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第340回:本当に願いを叶えたいなら、エゴを手放し本気で祈ること【祈り方の考察】

※ウェブサイト『マジスピ』には音声の文字起こし(読みやすく加筆修正済)があります。

■YouTubeではメモ、資料、スライドなどを映していますが、音声プラットフォームの「ながら聞き」でも十分ご理解いただけると思います。

ウェブサイトでは最下部に音声プレーヤーがあります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。

■ご感想・ご質問は『アンケートフォーム』からどうぞ
https://x.gd/Mp7Lg

今回の要点と要約文

今回の要点

  • 祈りとは生命の根源に想いを向ける行為だが、祈り言葉は伝統宗教、新興宗教を問わず定評のあるもので自分にしっくり来るものを選べば良い。オリジナルにこだわりすぎないこと。
  • 祈りには「~でありますように」という〈お願い型〉と「~だ」「~になった」という〈断定型〉がある。神仏が主役である〈お願い型〉の方が無難。
  • 〈断定型〉の祈りの主役は「自分」であるため(自分がやるんだ!という意識が強いため)、よほど気をつけないと祈りでなく野心のエゴイズムに落ちるので要注意。

※要点は以下のショート動画でも語っています

今回の要約文

「祈り」について研究していると、祈りには「~でありますように」「~になりますように」という〈お願い型〉と、「~になっています」「~になりつつあります」「~になりました」という〈断定型〉があることがわかります。

断定型は、文法的には「現在形」か「過去形」を取ります。

私は〈お願い型〉の方が断然良いと思っています。

その最も簡単な理由は、神道の祝詞、仏教の経文、キリスト教やイスラム教の祈りなど伝統的な祈りは、一部を除いてすべて〈お願い型〉だからです。

一方、最近シリーズで話している成功哲学・自己啓発、はたまた「引き寄せの法則」においては〈断定型〉を主張する人が多い。

彼らの論理は「〈お願い型〉の『~でありますように』は曖昧である。そこには主体性がない。もっとハッキリと自分の願望を明確にしなければ、あたかも「的がわからずデタラメに矢を射るようなもの」だ。それでは叶うものも叶わないじゃないか。だから意識の上では『すでに叶ったもの』として、祈りは〈断定型〉でなければならない」というもの。

確かにこれは一理も二理もあるし、個人主義の時代を生きる私たちにはかなり説得力のある論理でしょう。

だからこそ、現代では自己啓発でもスピリチュアルでも〈断定型〉の方がウケるわけです。

「自分」が、「自分」の意志によって、「自分」の主体的な行為の積み重ねで、ついに願いを叶える。

この世では当たり前のことだし、これができる人間は周囲から一目置かれる。

・・・そう、だから「エゴ」にとってはこちらの方が魅力的に感じるんですよ。

「自分」の力で、「自分」の意志で、「自分」の才覚で、「自分」の思い通りに夢を叶え、「自分」の願った通りに引き寄せていくこと以上に、エゴにとって気持ち良いことはない。

