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ここから下は編集中です。まだ「一部に誤字脱字のある、ざっくり文字起こしの段階」をご理解の上で読んでください。配信日から1週間以内に加筆修正して読みやすい文章にしますので、待てる方は少しお待ちください。
目次
今回の要点と要約文
今回の要点
- 大きなエゴや野心がなくても、「聖なる野心」や「大いなる欲望」という祈りのような想念は、人を強く成長させる原動力になる。
- 成功そのものは目的ではなく、魂の成熟・成長のための“手段”であり、祈りによって生命を燃やす姿勢が本質である。
- 「人事を尽くして天命を待つ」生き方を貫くことで、成功・失敗を超えた生命的幸福感と強い光を放つ波動が生まれる。
■「真の成功」は、エゴを超えた"大きな祈り"から自ずと生まれる■
前回の続きです。
成功哲学(自己啓発)では、「大きな願望を持つこと」が根本です。
しかし多くの人は、そもそも大きな想念を持てるだけの背景や理由を持てない。
そのため「人並みでいい」「そこそこでいい」という感覚を持つ人も多いでしょう。
けれども「人並みでいい」という思いは、心の底から感謝の念があれば別ですが、ホンネとしては「人間としての成長を諦めた姿」ではないのか。
生命力の強い人は「人並みでいい」だなんて思わないですよ。
野心むき出しの姿もエゴであれば、現状維持で十分だと自己満足する姿もエゴでしょう。
野心バリバリでエゴを追求する人は、善悪を抜きにすれば「正直な人」です。
その「正直さ」は、別にバリバリ物質的成功を求めないとしても、本当は誰しも持たなければならない。
エゴイスティックな野心を持てない、自分さえ良ければいいなんて思えない「やさしい人」「真面目な人」「誠実な人」こそ、本当は大きな想いを持たなければならない。
人に喜ばれ感謝される人間に、周囲に貢献できる人間に、縁ある人々に大きな光や笑顔を届けられる人間になれるよう、"善人" こそ大きな想念を抱くこと。
これは物質的な成功を得るための欲望ではありません。
魂が成長・成熟し、より深く生きる方向に燃えて突き進む “祈り” です。
成功哲学の元祖・マーフィーが教える物質的願望を成就させる祈りは、本来の祈りではありません。
私たちが祈るのは、生命を大きく輝かせるためであり、成長し続けるためです。
成功はその途上で自然に得られるものでしょう。
この祈りには、物質的成功を求めるときに生まれるがちな「失敗したらどうしよう」というブレーキがない。
なぜなら、祈りの方向性が「自分」ではなく、「世のため人のため」という大きな方向性に向いているからです。
だからこそ、優しい人、気の弱い人、謙虚な人ほど、この種の “聖なる野心” “戦略的傲慢さ” を持つこと。
「ただのいい人」で小さくまとまってしまうのは、もったいない。
理想としては「いい人」こそ、野心バリバリの人間に勝るとも劣らない大きな想念を燃やすこと。
それは可能ですし、私もそうありたいと思い続けています。
私たちは、マーフィーなんぞよりはるかに次元の高い「真の成功哲学」を持たなければなりませんよ。
ただひたすらに、成長・成熟を求めること。
これだったら、オラオラしている成功哲学が苦手な人でも、決心次第でできると思いますが、どうでしょうか。
「世の光となろう」という想いがたとえすぐに3次元世界では実現しなくとも、この想いを持ち続けることで、あなたの波動(オーラ)は確実に光り、輝き、大きくなることを〈オーラを観る専門家〉として保証します。
要点・要約文を読んで、あとは動画でご覧になりたければ以下からどうぞ。
成功よりも難しいのは、真剣に打ち込むものを決められないこと
