※ウェブサイト『マジスピ』には音声の文字起こし(読みやすく加筆修正済)があります。
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目次
五井昌久先生の『世界平和の祈り』は超オススメです
今回の文字起こしの要点
- 世界平和の祈りは、他に特に信仰をお持ちでないなら、心からオススメします(他にお持ちでも併用OK)。
- 現世利益――この世の幸福のみを求めるための祈りは、そもそも祈りではなく欲望です。
- 祈りは人生の困難を消すのではなく、むしろ真正面から乗り越える勇気をいただくためになされるもの。
- 自分に与えられている恩恵を深く噛み締めると、ようやく自分以外の何かのために祈れるようになる。
私事ですが、今回で300回目になりました。
当初は「300回ぐらいできたらいいよな」と漠然と思っていましたが、気がつけばそうなっていました。
今後もコツコツ配信していきたいと思います。
さて、この節目の回は何を話そうかなと考えていたんですけれども、過去300回の中で最もご視聴いただいた回を改めて取り上げることにしました。
それは、第116回で取り上げた「世界平和の祈り」についての回です。
私は宗教家の五井昌久先生を個人的に尊敬しており、この回では先生の中心の教え『世界平和の祈り』について語ったのでした。
私はどの宗教にも所属していませんし、今後も所属するつもりもなく、いわば「ただの五井先生ファン」なんです。
利害関係は全くありませんが、会員・信者ではないため「変なポジション」なんですよね(笑)
また、私は神道や仏教はもちろん、キリスト教もギーター(ヒンドゥーの聖典)なども好きです。
116回目はそんな「微妙な立場」での語りだったので、ネガティブな反響を怖れながら話したのでした。
ただフタを開けてみたら、この小規模な配信の中では、最もご視聴いただいている回となりました。
会員さんからは「新鮮です」「面白い立ち位置ですね」「勉強になりました」などと言っていただき、中には「祈りの個人指導」までご依頼いただいた方までおられました。
また私と同じような「非会員の五井先生ファン」の方々とのご縁をいただくことにもなったんです。
本当に有り難いことでした。
そこで、さすがに300回やることで以前よりビビらなくなっているので(笑)もう少し自信を持って『世界平和の祈り』について語り直したいと思ったんですね。
これはめちゃめちゃ良い教えなので、願わくば「新興宗教」という先入観を横に置いて耳を傾けていただきたい。
今回が初めての方もおられるかもしれないので、この「世界平和の祈り」を紹介しましょう。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
※完う(まっとう)
※守護神(しゅごじん)
約4年半前の第116回で「この祈りの波動はすごくいいですよ」とご説明しました。
それは今でもまったく変わっていません。
もちろん、私が知らないだけで他にも良い祈りはたくさんあると思います。
実際、よく似た祈り文言のものもあって、「世界平和の祈り」とほぼ同じ言葉を使っているものもある。
でも、それを提唱した人が違えば、内容は同じように見えても、波動やエネルギーは異なるわけです。
私個人としては、最近の言葉で言えば『世界平和の祈り』推し、「五井先生」推しです。
「本気でなければ祈りではない」と常に自戒すること
現代は、信仰が失われた時代です。
大半の宗教はすでに形骸化しており、いわば「魂の抜けた仏」のような状態です。
特に新興宗教は「現世利益」──今生の幸福のみが目的になってしまっています。
本来の宗教は現世利益を超え、この世ではないあの世、つまり「普遍的な価値」「絶対的な真理」を追窮するものでした。
ところが現代では、貧困、病気、人間関係といった「この世の悩み」を埋め合わせることが主たる目的になっています。
いや、貧困ならまだしも、ある程度の豊かさの上に「もっとカネが欲しい」という欲望を助長している向きすらある。
この「現世さえ幸せであればいい」という考えは、新興宗教のマーケティングに使われています。
信心や信仰の皮をかぶってはいますが、ぶっちゃけ現世利益の欲望を刺激している。
なぜなら、そう宣伝しないと人がなかなか集まらないからです。
これはスピリチュアルも同じ構造ですね。