エゴが助長していくことは、エゴにとっては心地よい。

だから現代人の多くは〈断定型〉を好むし、これを受けて自己啓発やスピリチュアルでは〈断定型〉が多く言われるわけです。

〈断定型〉が完全に悪いとは言わないけど、もしやるならエゴから完全に距離を置けているという大確信がなければ、簡単に欲望に絡め取られてしまう。

それでオーラが暗く重たくなっている人を、たくさん観てきました(それでこの世では成功している人もいますが)。

〈断定型〉の立場からすれば、「~でありますように」という〈お願い型〉は、いかにも弱々しく見えるでしょう。

しかし、現代の諸方面における文明の行き詰まりや崩壊を見つめるとき、人間の理性には限界があることがわかります。

神仏を前にすれば、我々は無力・無知の存在です。

最近、島根方面で大きな地震がありましたが、明日何が起こるのかもわからない。

人工知能でも予測不可能。

どこまで「知能」が発達しても、私たちは大切なことは何もわからない。

この頭脳の限界、根源的無知を思い知ったとき、「根源的叡智」への道が開かれる。

その立場から、全生命・全運命を神仏宇宙に託するということが、本来の、そして伝統的な祈りです。

「他力本願」は、決して弱いものではありません。

もし弱いとしたら、単に祈りが弱いだけであり、欲望で「祈ったフリ」をしているだけです。

「本願」とは、本当の想い、誠の想いです。

小さな自分の生命を超え、大いなる生命に本気でゆだねる行いが、弱いわけがない。

その意味で、本当は〈お願い型〉の方が圧倒的な強さを持っていることを、知るべきです。

要点・要約文を読んで、あとは動画でご覧になりたければ以下からどうぞ。


祈りの言葉は伝統的なものでなく、オリジナルでも良いのか?

今回、YouTubeをご覧いただければお分かりの通り、プレゼンの資料を使っています。

これはAIですぐに作ることができて驚いたのですが、せっかくなので今回使いましょう。

今回は「祈りの形式」について考えていきます。

祈りとは「大いなるものに自分を委ねること」ですが、その実践においては「形式」も大切なんですね。

今回の内容は、少し前にあるクライアントさんと個人セッションをさせていただいた際に話した内容の一部です。

では、スライドの1枚目です。

クライアントさんとの対話をAIで文字起こしし、その内容に基づいてさらに資料まで作ってもらったところ、私が考えていないタイトルを勝手につけてくれました(笑)

いやー便利な時代になりしたね。

では次のページです。

今回は祈りについてご質問をいただきました。

私の過去の発信内容をご参考に、例えばここでよく話している『世界平和の祈り』などを祈っておられるようですが、その中でふと次のような言葉が湧いてくることがあるそうです。

「人類の心に平穏が訪れて、安心の中で過ごせますように。
 

世界から争いがなくなりますように。

 

人々の中から恐れや悲しみ、妬みが手放されて、平和の中で過ごせますように」

そして「こうした心から湧いてくる言葉を、祈りとして唱えてもいいのでしょうか?」というご質問をいただいたんですね。

それに対して私は、「素朴に、素直に、心から湧いてくる言葉であれば、それは祈っていいんじゃないですか」と回答いたしました。

では次のスライドです。

自然に湧き上がってくる「即興の祈り」は全然OKですが、無理やり頭でこねくり回して、変に独自のもの、オリジナルのものを作ろうとしなくてもいいです(自己顕示欲の強い人はやりがちですが)。

通常であれば、伝統的な宗教の「定型・定番の祈り」や『世界平和の祈り』のような波動の高い祈りでOK。

短い言葉であれば「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」などもあります。

実践においては、『世界平和の祈り』もそうですが、短い方がやりやすいですね。

世界人類が平和でありますように。

日本が平和でありますように。

私たちの天命がまっとうされますように。

守護霊様、ありがとうございます。

守護神様、ありがとうございます。

他には「般若心経」も比較的短いので実践しやすい。

祝詞の『大祓』は少し長いですが、ずっと唱え続けていれば暗記できるくらいの長さだと思います。

いずれにしても、短かろうが長かろうが基本的には定番の祈り、伝統的な祈りをされたほうが良い。

伝統的な祈りは、多くの人々が唱えてきたことによって「集合的な意識」「集合的な波動」というものが、その言葉に宿っています。

(ただしポジティブなものだけでなく、宗教対立・宗教戦争などのネガティブなものも含まれます)