今回の内容は前回『第334回:自己啓発・成功哲学が合わない人へ‐魂の成長を求め続ける生き方』の文字起こしに伴う加筆修正のボリュームが大きくなったので、それを切り出してお届けしています。よければ334回目と合わせてご覧ください。
前回の復習を兼ねて言いますと、大きな野心や欲望というのは、負の体験(失敗、挫折、敗北、屈辱など)から生まれることが多いことをお伝えしました。
ところが私も含め多くの人は、そこまで大きな屈辱の体験があるわけではない。
あったとしても、辛いがゆえに忘れてしまう、思い出したくない方向に進みがちです。
それはそれで人生の処し方の一つではありますが、一方で大きな願望も起きにくいわけです。
大失恋をしたときに「もう恋なんてしない。二度と傷つきたくない・・・ダメ、ゼッタイ。」と思う人の方が多いでしょう。
そこから「次はゼッタイに素晴らしい恋をしてやる!この痛みを大きな幸せに変えてみせる!今に見ていなさい!」と強く思える人は大きなエネルギーを発揮できるわけですが、そういう人はおそらく少ない(少ないからこういうのは映画やドラマになる)。
これは性格や気質、そして何よりも「生命力」によるところも大きいわけで、なかなか後者のようなファイティングスピリットは燃やせないわけです。
そこで「ドロドロした野心」や「成功やお金への執着」をあまり持てない多くの人が、従来の自己啓発ではなく「聖なる野心」「大いなる欲望」を持てるようになるには、どうすればいいのかを考えていきましょう。
その前に、前回Yさんからいただいた感想の中の「虚無」という言葉について、今回も考えてみます。
>(成功しようが失敗しようが)「どっちでもいいんだよね…」という心境なんとなくわかります。
>それが諦めなのか虚無なのか…?なところはありますが。
>今はやっと、現実世界に於(お)いては、地道な努力に越したことは無いという事を受け入れつつあります(笑)
ここも重要な部分です。
もし虚無感に襲われるとしたら、それは物質的な成功だけを目標にしているからです。
前の「ダライ・ラマの回」で述べた通り、この物質の世界は「無常」です。
諸行無常、盛者必衰なり。
つまり、「物質には実体がない」ということ。
実体がないものに照準を合わせれば、そりゃ虚無感、むなしさに襲われるのは当然のことではないでしょうか。
うまいものを食って「うまいなぁ」と感じるのは、ちょっとだけの間です。
いくらおいしくても、10人前食ったら地獄の苦しみと化すでしょう。
ついでに言えば、美食を好む人は肉体の健康を損ねがちです(美食の大半は胃腸に負担だからです)。
また、ハイブランドの服やバッグや宝石を買ってテンションが上がるのは一瞬です。
「もう飽きた。新しいものが欲しい。『欲しいもの』が欲しい・・・」
私はいわゆる社会的な成功者ともお付き合いすることがありますが、彼ら、彼女らののすべてが心から満たされているわけではありません。
それどころか、密やかに「むなしさ」に苛まれている人も決して少なくない。
物質的に満たされた反面、物質を超えた夢を持てなくなったからです。
ある成功者なんて「自分に不幸になりたい」と言ってましたよ。
不幸になったら、「這い上がる理由」が生まれるからです。
地球人ってやつは、よくわからん生き物ですな(宇宙人目線www)。
こう聞けば「モノはむなしい」なんてことはアタマでは理解できるでしょうが、ここに本当に気づくには「人生への深い洞察」が必要です。
それだけ物質の魅力は悪魔的に強いんですよ。
情報社会、大量消費社会の中にどっぷり浸かっている中でこれに気づくのは、決して簡単ではない。
成功哲学(自己啓発)もまた資本主義の時代に作られた、大量消費社会を後押しする「商品」なんです。
ただ、成功とか繁栄は行動の「結果」にすぎません。
結果に過ぎないものを目的にしてしまうと、「本来の目的」を見失ってしまう。
