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第331回:苦悩からの解放――怒りとの付き合い方『ダライ・ラマの仏教入門』より

※ウェブサイト『マジスピ』には音声の文字起こし(読みやすく加筆修正済)があります。

■YouTubeではメモ、資料、スライドなどを映していますが、音声プラットフォームの「ながら聞き」でも十分ご理解いただけると思います。

※今回使った資料は以下からダウンロードできます
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ウェブサイトでは最下部に音声プレーヤーがあります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。

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ここから下は編集中です。まだ「一部に誤字脱字のある、ざっくり文字起こしの段階」をご理解の上で読んでください。配信日から1週間以内に加筆修正して読みやすい文章にしますので、待てる方は少しお待ちください。

今回の要点と要約文

今回の要点

  • ダライ・ラマの言葉「苦しみに耐えれば憐れみが増す」は、人への怒りではなく罪そのものへの洞察を促す教えである。
  • 親との理不尽な関係や憎しみを通じて、自分の中の煩悩と向き合い、忍耐と慈悲を育てることが仏教的修行の核心にある。
  • 怒りや憎しみには実体がなく、それを見抜くことで「空(くう)」の理解へと近づき、解脱への道が開かれる。
  • 六波羅蜜の実践を通して、苦しみや悲しみを慈しみに変えることが、人としての成熟と魂の成長に繋がる。
今回の要約文

先日のカウンセリングでは普通に話を聞くかと思ったら、『ダライ・ラマの仏教入門』という本を出され、「この箇所がわからないので説明してほしい」というご相談でした。

即興だったのでこれまでの理解が試されるところでしたが、まあまあ答えられたような気がしています。

許可をいただいて撮影させていただいたので、今回はその一部を出します。

後でこの本をちゃんと読んだので、補足もします。

テーマは、苦しみや怒りにどう向き合うか。

苦しみや怒りにどう向き合うか。

『ダライ・ラマの仏教入門』は深い問いを与えてくれます。

本書の中に「苦しみに耐えれば耐えるほど、悪い行いに対して憎しみを起こすようになる」という一節があります。

忍耐することで憎しみが増幅するなら意味ねーじゃん、それ忍耐になってねーじゃん、と思うかもしれませんね。

でも、実はここに仏教の核心的な智慧が込められている。

この「憎しみ」とは「罪を憎んで人を憎まず」ということなんです。

私たちはすべて、本来は「純粋な存在」です。

人間の生命波動(オーラ)も、本来は無垢で無実なんです。

しかし「無知」「無明(むみょう:叡智が欠けていること)」によって、純粋な本性が曇らされ、煩悩が蓄積されてしまう。

蓄積された煩悩は「潜在力」となって、怒りや憎しみの連鎖を生み出していくわけです。

ですから、憎むべきは「煩悩そのもの」であって、人ではないんですよ。

「悪い行いに対する憎しみ」というのは、悪い行いには1ミリの価値もなく、誰もが絶対に幸せになれないことを徹底的に自覚することなんです。

そうして怒りや憎しみの無意味さを、普通の理解よりはるかに深く、それこそ絶望的に味わわなければならないんですよ。

今回の話では、自分の中に怒りの「直接原因」は母親ではない、ということ。

そりゃ心無い言葉を何度も浴びせられたら、普通は相手=人に対して怒りが湧いてくるんですよ。

でも、その怒りとて、本当は私の心の内側から湧いてくるんです。

ここが理解の難しいところですが、怒りを感じている「私」そして「心」はどこにあるのか?

何が「私」なのか?

何が「心」なのか?

それを瞑想しながら考えていけば、やがて気がつくときが来るでしょう。

すべては「空」であり、実体を持たないということを。

それを体認することで、私たちは怒りや苦しみの幻惑から解放されていきます。

もちろん、ここで言っているのは根源的なことなので、本当にわかるのは簡単じゃないですよ。

チベット仏教的に言えば、何度も生まれ変わって修行していくんです。

その根本となるのは、瞑想による「直接知覚」です。

苦しみを真正面から忍耐することを通じて、私たちは他人の痛みや悲しみを理解できるようになる。

それが「慈悲」、悲しみを慈しむ心です。

それを育ててくれるのが、“宿敵”とも呼べるような通常の感情では憎き存在なんです。

これ、「仏教入門」のレベルじゃなくて、本質的な話です(笑)