スピリチュアルもまた「引き寄せ」に代表される通り「金運」「恋愛運」「仕事運」「健康運」など、物質的な欲望を追求するための、精神的幼児のオモチャに成り下がっています。
現代の宗教もスピリチュアルも堕落してしまっているのを憂え、ささやかながら私は【マジスピ】(真のスピリチュアル)という本来のあり方を求めているわけです。
この「世界平和の祈り」ですら注意して祈らないと、結局は現世利益を求める宗教とあまり変わりません。
要はどんな「動機」で祈っているかが問われるんです。
第221回では「祈っていても進歩を感じません」といった読者・視聴者の声を取り上げました。
この回は……けっこう厳しい言い方をしてしまいました。
所属している宗教団体を問わず、この回を聞いた方は結構ビビるらしいです(汗)
「祈り」について質問されると、なんだか本気のスイッチが入ってしまいまして、ついつい辛口になってしまったんです……まぁ私の心の歩みとして削除はせず残しておきますが。
ここで言いたかったのは、
・祈っても何の進歩や進化も感じないのだとしたら、それは "本当は祈っていない" ということ
・「仏作って、魂入れず」とはこのこと
・祈ること自体が目的になってしまっている
ということです。
ぶっちゃけて言えば、
「本気じゃないんだよ」
ということです。
「進歩を感じません」だなんて恥ずかしいことが言えてしまう時点で、「祈りが足りない」のは明らかです。
悪い意味で慣れてくると、「初心」を忘れてしまう。
そうなると、ただ唱えりゃいいんだ、言葉を繰り返しゃいいんだ、といった形式的な祈りになってしまう。
滝行や断食みたいに肉体を酷使するものではないため、ついつい安易に流されやすい。
それが厄介なのは、自分では「ちゃんと祈っているつもり」になってしまうこと。
「もう10年、20年、30年、一筋に祈ってきた」と、プライドだけが高くなる。
大して波動(オーラ)が輝いてもないくせにエラそうに……
なーんて「波動を観る人間」が言っちゃうと、エゴの強い人ほど怖がるんですよ。
単にカタチだけやっていても、それは“心の健康体操”でしかない。
失礼ながら「心のカルチャーセンター」に通っているだけですよ。
祈ること自体が目的ではないとしたら、何のために祈るのですか?
それが即答できないなら、祈りはわかってないでしょうね。
ところが困ったことに、信仰をお持ちの方にこれを尋ねてみても、
「とにかく祈ればいいんだ、と教えられています」
といった感じで「理屈抜き」なんですよね。
いや、理屈抜きではなく「手抜き」と言った方が正確でしょう。
素直な人だったらそれでも結構なのですが、理性で納得できないことを、近代的な教育を受けている現代人が積極的に取り組めるものでしょうか。
祈っても人生の苦悩や困難はチャラにならない
自分の幸せを主たる目的として祈るのは、そもそも祈りではありません。
それは「欲望」だと明確に認識することです。
そうではなく、私たちは世のために、人のために何ができるのか?
この肉体の命を何に使うのか?
この「宇宙的使命への問い」が根底にない限り、いくら祈ってもカタチだけで終わります。
それで「進歩を感じません」と、さも高尚に悩んでいるかのように振る舞ってしまう……
同じ祈りをしていても、どんな想いでやっているかによって、その波動の広がりは天地の差が出ます。
初心者にありがちな問いとして、
「祈れば人生が良くなりますか?」
「祈ったら苦しみが減りますか?」
「人生の困難はなくなりますか?」
というのがありますが、それに対する答えは──
残念ながら、祈りによって苦悩や困難が減ることはありません。
それが「人生が良くなること」の定義だとしたら、良くなりません。
こういうことを真面目に言うと、祈る人は減ってしまうでしょう。
宗教団体がこうした「まともなマーケティング」をすると、信者はたちまち減りますよ(笑)
お布施も減っちゃって、商売上がったりですわ。
でも、それが本当なんだから仕方ない。
苦しみや困難に正面から立ち向かう勇気をいただくために、私たちは祈るのです。
これが祈りの本質です。
普通の人だったら挫けてしまいそうなことでも、むしろ感謝の念をもって喜んで突き進むために、私たちは祈るのです。
だから、祈ってラクになるわけがない。
苦しいに決まっているんですよ。
でも、だからこそ価値が高いわけです。
古今東西の優れた人物は、決まって困難に挑戦した人ではありませんか?