「本来の目的」とは、生命の躍動と魂の成長です。
その目的を「いま・ここ」において成就せしめるために、私たちは成功を求めるんです。
しかし、前回も述べた通り
「成功は約束されていない。しかし成長は約束されている」
私たちは、生命の躍動と魂の成長・成熟という「本来の目的」を実現する、あくまでその手段として現世での成功を求めるのだ。
でも、成功は決して約束されていない。
自分ができることは、成功を求めるプロセスにおいて、生命を躍動させ燃焼させることだけ。
その本来の目的さえ実現できるなら、結果としての成功・失敗は天にゆだねるしかない。
成功・失敗はどちらでもいいのだ。
「どっちでもいい」という思いの根底に「諦め」があれば、それは「虚無」つまり「むなしさ」になります。
一方『人事を尽くして天命を待つ』と言われる通り、全力を尽くした後の「どっちでもいい」は諦めでも虚無でもなく、生命的な幸福感に満たされた心境です。
現代人の多くにとっての「壁」とは、成功できるかできないかではありません。
「人事を尽くす」決心や覚悟ができないことなのです。
情報のノイズが多すぎて、命をかけて打ち込める「何か」を決められないことが、現代人の大きな迷いの原因なのです(物質的欲望を刺激する成功哲学また大きなノイズの一つ)。
その決心や覚悟さえできたら、本当に「どっちでもいい」。
そのとき、成功や失敗を本当に定めるのは、自分でも社会でもなく、天命なのです。
天から問われていることは「人事を本当に尽くせるかどうか」という、この一点のみ。
本来「祈り」とは、物質的欲望を実現させるためではなく、成否を超えた覚悟を深めるため、そして天命にゆだねる決心を高めるために為されるのです。
たとえエゴに基づく願望であっても、それが強大なものであれば、「全力を尽くす」ことができます。
その結果、その善悪はさておき、多くの願望は実現できてしまうでしょう。
「やさしい人」「真面目な人」「気の弱い人」は、これができない。
生命力が足りないからです。
なので、(私も含めて)こういう人たちは、やさしくて真面目な性質は残しつつ、生命力を高める工夫を積み重ねなければならないんです。
「善人」こそ、本当は生命力が旺盛でならねばならない。
あのアマテラスのように、エゴの強い「悪人」を上回るほどの「強くて、しかもやさしい光の波動」の発信源とならねばならない。
そのために私たちは「真のスピリチュアル」を学んでいるのではないでしょうか。
エゴや野心が強くない人でも無理なく成功できる方法
先ほども述べた通り、「潜在意識」をクリアにすることは簡単ではありません。
まして前のダライ・ラマ回で述べた通り、潜在意識には「過去世から積み上げてしまった煩悩」も蓄積されているとしたら、なおさら難しい。
先ほどのコメント主Yさんもそれに気づかれ、「般若心経」や「祈り」に向かったわけです。
これは先ほど述べた通り「物質的成功を直接の目的としない」ということです。
そうすれば、これもすでに述べましたが、「成功意欲の反作用・ブレーキとしての自己否定感が出なくなる」わけです。
成功を直接求めないわけですから、「失敗したらどうしよう・・・」「本当に成功できるのかな・・・」というネガティブな思いも出ないということですね。
ゴリゴリの野心がない人、真面目な人、気のやさしい人はこのルートで進んだ方が葛藤はずっと少ない。
デメリットとしては、エゴ全開のオラオラルートより、物質的な成功のスピードは遅くなること。
でも、そもそも「真面目な人」はそこまで成功を求めていないんだからそれで構わないよね、という話です。
般若心経や祈りは、仏教的には「布施」や「禅定(瞑想)」につながる行です。
詳しくは前のダライ・ラマ回で述べましたが、これは煩悩を浄化し、潜在意識をクリアにすることになる。