そして、それを支えるのが「六波羅蜜(ろくはらみつ)」です。

布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧。

(意味はググってください)

この6つの実践が、苦しみを悟りへと転化していく道です。

今回の本を通じて、チベット仏教というのはかなり緻密な論理で構成されていることを感じました。

まずはしっかりお勉強することが大事ですね。

けれども今回のご相談のように「そもそも書かれている言葉の意味がわからない」のは困りますね。

ダライ・ラマ法王よ、もうちょっと凡人にもわかるよう説明していただけないものか。

だからこそ、今回は私の理解できる範囲内ではありますが、解説させていただきました。

要点・要約文を読んで、あとは動画でご覧になりたければ以下からどうぞ。


【ご相談】子どもの頃から母親よりパワハラ・モラハラを受け続けてきました

林:「苦しみに耐えれば耐えるほど、あなたは悪い行いに対して、さらに憐れみを起こすようになると。悪い行いに対する憐れみが増すと書いてあります。

一方で、忍耐は、人の素晴らしさや利点に目を開かせてくれるとも言われています。

自分の苦しい体験を通じて、人の痛みを推し量ることや、その人のために何か手助けしたいという意欲を生じることもできる。

つまり苦しみは、修行と考察を行うための絶好の機会を提供してくれるということなんですが…。

ただ、悪い行いに対する憐れみが増す、苦しみに耐えれば耐えるほど。

一方で忍耐は、精神的な成長、つまり悟りに繋がるという。

この2つの説明は、論理的に矛盾するようにも思えるんですよね。

いや、矛盾というより、私にはまだ繋がらない。

今言いかけたのは、“罪を憎んで人を憎まず”ということです。

おそらく、ここで言っているのは、悪い行いに対して憐れみを起こすのであって、悪い行いをしている人に対してではない、ということかなと。」

Aさん:「なるほど。」

林:「ダライ・ラマの『仏教入門』という本に書かれている内容なんです。

今ちょうどお持ち込みいただいたので、初見で、私なりにパッと見て説明しているという状況なんです。

悪い行いに対して憐れみを起こすと書いてあるけど、“人に対して”とは書いてないんですよね。」

Aさん:「書いてないですね。気づきませんでした。」

林:「そう、“罪を憎んで人を憎まず”という言葉、そのままなんですよ。

おそらくこれは、仏教の“六波羅蜜”の一つ、忍辱(にんにく)に関係していると思います。

六波羅蜜は確か、般若心経の実践ですよね。六つある中のひとつに、忍辱がある。」

Aさん:「はい、忍辱ですね。」

林:「“忍辱”の“辱”は、“屈辱”の“辱”でしたっけ?」

Aさん:「そうです。“くつじょくのじょく”です。」

林:「なるほど。つまり“屈辱を忍ぶ”という意味ですね。

だから“忍辱”とは、“屈辱に耐える”という修行なんだと思います。

さらに確か、六波羅蜜の最後は“禅定”と“智慧”でしたっけ?」

Aさん:「そうですね。“禅定”は瞑想のことです。」

林:「そう、瞑想。つまり、“禅定”というのは、心を静めること、瞑想による心の安定を意味する。

なるほど、罪を憎んで人を憎まず。

憎むべきは罪であって、人ではない。

そこから“許し”とか“忍耐”とか、自分を鍛える修行として受け取る、ということですね。」

Aさん:「でも実際には、人を憎んでしまいますよね。」

林:「そうなんですよ。ここで言えば、“親”ですよね。」

Aさん:「そうです。」

林:「この教えは素晴らしいんですけど、現実的にやろうとしたら難しい。

頭では理解していても、感情がどうしても追いつかない。

憎しみが湧いてくる。」

Aさん:「そうなんです。

私の場合、“憎い”というより、正直“いなくなってほしい”という気持ちの方が強いです。

憎しみという感情そのものが、あまり好きじゃないんですよ、自分自身。」

林:「以前もおっしゃってましたね。

“人を嫌う”という気持ちそのものが嫌いだと。」

Aさん:「そう、嫌なんです。

どうしてかは分からないけど、そういう気持ちが自分の中にあるのが嫌で。

だから、“いなくなってほしい”。

“死んでほしい”というのも、本当は嫌だけど…。

でもこれは私だけじゃなくて、父や子供のためにも“もういいでしょ、いなくなってほしい”と思ってしまうんです。

自分のためだけじゃなく、周りのためにも。」

林:「なるほど。

そういった理不尽な仕打ちに対して、前にも何度か話が出ていましたけど、いまはどうされていますか?