ですから基本は定番の祈りを行い、その途中で自然と湧き上がってくる言葉があれば、それは素直に唱えたら良いでしょう。

祈りには〈お願い型〉と〈断定型〉があるが、通常は前者がオススメ

ここからだんだん本題に入っていきます。

これはクライアントさんからのご質問ではなかったんですけど、注意点としてお伝えした内容をここでもシェアします。

祈りの言葉というのは、基本的に「〜でありますように」という形式ですよね〈お願い型〉。

先ほどの「世界人類が平和でありますように」という形です。

あるいはキリスト教で言えば、「主よ、今日一日の糧を与えたまえ」という祈りもあります。

「与えたまえ」(与えてください)と、これもお願いしています。

神社の本殿の前にはよく「祓い給え、清め給え、神ながら、守り給え、幸え給え」と書かれてある札があります。

これも〈お願い型〉です。

祝詞の多くは最後に「畏(かしこ)み畏(かしこ)みも申(まを)す」と言いますが、これもお願いしていますね。

したがって、伝統的な祈りは「〜でありますように」と、神仏に委ねる形式をとります。

一方、数は少ないですが「断定の祈り」というものもあります〈断定型〉。

〈断定型〉には「〜になりました」(過去形)、あるいは「〜になっています」(現在形)「~になりつつあります」(現在進行形)というバリエーションがあります。

ただ、私はこの〈断定型〉はおすすめしておらず、圧倒的に〈お願い型〉を推奨しています。

〈断定型〉は少しでも油断すると、エゴが混入しやすいからです。

これは最近シリーズで話している「成功哲学・自己啓発」にも関係するんですが、成功哲学では「~になっています」(現在形)「〜になりました」(過去形)で願望を描きなさい、とよく言います。

何回か前に話した自己啓発の元祖ジョセフ・マーフィーは、これを「祈り」と呼んでいました。

これは「すでに叶っている姿をイメージする」というやつで、これはスピ系の「引き寄せの法則」でも同じように言われます。

〈断定型〉の場合、願いを叶える主体・主人公は「私」です。

一方、「〜でありますように」という〈お願い型〉の祈りでは、主体は私ではなく「神仏・宇宙」です。

ここが大きな違いです。

〈断定型〉の「すでに成功しています」「すでに夢を実現しました、ありがとうございます」というテクニックは、前にも話したスピ系の「予祝」や「前祝い」にそのまま当てはまる。

以前私はこれを「脳のお遊びに過ぎない」と批判しました(詳細は『第336回:真の想像力は「神」から与えられる‐成功哲学・自己啓発の限界を超えて』をチェックしてください)

「自分」が達成する、「自分」が夢を叶える、という自分が主体の構造においては、ちょっとでも油断するとエゴイズムに落ちていきます。

一方「〜でありますように」という〈お願い型〉は、自分は「神仏の道具」に過ぎないわけだから、素直に実践していればエゴが入り込むスキはありません。

だから、よほど理由でもなければ〈お願い型〉の方がいいですよ、と言っているわけです。

いま話したことを、AI資料がまとめてくれています。

右側の「欲望!」という言葉が強いですね(笑)