成功哲学(自己啓発)が肌に合わない人は、宗教やスピリチュアルの中において私がこれまで述べてきたような内容がご参考になるはずです。
「物質的成功を直接的な目的にしない」ということをもう少し詳しく述べます。
これはエゴ的な野心の底にある「欠乏感の意欲」から、
- 「好奇心から湧く意欲」
- 「深い感謝から湧く意欲」
- 「死生観から湧く意欲」
に切り替えるということです。
①好奇心から湧いてくる意欲
欠乏感から出る意欲ではなく、「好奇心の意欲」へ切り替えること。
野心の「ブラックエンジン」から、好奇心の「ホワイトエンジン」へ移行すること。
好奇心といえばスピ系の「ワクワク」が思い浮かびますが、ここは注意が必要です。
以前もどこまで述べた記憶がありますが、「ワクワク」にも偽りと本物があります。
偽りのワクワクは、エゴが喜ぶものです。
物欲によるワクワクや人生が欲望の思い通りになることへのワクワクは、偽りと思って間違いない。
スピ業界には注目を集めるためにこんな愚かなことを言うアホが結構いるので、気をつけてください。
「本物のワクワク」というのは、自分の資質や才能を無理なく発揮し、それを通じて自分が人間として成長できるワクワクです。
ときに悪戦苦闘があっても、心の奥では「充実感」を感じるものです。
②感謝から湧いてくる意欲
次に、「感謝から生まれる自然な意欲」へ切り替えることです。
人生を深く振り返ると、自分はすでに多くのものを与えられているではないか。
その深い気づきから生まれる「報恩と献身の意欲」です。
これもブラックエンジンではなくホワイトエンジンです。
いやホワイトどころか、ダイヤモンドのような輝きのエネルギーですね。
これもブラックエンジンのような爆発力はありませんが、コツコツ積み重ねると「輝き」がだんだん強くなってきます。
「報恩と献身の意欲」の中で、私が過去の宗教家で最も強いと感じているのが日蓮宗の開祖・日蓮です。
「南無妙法蓮華経」ですね。
日蓮の波動を拝見すると、燃え盛る火の玉のような、ものすごい魂のエネルギーなんですよ。
宗教的な感謝の世界を深めていくと、これは人のタイプにもよりますが、日蓮のようにもともと激しい気質の人なら大きなファイヤーボールの波動になります。
これは一つのタイプに過ぎません。
もちろん、ある人は「静かで慎み深い気質」として現れる人もいるでしょう。
そういう人のそばにいるだけで、不思議と心が落ち着くような人格の力を放つわけです。
③死生観から湧く意欲
次は「死生観を深める」ということ。
これもマジスピラジオで何度もお伝えしているテーマですね。
今回は道元の言葉を紹介します。
「志の到らざるは、無常を思わざるに依(よる)なり」
これは道元の『正法眼蔵随聞記』にある言葉です。
志とは世のためになる強い思いや祈りのことですが、それが持てないのは「無常を思わない」、つまり死生観がないからです。
人生は一瞬のうちに過ぎ去ってしまう。
道元の他の言葉には「無常迅速、生死事大」という有名なものがあります。
「人生は本当に一瞬で過ぎ去ってしまうのだ」ということがわかるほど、生き方は深くなります。
「無常そのもの」である物質的成功に執着している場合じゃない。
「本当の目的」に立ち還らねばならん。
道元は禅の人ですから、布施と同様、あるいはそれ以上に坐禅を重んじます。
坐禅は一般的にはあまり馴染みのないものなので、ここでは「生活の中の禅」を提案します。
それは成功や失敗に関係なく、とにかく目の前の仕事や役割に徹底的に取り組むということ。
結局、やれ「開運」だ、やれ「引き寄せ」だと言ったところで、これ以外に運命を確立する態度はありません。
困ったことに、「普通のスピリチュアル」は目の前の現実から逃避することばかり言いますが、「真のスピリチュアル」は生活禅をオススメする、というかこれ以外にあり得ない。