お母さんに対して、何か言ったり?」

Aさん:「もうしていません。

諦めました。

言ったら言ったで、倍になって返ってくるんです。

それに、多分、言っても意味が通じない。

だから、言って揉めるよりも、我慢した方がまだマシなんです。」

林:「お子さんのためですね。」

Aさん:「そうです。

子供のために我慢をしています。

それから、お母さんへの感謝も一つだけ見つけました。

“産んでくれた”という根本的な感謝です。

子供と出会えたことは、私の人生で一番の喜びです。

この子供と会えたのは、この世に生まれたから。

つまり、お母さんが私を生んでくれたおかげ。

だから“お母さん、ありがとう”と、そこに行き着いたんです。

ただ、不条理なことをされると、カーッと怒るよりも、クヨクヨ、シクシクと落ち込んでしまう。

傷ついて、もうどうしようもなくなる。

ずっとそんな状態が続いています。」

林:「例えば、どういうことを言われるんですか?」

Aさん:「最近では、物に当たるようになっていて。

今日の朝のことなんですけど、娘にお弁当を作っていたんです。

チャーハンを作って、よそって、フライパンに木べらを置いておいた。

私が洗い物をしていると、お母さんが来て、その木べらを“パーン”と投げたんです。

洗い場に。

すごい音がして、ドキッとしました。

でも何も言いませんでした。

何も言わないんです。」

林:「“お母さん、何やってんの!”って言いたくなりませんか?」

Aさん:「心では思ってますよ。“うるさい”って。

前は言ってましたけど、今はもう言いません。

言っても無駄だから。

通じないんです。」

林:「なるほど。

それは腹いせなんですか?」

Aさん:「そうです。嫌がらせ。

昔からずっとそうなんです。

理不尽な怒りが、ずっと前から。」

林:「今もオーラを見てますけど、やっぱりずっと怒ってる感じですね。

おそらく幼少期からでしょう。

ずっと怒っている。」

Aさん:「そうなんです。焼き餅焼きなんですよ。

何にしても。私にも焼き餅を焼く。

子供が結婚してうまくいっているのにも焼き餅を焼く。」

林:「それすら?普通は孫の結婚なんて、祝福しますよね。」

Aさん:「そうですよね。表面上はそうしてるんですけど、私の前だけ違うんです。

今度、向こうの親と“顔合わせ”があるんですけど、それをカレンダーに書いていたら、“何の顔合わせだ”って聞かれて、“あ、そっか”って言った瞬間、機嫌が悪くなって。

もう根本が嫉妬なんですよね。」

林:「そうですね。嫉妬。

孫であろうと、他人の幸福を許せない。

多分そういうことですよね。

相対的に自分が不幸に見えてしまうんです。」

Aさん:「比べちゃうんですかね。」

林:「そう。比べてしまう。

この怒りのオーラを見る限り、孫ですら怒りの対象になっている。

喜べない。

人前では喜んでいるフリをしていても、本当は怒っている。

まさに先生のおっしゃる通りです。」

Aさん:「みんなの前では取り繕って、私にだけ本性を出すんです。

子供や夫の前では外面がいい。

だから分かっているのは、私だけです。」

林:「他の家族は気づいていない?」

Aさん:「気づいてはいるけど、焼き餅の理由までは分かってないんです。」

林:「なるほど。

でも、きっと察してはいるでしょうね。

その“パーン”という音も聞いてるでしょうし。」

Aさん:「大体、私の前だけです。

ずるいですよね。」