そうなんです、成功哲学・自己啓発が〈断定形〉を好むのは、「自分の力で、自分の思い通りに、自分が生きているうちに、欲望を実現させたい」という意欲が強いからです。

後でも言いますが、〈お願い型〉では自分が主役になれないから、エゴが強い人にとっては「物足りない」んですよ。

まぁ野心的な欲望が完全に悪いとは言いませんが、〈断定型〉はエゴに流されやすいということは知っておいた方がいい。


ここで、過去にあるクライアントさんとの会話を思い出しました(これ、読んでくださっているでしょうか)。

その方は「私は世界平和を祈るとき、『世界が平和になりました』という過去形で言っているのですが、これはどうでしょうか」とおっしゃったんです。

そのとき私は、「別にいいんじゃないですか。それが自分にとってしっくり来るのであれば、それでなさったらどうですか」とお答えした記憶があります。

ただ、そのとき言わなかったことは、すでに述べた通り「(断定型)はエゴが混入しやすい」という点です。

なぜそれをそのときは言わなかったかというと、そのクライアントはスピリチュアルを深く学んでおられて、とても真摯な方だったからです。

エゴをベースに人生を送っている方ではありませんでした。

だからこそ私は、ご本人が実践の中で自ら学んでくだされば良いと判断し、「それがしっくり来るのであれば、それでいいと思います」とお伝えしたわけです。

でも、もしいま同じこと言われたら「〈断定型〉はエゴに気をつけてくださいね」と答えているかもしれません。

たとえエゴがベースになかったとしても、「平和になりました」という言い方は、いつかそのうちエゴが入りやすい形式ではないかと懸念するからです。

そもそも個人の願望実現と違い、世界平和のようなテーマは「人類の大悲願」と言えるものです。

「個人の力」を超えているからこそ、「祈り」の対象としてふさわしいわけですね。

だから「世界平和を願う」真摯な気持ちは尊重するべきですが、だとしたらわざわざ〈断定型〉にする必然性はあるのでしょうか。

そもそも歴史を振り返れば、縄文時代を除き、戦争がなかった時代はないわけです。

世界人類の精神性は進化するどころか、むしろ退化しているのではないでしょうか。

今や人類は核兵器を持つに至りました。

「平和ボケ」の私たち日本人はイメージしにくいかもしれませんが、一歩間違えれば地球が吹き飛ぶ、すでにそういう危機的な状況にあるわけです。

この文字起こしを作成している時点では、アメリカによるベネズエラ侵攻が起こりました。

アメリカにも言い分はあるのでしょうが、客観的に見れば「国際法を無視して力づくで奪い取った」という北斗の拳(力こそ正義!)のような時代へ逆戻りです。

戦争や紛争やテロはなくなる試しがないですし、国内では日本も含め移民による分断が起こっている。

中国による台湾有事も近いとウワサされています(さすがに日本にとって他人事ではない)。

物質的には恵まれていても、どんどん平和とは逆の方向に行ってるわけですよ。

こういう中で、私たちは「世界が平和になりました〈過去形の断定型〉」と具体的にイメージすることは難しい。

そもそも「平和」(平和ボケじゃなく)の経験がないんだから。

ちょっと考えてみても「人間の理性」がとっくに限界に来ているのに、「何とかなるはずだ」と問題を先送りにしているのが現状です。

そろそろ、本当に降参しなければならないのではないか。

本当に世界平和を実現したいのでれば、私たちを生み出した創造の根源である「神・宇宙」という大いなるエネルギーに「委ねる」しかないのではないでしょうか。

この人間の理性、知性の限界を思い知ったところから、〈お願い型〉の祈りが自然と生まれてくるんです。

そういった意味から、私は大きな祈りであるほど「~でありますように」という言葉のほうが断然良いと思っているわけです。

(百歩譲って、個人レベルの小さな野望は世界平和より達成の可能性がずっと高いので、〈断定型〉でもまだ良いと思います)

祈りの主体は「神仏」でなく「我」だと錯覚すると、エゴイズムに陥る

ここまで「祈りの形式」について考えてきましたが、実はこの核心は形式ではなく「エゴ」の問題です。

別に〈断定型〉で祈っていただいても結構なんですが、やるならエゴのない「無私の精神」が必須です。

(普通の成功哲学、自己啓発、引き寄せの法則は「エゴ・欲望」がベースなので、やりたきゃ〈断定型〉でやったらええがな!波動はショボくなるけど好きにせい!)

自分は本気のガチのマジで死ぬほど世界平和を願っているんだと断言できるのであれば、〈断定型〉で結構です。

ところがどっこい、私も含めた凡人は「"自分が" 平和を実現したい」「"自分が生きているうちに" 実現したい」「"自分が" 生きがいを感じたい」「"自分" が幸せを感じたい」というように、たとえ「自分には無私の精神でやってるんだ」と強く思っていたとしても、これまたエゴに落ちる可能性があるんですよ。

だって、自分の力で、自分が活躍して平和を達成できたとしたら、例えば周りから褒められる、評価される、もてはやされるっていう「ご褒美」が来る可能性が出てくるわけでしょ。