成功哲学が教えるように「成功をイメージする」のはダメとは言わないけど、それが目の前の仕事や役割から目を逸らすものなら、そんなもの捨てた方がいい。
そうやって目の前のことに徹底的に取り組むためには、「何気ない日常がすでに宇宙的使命の顕現なのだ」という自覚を深めていく必要があります。
これは2つ目の「感謝から湧いてくる意欲」にも通じるのですが、多くのものはいま、ここで、すでに、与えられていると気づかねばなりません。
そこに感謝の念があればこそ、目の前のことに取り組む意欲がより湧いてくるわけです。
この自覚を深めるには、長い期間にわたる瞑想や祈りが有効です。
成功哲学のようなわかりやすいハウツーではありませんが、真剣にやっていれば必ずわかります。
そうやって目の前のことに一生懸命取り組めるようになったら、多くの人はそこまで懸命ではないので、もし会社勤めであれば必ず良い成果を出せるはずです。
そうすれば、「大きな富を得る成功者」にはなれないかもしれないけど、「生きる意味」に満たされた人生を送ることができるでしょう。
これこそ、「人間としての真の成功」なんです。
人並み思考の裏にある「無自覚のエゴ」
ここからは今回のラジオ(YouTube・Podcast)で語った分の文字起こし+加筆修正です。
善悪を抜きにすれば、エゴ的な野心から「大きな想念」を抱けるのも「生命力の現れ」ではある。
だから個人的には悪いと思いません。
それはそれで充実して生きる上では大切な資質です。
たとえエゴの塊として他人に迷惑をかけまくり、それで死後は地獄に突き落とされようとも、そういう人物は地獄でもタフに生き抜けるのかも(笑)
そういう人が本当に心を入れ替えて善の方向に向かっていけば、これから述べる「小さな善人」ではなく「大きな善人」として ”生まれ変わる" でしょう。
ただ、こういった地味な動画や音源、そしてスピリチュアルやセラピー、心理学などが好きな方は、多分そこまで強烈な野心は持ちにくい。
そういう人は、大きな欲望を抱けない代わりに「そこそこ人並みでいい」と思っていませんか?
ホンネでは「人並みでいい」と思っていませんか?
「人並みの人生で終わりたくない」という思いは、生命力が強い証拠です。
「人並みでもいいや」と思うのは、実は生命力が希薄である証拠なんです。
それでホンマにええんか?ということを問いたい。
これは物質的にバリバリ成功しようぜとか、ガンガン稼ごうぜという話ではない。
ただ「何気なくボーっと生きているだけでいいのか?」ということです。
たとえエゴや野心がなくても、例えば
- 「世のため人のために役に立つ人間になりたい」
- 「人に光や笑顔を届けたい」
- 「もっと成長して、まだ見ぬ景色を見たい」
など思いは「真のスピリチュアル」というテーマに共鳴される方であれば、強く持てるんじゃないですか?
ゴリゴリにエゴの野心を燃やす人間と同じく、いやそれ以上に、私たちは「世の光となること」に燃えるがごとき祈りを抱くべきではないでしょうか。
もしそうでなければ、大きな悪事も犯さないが、かといって「人並みでいい」という "小さな善人" になってしまうでしょう。
私からすれば、方向性が違うだけで、どちらもエゴイスティックに見えます。
エゴの欲望をメラメラ燃やす人は、ある意味では「正直」なんですよ。
一方、「生かされているだけで有り難い」なんてキレイゴトを言っている人は、そこにウソやゴマカシが入っていませんか?
それ、本当に本心から本気で死ぬほど思ってますか?
前回コメントをくださった方のメッセージにもありましたが、心のどこかに「諦め」や「虚無」はありませんか?
本当に心の底から満たされていますか?
本当に「今のまま」「あるがまま」で幸せですか?