林:「ちゃんと計算してるんですね。」

Aさん:「そう、計算してるんです。

私の前だけでやるんです。」

林:「ある意味、娘であるあなたには、正直なんですね。」

Aさん:「いい言い方をすればそうですけど、悪い方を言えば、そこにしかぶつけられない。

感情の世話を自分でできない人なんです。」

林:「そう、自分の感情の後始末ができない。

結局“自分のケツを拭いてほしい”という状態ですよね。」

Aさん:「そうなんです。

どっちが子供なのか分からないくらい。」

林:「まさに。

加藤諦三先生の言葉を借りれば、“他人を巻き込んで、自分の人生を活性化させる”。

まさしくお母さんがそのタイプですね。」

Aさん:「本当にそうです。」

林:「スピリチュアル的に言えば、エネルギーを奪う人、つまり“エネルギーバンパイア”ですね。」

Aさん:「その通りです。」

林:「ある種の“搾取”なんですよ、エネルギーの。

そこによってしか、生きがいを感じられない。

私はそれを“マイナスの自己実現”と呼んでいます。

破壊や搾取によって充実感を得ようとする。

それが行きすぎると、犯罪にまで発展するんです。

そこが問題ですね。」

Aさん:「ほんと、いつかやられそうな気がして怖いです。

これまでも、何を言っても無視されたり、あからさまに外されたりしてきました。

今はそれがまだマシな方なんです。

だから自分の胸の中に収めて、我慢しています。

でもそうすると、ここに書かれているように、“憐れみ”どころか、“憎しみ”が増してしまう。

“おい、ダライ・ラマよ、どうやって繋がるんだ?”って、文句のひとつも言いたくなります。」

林:「ははは、確かに。

もし本人が目の前にいたら、聞いてみたいですよね。

“それで本当に解脱できるのか?”って。」

「罪を憎んで人を憎まず」の本当の意味とは?

はい、ここまでご視聴、ご聴取いただきましてありがとうございました。

この動画、あるいは音声ではですね、ダライ・ラマの『仏教入門』を、その場で渡されて初見でパッと読んで、思ったことを述べただけでした。

後でですね、これも映像ではお分かりの通り、付箋がいっぱい打ってありますけども、じっくり読みました。

で、そのうえでですね、解説をしていきたいと思います。

これね、実は「入門」と書いてますが、だいぶ難しいっちゃ難しいんですよ。

で、それをですね、簡単に要点だけですね、本当はもっと細かい部分が大事ではあるんですが、今回はちょっと限られた時間なので、要点だけを述べていきたいと思います。

で、今お聞きいただいてお分かりの通りですね、このお客様、クライアントさんは、子供の頃から理不尽な怒りをぶつけてくる母親との関係で、ずっと悩んでおられるわけですね。

それで最近もですね、何回かお話を聞かせていただいてきたんですけども、なかなか親子関係は難しいですよね。

で、普通に考えれば、別れて距離を置いて暮らせばいいと思うんですけども、この方の家の事情で、生活や仕事を共にしないといけない関係性なんですね。

たびたびこのマジスピラジオでも述べてきた通り、親子関係は難しいです。

ただ、それを前提の上でですね、話をしていきたいと思います。

まず、このさっきの本編の冒頭で言った、ダライ・ラマがおっしゃっている意味は、「罪を憎んで人を憎まず」ということではないですか、ということを、私、その時ね、即興で述べましたけども、これ後で本を読み直してみるとですね、だいたいそういったことが書いてましたね。