あなたは英雄だ、真の愛国者だ、世界を救う「リアル・アベンジャーズ」だと称賛されるかもしれない。

そこに地位、名誉、お金などの物質が結びついてくるかもしれない。

そういう物質が伴わなかったとしても、「世界平和を祈ってるワシ、マジでエラい!(えっへん!)」という、人知れずニヤリとほくそ笑む「隠れた報酬」もあるかもしれない。

さっきから述べている「主体が自分である」とは、そういう危険を孕んでいるわけですよ。

それでもなお、それでもそれでもなお、「私にはそんなエゴがないんだ!」という自信・自負を持てるんであればどうぞ。

・・・ただし、「"自" 信」「"自" 負」というのも、文字通り主体は「自分」なので、これもエゴに簡単に結びつく危険がありますよ。

だから、この「なっています」「なりました」などの祈りの形式〈断定型〉は、相当レベルが高いと思ってくださいね。

何度でも言うけど、安っぽい成功哲学、自己啓発、引き寄せの法則はそもそもエゴがベースだから、あくまで「主体は自分」とする〈断定型〉で祈った方が、エゴにとっては気持ちいい(だから大衆にはウケる)。

でも、エゴを超えた大きな大きな世界平和を祈るんだったら、よほどのことがない限り「世界人類が平和でありますように」という〈お願い型〉の方がいいですよ。

坂村真民さんが与えられた断定の祈り「大宇宙大和楽」

もっとも、私が尊敬する方々の中には〈断定型〉で祈っている方もおられます。

ただし、そういう方は例外なく宗教的な修行を永く積み、エゴを超えておられる。

徹底的にエゴを見つめて見つめて見つめ尽くし、世界の平和を心から祈り続けた方が、インスピレーションとして神仏から「断定の祈り言葉」を与えられる、ということがあるわけです。

具体的に言いましょうか。

以前のマジスピラジオでご紹介したことがありますが、仏教詩人の坂村真民さんという方がおられます。

有名な方ですけども、この方も「断定の祈り」というのをされていたんですね。

その言葉とは、「大宇宙大和楽」という言葉です。

この意味は説明しなくてもわかりますね。

これは〈断定型の祈り〉です。

だからこれまでの説明だとエゴが混入しやすいという話なんですが、坂村真民さんのような終生「道」を求めた方は例外です。

真民さんは「大宇宙大和楽」という言葉を「大詩母さま」から与えていただいたとおっしゃっています。

※動画では「大詩魂さま」と言いましたが、正しくは「大詩母さま」

ずっと試作(思索)を深めて来られた方が、宇宙からこの言葉を直観として受け取ったわけです。

もちろん、これはエゴではない。

「大宇宙大和楽」は断定の祈りなので主体は「自分」のように見えるんだけども、この背景には神仏宇宙への全託(ぜんたく)、すべてを委ね切った宗教的態度がある。

ですから、形式的には〈断定型〉ですが、本質的には〈お願い型〉なんです。

もしあなたが真民さんを深く尊敬し、「大宇宙大和楽」という言葉に大いに共感できるのであれば、あなたもこの断定の祈りを唱えればいいですよ。

この祈りの本質は〈お願い型〉でエゴが入り込みにくいので、安心して祈ってください。

その他にも〈断定型の祈り〉はありますが、人間として優れた方が提唱されているものであれば、それは結局は神仏への強くて深い「誓願」なんです。

仏教の「四弘誓願(しぐせいがん)」というのも、形式的には断定調ですが、文字通り「仏菩薩への誓願」なんです。

衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

というわけで、あなたが大直観で受け取った祈りか、坂村真民さんのように尊敬する方が提唱されている祈りでもない限り〈お願い型〉の方がいいですよ、という話です。

弱々しい「他力本願」も徹底すると”最強の祈り”となる

自己啓発やスピリチュアルをある程度学んだ段階で、〈お願い型〉より〈断定型〉の祈り、「過去形」または「現在形」での願い事をしたくなる人が出てきます。

なぜなら〈お願い型〉の「~でありますように」という祈り方・願い方は、自我にとっては

  • 主体性がない気がする
  • 何だか物足りない気がする
  • どこか依存しているようで嫌だ
  • どこか「運まかせ」な気がする
  • お願いだけして努力しないのでは?

