の霊魂と、通ずることができる。

私は最近、よく言っています。

尊敬する人を持たなくなった魂は、腐っていく。

これは、間違いありません。

尊敬するものを失えば、魂は腐り、その日暮らしになっていく。

いろいろな人の波動を見てきて、確信しています。

だから、夢や志というのは、若い人だけのものではありません。

たとえ、明日、死ぬ人であっても、です。

挑戦をやめたとき魂の波動は静かに止まっていく

ですから、例えば、ちょっとブログには書いていませんけれども、こんな話があります。

これは浄土真宗だったと思いますが、詳しい宗派名は少し曖昧です。

「もし死ぬ直前に南無阿弥陀仏と唱えれば、必ず浄土へ行ける」。

いわば天国へ行ける、という教えですね。

たとえ死の直前であっても、ただ一心に、一言、心を込めて南無阿弥陀仏と唱えれば、浄土に行けるのだ、という話です。

ただ、これを文字通り、「たった一回唱えればいい」という意味で受け取るのは、違うと思っています。

大切なのは、そのときのバイブレーションです。

たとえ明日死ぬ命であっても、どれだけの思いの深さをもって願うか。

その深さ、その振動数が大事なんですね。

だからこそ、「浄土に行ける」という話は、単なる死にゆく人への慰めではない、と私は思います。

ましてや、まだ人生の時間が残されているのであれば。

その人その人の分に見合った、夢や志を抱く。

もし、それができないのであれば、「そうありたい」と祈る。

それだけでもいいと思います。

よく音声配信でも言っていますけれども、世界平和を祈るのも、いいじゃないですか。

現実的に考えれば、世界平和は実現不可能です。

今の地球人類の意識レベルでは、正直、絶対に不可能です。

戦争は、残念ながら、今もなくなっていません。

最近も、中東をはじめ、世界のあちこちで争いが続いています。

だから、「祈っても意味がない」と思う人もいるかもしれません。

それでも、崇高な願いとして、世界平和を祈る。

そのうえで、大切なのは、ここからです。

自分が今、置かれている状況の中で、一歩踏み出せることは何か。

それを考えて、実際に行動する。

常に、大いなるものを仰ぎながら。

先ほど言った「信じて仰ぐ」という姿勢ですね。

そのうえで、自分の分、置かれた場所で、できることを一歩一歩やっていく。

私自身も、偉そうなことを言っていますけれども、悲願や祈り、志を持ちたいと思っています。

もし持てないなら、「持ちたい」と願い続けています。

それは、毎日、思っています。

ただ、実際にできることは、とても小さい。

こうして今日も配信をしています。

もう二百八十回以上になりますが、これを一つ一つ、積み重ねていく。

それしかありません。

学び、勉強し、カウンセリングの現場で得たことを、守秘義務を守りながら、こうして共有していく。

それは、個人の成功のためだけではありません。

もちろん、個人として成功できれば、それはそれでいい。

ただ、その上で、常に崇高なものを思い続ける。

年末には、私も神社に行くと思います。

そこで祈るのは、「そうありたい」ということです。

過去の偉人たちのように、せめて、その志に近づきたい。

その思いを持ち続ける。

それが、波動であり、オーラを輝かせる、ということなんですね。

できるか、できないか。

結果が出るか、出ないか。

そういう現実的な結果ばかりを求めると、これはできなくなります。

そういう話ではありません。

現実化する夢を叶えることも大事です。

けれども、その先を、常に見据える。

最後に、一つエピソードを話します。

このブログにも書きましたけれども、少しだけ個人的な話です。

以前、師匠と話していたときに、ある人物の話題になりました。

その人は、スピリチュアル系で、誰が見ても「成功している」と言える人です。

実績もあり、影響力もある。

ところが、師匠が、さらっと言った一言が、今でも忘れられません。

「この人は、満足してしまっているな」。

「自己満足だな」。

そう言ったんですね。

最初は、え、そうなんですか、と思いました。

師匠に、「波動を見たらどうですか」と言われ、一緒に見てみると、確かに、満足している部分がありました。

活動はしている。

すごいこともやっている。

けれども、そこから先へ、成長していかない。

自己満足してしまっている。

つまり、崇高なものを見上げていない、ということです。

これは、とても難しい問題です。

人は、恵まれたり、成功したりすると、どうしても満足してしまう。

それを壊し、リセットし、また挑戦する。

これが、難しいんでしょうね。

師匠自身は、今でも挑戦的な人生を生きています。

私自身も、社会的に見れば、まだまだ成功しているとは言えません。

ただ、この仕事を十年ほど続けてきて、だからこそ、小さな成功に甘んじてはいけないと思っています。

常に、見果てぬ夢を描きながら。

「今日一日、何に挑戦するのか」。

たとえ小さくても、挑戦的な人生を生きる。

そうしないと、波動は止まってしまう。

成長は止まります。

これは、表からは分かりにくい。

けれども、神の目から見れば、はっきり分かることです。

だからこそ、他人の姿を見て、それを自分への戒めにする。

もし、自分が少し自己満足しているな、と感じたなら。

それをリセットし、自分を更新していく。

そういう願いを、神社で祈るのも、とてもいいと思います。

「挑戦し続ける人生を歩めるように導いてください」。

そう祈るのは、非常に立派なことだと思います。

私自身も、そうありたいと思っています。

というわけで、今日は、「神社での祈願で、夢や目標を本当に叶えるためには、どのように祈ればいいのか」という話をしました。

ただ、「本当に叶える」というのは、実は、叶うか叶わないか以前の話です。

それは、「何を見上げて生きるか」ということ。

崇高なものを、見据え続けられるかどうか。

なぜなら、宇宙というのは、無限の創造力だからです。

無限の創造エネルギーです。

本当に宇宙と波長を合わせたいのであれば。

自分自身も、肉体は有限でも、精神や魂は無限であることを思い出す。

そして、崇高なものを、常に見続ける。

これは、決して楽な道ではありません。

だから、ほとんどの人は、やらない。

でも、それをやることこそが、魂の、宇宙的な使命なのではないか。

私は、そう思っています。

ご参考になれば幸いです。

改めて、今回の要点

  • 上の文字起こしはまだ編集中です
  • ここまでの文章は誤字脱字を含む「ざっくり文字起こし」の段階です
  • 1週間以内に完成させます
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なお、YouTube(Podcast)は今回の文字起こし編集でカットした部分もありますし、加筆修正した部分も結構あります。

なのでこちらも聞いていただけると、より理解が深まります。

※この下に「音声プレーヤー」があります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。

マジスピラジオ:脱・お花畑の「真のスピリチュアル実践」
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第284回:神社仏閣での正しい祈り方。神仏の波動に合う願望の大きさが望ましい。
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