で、本の文章ですね、簡潔に言うと、憎悪はその人の本性ではないと。

長い間の無知によって蓄積されてきた煩悩が、憎悪的な行為を生んでいる、といった趣旨のことが書いていました。

つまり、人はそもそも純粋なものなんだと。

人間の本質というものですね。

ところが、これは仏教で言うところの「無知」とか、あるいはちょっと専門用語になりますけども「無明」、明かりがない、光がないと書いて無明ですね。

それによって、本当は純粋無垢な本性が曇らされて、そのことによって煩悩が、その憎しみや怒りを生んでしまったということですね。

だから、そういった意味で、「罪を憎んで人を憎まず」という、私の最初の仏教的な表現ですね、決して間違ってはいなかったなと。

なんか答え合わせができた感じで嬉しかったですね、これはね。

これもまた仏教的な考えですけども、今回のこの苦しみ・苦悩というのは、親子関係という「縁起」によるものだと言えます。

縁起もかなり深い意味ではありますけども、めっちゃ簡単に言うと「関係性」ですね。

今回は、母親と子供の縁起によって、そこに煩悩としての怒りが、あるいは憎しみが起こってしまうということ。

ただし、ここは今回とても大事であり、そして最も理解が難しいと思いますけども、「そこには実体がない」ということですね。

ここが分かるかどうかが、とっても大事です。

もうちょっとだけ分かりやすく言うと、相手、ここで言えば母親ですね。

母親は怒りの直接原因ではない。

なぜならば、そこに実体はないからである。

だから、これをもうちょっと突き詰めて言うと、やっぱり般若心経的な「空」の世界になるわけですね。

この前、ショート動画で般若心経の音読をしましたけども、難しいんですよ、だからね。

だから難しいから、本当はこの細かいことが大事なんですよ。

でも、ちょっと今日は時間が限られているので、その原則だけに絞りますね。

ここでは、相手に対する嫌悪感でムカついたり、憎しみがこちらにも起きたりするわけだけども、そもそも実体はないんです。

…って言っても分からないので、ヒントだけ言うと、

「怒りを感じている私はどこにあるのか。」

そして怒りを感じているその心ですね。

それはどこにあるんですか、と。

これが仏教の問いなんですね。

怒りを感じているのは、私に決まってますよね。

そして、それは私の心に決まってますよね。

じゃあ、私はどこにあるんだ。

その感じている心はどこにあるんだ。

これがヒントです。

ここでは答えは言わないし、言っても分からないですね。

だから、あ、そうそう、答えを言うなら「空(くう)」ですよ。

分かりますか。

はい、すべては「空」だと。

以上ですね。

…分からないでしょ、そんな。

「いや、“空”って言われても…」って感じじゃないですか。

だから自分で考えるしかない。

それにはですね、2つのコースがあります。

第1のコース。

禅問答みたいに、死ぬほど考えることですね。

これが第1のコース。

そして第2のコース。

これは今回の本でおすすめされていますけども、「瞑想」に集中するということですね。

瞑想すること。

で、この「瞑想して分かる分かり方」を、直接知覚と、この本では翻訳として書いています。

だから、難しいですよね、こういった表現が。

分かりやすく言えば、これも前、たびたび言っていた「気づき」とか「直観」ですね。

これをちゃんと言えば「直接知覚」ということです。

つまり「直接」って、何が直接かというと、論理とか理屈とか思考ではなくて、直接ダイレクトに「叡智」にアクセスをするということです。

言葉で言えば言うほど、ますます分からなくなるというのは、こういった世界ですね。

難しいでしょう。

でも、難しくはないんですけどね、本当は。

分かれば簡単です。

ボードのダライ・ラマの言葉ですね。

テロップで載せましたけども、それがこの言葉ですね。

「苦しみに耐えれば耐えるほど、あなたは悪い行いに対して、更に嫌悪の情を起こすようになるでしょう。」

ここはちょっと意味わからん、というご相談だったんですけども。

悪い行いに対して嫌悪をするというのはね、普通の意味での嫌悪ではない。

ここでは、相手に対する嫌悪ではないんです。

何に対する嫌悪か。

さっき言った「罪を憎む」ということ。

そして「人は憎まない」ということ。

罪に対する憎しみ。

罪に対する嫌悪の情が、もっと深くなるということです。

もっと簡単に言うと、悪い行いを起こす、人を傷つける言葉を吐くということ。

その罪深さであり、あるいはその虚しさですね。

そういうことを言ったところで、何の生産性もない。

二度とない人生の時間を、完全に無駄にするだけだと。

その虚しさを、徹底的に悟るということ。

これが「悪い行いに対する嫌悪の情」ということですね。

これはちょっと、この本を読んで改めて認識をしたことなので、補足としてお伝えしますね。

そしてさらには、怒りを怒りで返す、そのまた虚しさですね。

何の、誰も喜ばない。

誰も幸せにならないということ。

それを本当に分かっているか、と。

それが分かれば、いくら傷つけられても、傷つけ返すとか、そこまでいかなくても心の中で「なんだこいつ」「ほんま腹立つな」みたいな怒りの情ですね。

それは煩悩を抱える私たち、未熟な人間だから、怒りは湧いてきます。

それはね、やっぱり理不尽な仕打ちを受ければ、怒りは湧いてきますよ。

当たり前です、そんなもんね。

ただ一方で、そうやって怒りが湧くのは仕方ないにしても、そのことの虚しさは徹底的に悟りなさいと。