こういうところを美辞麗句抜きで突き詰めて考えていくと、
- 本当は自分だけの「小さな幸せ」さえ手に入ればいい
- 自分の家族、半径5メートルさえ平和で良ければいい
- 適当なところで成長や挑戦を切り上げて、もう「そこそこ」でいい
・・・これも立派なエゴイズムなんです。
野心バリバリもエゴイズムだし、「そこそこでいいです」「人並みで十分です」というのも、その満足感が心の底からのものでなければ、それもまたエゴイズムです。
要は、後者は「虚無」や「諦め」を "そこそこの幸せ" でごまかしているだけなんですよ。
もう一度言いますが、善悪に関係なく、生命力が強い人間は「そこそこ」では満足できないんです。
本当に人生や運命に深く感謝している人間は、自分が受けてきた多大なる恩をお返しする「義務」を積極的に背負うので、「そこそこ」で満足できるわけがない。
満たされているが、しかし、満たされていない。
ここに深く気づく必要があります。
もし気づけたら、野心や物欲バリバリとは全く異なる次元で「大きな想念」を抱けるようになる。
これこそ、これまでたびたび述べてきた「祈り」なんです。
地に足をつけて本気で祈る人間は、「手段としての成功」を求めていくようになります。
自分だけの小さな成功ではなく、「多くの人に笑顔と勇気を分かち合う」真の成功に向かっていく。
そのプロセスを通じて、魂の成長・成熟がもたらされてゆく。
マーフィーの言う「物質的欲望」を達成するための祈りではなく、私たちはさらに高い次元の祈りを持つべきではないのか。
現代人の多くにとっての心の壁は、「成功できるかできないか」ではない。
本当の心の壁は「人事を尽くして天命を待つ」決心や覚悟、つまり祈りを持てないことです。
「命をかけて打ち込める何か」を決められないことです。
もしその決心や覚悟さえできたら、この世における成功や失敗なんか、正直どうでも良くなるんですよ。
逆に言えば、「この世における成功や失敗」を脳で計算して考えるようになると、祈れなくなる。
前回述べた「うまくいかなかったらどうしよう・・・」「本当に成功できるのか・・・」という怖れが同じ脳から湧いてきます。
これは自分のことを中心に考えているから、エゴを中心に考えているからです。
けれども、「人に光や笑顔や勇気を届ける存在でありたい」という【聖なる野心】を本当に掲げるようになると、エゴの怖れやブロックは出てきません。
自分だけの幸せや成功を考えていないからです。
私たちは、この【聖なる野心=祈り】を、単にエゴ的な野心や欲望を燃やす人間より、さらに大きく輝かせるべきでしょう。
それが天台宗の開祖・最澄の「一隅を照らす、これ国の宝なり」という言葉の本質なんです。
たとえ一隅であっても、そこを照らす光の強さは「国の宝」と呼ばれるほどの輝きでなければならない。
これが真の祈りです。
マーフィーの言う祈りは、しょせん初歩の初歩に過ぎません。
19世紀から20世紀の物質文明全盛期に流行した、物質レベルの祈りに過ぎません。
今は21世紀です。
物質文明の極致であるグローバリズムはいまどんどん綻びが出てきていて、世界は混乱しています。
この混乱の遠い先を見据えて、私たちは今こそ祈りの原点に還らなければならない。
自分一人の小さな成功ではなく、より大いなる世界に生きなければならない。
思えば私たちも、過去の偉大なる先達が残した恩恵によって、今を生きている。
その先達の中で、自分一人の成功を考えていた人間など皆無でしょう。
彼らは「人類の将来」「未来の子どもたち」に "光あれ" と祈りながら、日々の人事を尽くしていた。
それを深く想えば、私たちもそうでなければならないのは当たり前のことです。
この世での成功や失敗、賛美や冷笑など、全く関係ない。
人間の真の価値は、何を成し遂げたかも大事ですが、それ以上に「何を見据えていたか」によって決まります。
有り難いことに、私たちの波動(オーラ)は「大きい崇高な想念」を長く持つほど、光り輝いていきます。
その自然な結果として何かを成し遂げることもあり、ときにそれが「この世の成功」と言われるんです。
成功はあくまで手段であり、プロセスなんです。
もっともっと「大いなる幸福」があるということを、「真のスピリチュアル」を学ぶ私たちは決して忘れてはいけない。
従来の自己啓発を超え、たとえ未熟な身であっても、想念ではいわば「人類の啓発」(魂の賦活・活性)を求めていくのが「真の自己啓発」です。
そういう視点で成功哲学(自己啓発)を見ていくと、ところどころにエゴ的な要素がありながらも、学べる点が発見できます。
「真の成功」に向けてのご参考になれば幸いです。
改めて、今回の要点
- 上の文字起こしはまだ編集中です
- ここまでの文章は誤字脱字を含む「ざっくり文字起こし」の段階です
- 1週間以内に完成させます
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なお、YouTube(Podcast)は今回の文字起こし編集でカットした部分があります。
今回は動画と文字起こしはけっこう内容が変わりますので、動画(または音声)もご視聴いただけると、より理解が深まるかと思います。
※この下に「音声プレーヤー」があります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。