そうじゃなきゃ、そういう人物を描いた伝記や映画を見て感動しませんよ。
偉大な人物の魂には、宗派を問わず強くて深い「祈り」がある。
私たち凡人も、そこに惹かれる魂を持っているなら、その祈りを掴まなければならない。
そのために、祈るのですよ。
されど、祈るだけで満足してなるものか。
こういうことを、少人数のセミナーや個人セッションで話すと、シーン……と静かになります(笑)
きっと教えてくれる人がいなかったんでしょうね。
中には立派な宗教団体に所属している人もいるのに、聞いたことがないらしい……なんてこった。
だから宗教も、そしてスピリチュアルも、とっくに形骸化しているんですよ。
だから私はどこにも所属していないし、今後もする気がないんです。
聖書でイエスがおっしゃっている。
「義に飢え渇く者は幸いなり」(マタイ5:6)
つまり、本当に正しいこと(義)を求め続ける想いがある人は、"魂としては"幸せなんです。
ただし、「飢え渇く」のだから、"肉体としては"必ずしも安楽ではありません。
プロのアーティストやアスリートの多くが、輝かしい実績があるにもかかわらず「現状にまだまだ満足していません」と言うのは飢え渇いている姿としてわかりやすい。
この点を理解しないと、この言葉の真意はわからないですよ。
飢え渇くには、道――無限なるもの――を見上げなければならない。
無限から観れば、私たち有限的存在はどこまで成長しても未熟です。
祈りというのは、見上げる、信仰する――信じて仰ぐ――ということ。
ですから、本当に祈っている人は、絶えず飢え渇いているわけです。
先人の祈りを深く受け取ることで、深く祈れるようになる
貧困、大病、仕事のピンチ……
こういうとき、たとえ信仰を持っていなくても「藁にも縋る想い」で祈ることはあるでしょう。
でも、物質的に恵まれているとき、なお「飢え渇く」ことができるかどうか。
とてもじゃないが、自分のことだけを考えていたら、絶対できないですよ。
ある程度満たされて自己満足している人が、わざわざ苦労しようとは、普通は思わない。
社会的・経済的に恵まれると、波動(オーラ)が薄汚れてしまう人が少なくないのは、この自己満足が原因です。
でも本当に真摯な人は、恵まれているからこそ、その恩恵に深く感謝し、何か恩返し・恩送りをしたいと思うでしょう。
特に、われわれ日本人はその遺伝子を深いレベルで持っているはず。
『世界平和の祈り』の中にも出てきますが、今の恩恵は「守護霊様」「守護神様」のおかげだと思える。
でも、世界を見渡せば、まだまだ不幸や悲しみに満ちている。
自分だけの幸せとは、本当に幸せと言えるのか?
いや、違う。
だから、まだまだ自分は働かなければならない。
たとえ微力であろうと、何事をか為さねばならない。
これは私も自戒を込めて言いますが、こういうことが普通に思えて継続的な行動にまで至れば、その人は本当に祈っている人です。
そう、具体的な実践を伴わないなら、その祈りは祈りではありません。
もっとも、祈りは具体的な実践なのですが、私たちは肉体を与えられている以上、実践レベルにまで深めていかなければウソだということです。
祈るだけで、決して自己満足しませんように。
それでは「ただのいい人」で終わりです。
そんな人、毒にも薬にもなりませんよ。
大切なので繰り返しますが、祈りは目的ではなく手段です。
ここまでしっかり読んでいただければ誤解を怖れずに言えると思いますが、私たちは「より苦しむために祈る」んです。
しかし、その苦しみは誰かのためのものであるから、尊いわけです。
私たちも、誰かの祈り――ご先祖をはじめとして――を受けて、ここまで支えられてきたんじゃないですか。
そこに深く思い至ると、ようやく本気で祈れるようになるでしょう。
そのとき、「私の祈り」は、「私達の祈り」となる。
先達と、今を生きる私達と、これからの人達と共に、時空を超えて祈るようになる――
私達の天命が完うされますように
改めて、今回の文字起こしの要点
- 世界平和の祈りは、他に特に信仰をお持ちでないなら、心からオススメします(他にお持ちでも併用OK)。
- 現世利益――この世の幸福のみを求めるための祈りは、そもそも祈りではなく欲望です。
- 祈りは人生の困難を消すのではなく、むしろ真正面から乗り越える勇気をいただくためになされるもの。
- 自分に与えられている恩恵を深く噛み締めると、ようやく自分以外の何かのために祈れるようになる。
なお、YouTube(Podcast)は今回の文字起こし編集でカットした部分もあります。
なのでこちらも聞いていただけると、より理解が深まります。
※この下に「音声プレーヤー」があります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。