そうすれば、それを乗り越えていく、その世界へ向かっていけるということですね。

だからこの本にも書いてましたけども、「これは難しいんだよ」と。

けど、人間として生まれたんなら、そして縁があって仏法、仏教に巡り会ったならば、それをやっていこうね、と。

で、これはチベット仏教がベースなんで、「それこそ何回生まれ変わってもやろうぜ」「無知から解脱しようぜ」と、そうおっしゃっているわけです。

これ、順番としては、徹底的な「悔恨」って書きましたけども、徹底的な反省ですね。

その悪の虚しさを徹底的に自覚しない限り、人間は変われません。

もっと言うと、どれだけの深みでこの虚しさに絶望できるかということです。

だから「足りないのは希望じゃないんですよ。足りないのは絶望です」と。

これもなかなか理解が難しいかもしれませんね。

一般的に言われることとは逆のことを言ってますから。

ですから、頭の理解じゃなくて、さっき言った「直接知覚」、これで知らなければならないと。

またさっきのダライ・ラマの読んだ箇所ですけども、この「忍耐」。

だから忍耐が必要なんだと。

だって未熟な身ですからね。

それは怒りも湧いてきますよ。

だから「忍耐して学べ」という話なんですよ。

その忍耐のプロセスにおいて、それは解脱の素晴らしさや利点に、身を開かせてくれますと。

さらに、あなたは自分の苦しい体験を通じて、他人の痛みを推し量ることや、彼らのために何か手助けをしたいという意欲を、生じることも可能になるでしょう、と。

難しいんですよ、これは。

特に宿敵に対して、愛や尊敬の念を抱くことはもっと難しい、と書いています。

だからこそ、忍耐の行は尊いわけです。

さっきも言いました。

実体はないため、この世に憎むべき人は本当はいない。

そんな実体はない。

ただ、その煩悩が悪さをしているだけだと。

で、この自分の痛みを通じて、苦しみを通じて悲しみを知る。

だから「慈悲」ですね。

悲しみを慈しむその心が生まれてくる、ということですね。

その憎むべき宿敵というのが、自分の中から慈悲を育ててくださる、と。

…さあ、ここまで。

ここまで思えますか、っていう。

なかなか無理でしょう、これ。

きついですよね、これは。

だから、難しいとは分かっているけども、「何生も、一生二生三生、無量百千万億の年月をかけてやっていこうぜ」と、そうおっしゃっている、ということですね。

だからこそ「苦しみは、修行と考察を行うための絶好の機会である」と、いうことを言っているわけです。

難しいですね。

とはいえ、まずはですね、特にこのチベット仏教は、ものすごい理論体系なのでね、まずはこれをちゃんと頭の勉強でいいんでね、お勉強でいいんで理解をするということが大事ですね。

そして実践としては、これをさっきも本編で出てきましたけども、「六波羅蜜」。

これは修行の六項目ですね。

その実践をする。

で、繰り返しますけども、六波羅蜜、6つの実践項目です。

一つ目、布施。

人に良い施しをすること。

二つ目、持戒。

戒めを持つということ。

三つ目、忍辱。

屈辱に耐えるということ。

四つ目、精進。

努力を怠らないこと。

五つ目、禅定。

これは瞑想ですね。

瞑想するということ。

六つ目、その結果としての智慧。

だからこれが、直接知覚というやつです。

気づきというやつです。

こういったことが大事ですよ、ということを言ってるんですね。

はい。

今回は時間に限りがありますので、ちょっとこの要点のみにしておきますけども、大事なことは「実体はない」ということですね。

まあこれがね、まあ私もどこまで分かっているか分かりませんけども、これが分かるにつれて解脱へとね。

このお客様、最後に「解脱したい」とおっしゃっていましたけども、それが可能になっていくんじゃないかなと思いますね。

だからこの方は、これをね、直接お伝えもしているけども、そうやって親が理不尽だからこそ、こういった仏教的な教えに向かっていったんじゃないでしょうかと。

順風満帆で、ラッキーや引き寄せの連続だったら、こんな教えに行きますか。

絶対行かないですよ。

この世の無常や不幸を感じて、こういった教えに行くわけでしょ。

こういったことが分かるにつれて、さっきの忍耐ですね。

忍辱と六波羅蜜の中にもありますけども、それができるようになっていくわけですけども。

まあ難しい、これは。

私も完璧にできているとは、もちろん思いませんので、お互い学んでいきましょうね、ということで。

これをご紹介いただいたこのご縁に感謝して、この動画をお届けしました。

今回の動画の内容は個人セッションの内容なので、すべては公開できませんけど、また一般公開していいかなという部分があればですね、ご紹介したいと思います。

では今回ですね、「苦悩からの解放・怒りとの付き合い方」ということで、ダライ・ラマの『仏教入門』を取り上げました。

ご参考になれば幸いです。

改めて、今回の要点

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なお、YouTube(Podcast)は今回の文字起こし編集でカットした部分もあります。

なのでこちらも聞いていただけると、より理解が深まります。

※この下に「音声プレーヤー」があります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。

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