という感じがしてくるからです。

「自分が自分の力で夢や願望を叶えていくというのに、お願いだけしてもね・・・」という頼りなさを感じている人にとって、〈断定型〉の方が魅力的に感じるもの。

学びの初期は悩みや迷いの多い初心者ゆえ比較的「素直」だったのが、いろいろ学んでだんだん分別がついてくると、「自分の力を試したくなる」時期がやってきます。

さながら「魂の思春期」という感じでしょうか。

そういう人は「明るい未来は、自分で決断しなければ絶対にやってこない!」という "勇ましい表現" を好みます。

「運命は自分で切り拓くものだ」と確信するからこそ、「必ず自分はこういう運命を拓くんだ!」という強い意欲が、〈断定型〉の願い・祈りを生み出すわけです。

願望を現在形で願うのも過去形で願うのも、いずれも「強い意欲」の率直な現れだとしたら、これは否定すべきものじゃありませんよね。

「無気力」「無感動」のぬるま湯にどっぷり漬かっている現代においては、とても尊いことです。

しかしながら、ここで見落としている真実がある。

それは、

「人生は、自分の思い通りにはならない」

ということです。

もうちょっと高い解像度で言えば、

「百歩譲って、たとえ最終的には思い通りになるとしても、その道のりは必ずしも平坦ではない」

ということです。

「お花畑」の住人でなければ、誰でもわかることですね。

だからこそ「思った通りになる人生」は成功哲学・自己啓発の世界では「絵になる」わけですが、私はそれは作為的なブランディングだと思います。

スピリチュアル業界にもいるんですよ、「思い通りの引き寄せ」を上手に見せることでビジネス的なブランディングをしている人がね。

私の知り合いにもそういう方がいるんですが、その方の組織では「まさかの、想定外の、思い通りにならないトラブル」がときどき勃発している。

私は比較的近くにいるから知っているけど、そういうのは表には出さないんですよ。

逆に、人生には「想像した以上の展開」が起こることもあります。

そういうのを何度か経験すると、「人間の理性なんてたかが知れているんだなぁ」としみじみ思いますね。

私の場合だと、ずっと前のマジスピラジオで言った記憶がありますけど、交通事故にあったときのこと。

会社勤めで営業マンとして営業車で首都高の代々木あたりを走っていたとき、「魔のカーブ」と言われているカーブの壁に一瞬の油断で激突してしまいました。

そのとき100km近くのスピードが出ていました。

軽自動車だったんですけど、車は3、4回転ぐらいして、即廃車ですよ。

その瞬間は「あ、これ死んだかも」と思ったけど、ケガ一つなかったんです・・・車は完全にぶっ壊れたのに不思議でしたね。

軽く100円玉ぐらいの薄いアザが、足のスネにできたぐらいでした。

こういった、自分の力や意志を圧倒的に超える経験が何回かあると、自分の理性では到底及ばない世界があることを痛感せざるを得ない。

自分の自我であーだこーだ思うよりも、このような「大きな力」にゆだねたほうが、誤解を怖れずに言うと「ラク」だと思います。

せっかく「自分を生かしてくださっている力」があるんであれば、そこにゆだねた方良くないですか?

でも、こういうのを「弱々しい他力本願だ」と見る人もいると思います。

やっぱり「何だか頼りない感じ」がしてしまうんでしょうね。

ただそれは、他力本願の中でも「初歩的なレベル」です。

「本気の他力本願」というのは、さっき「全託」という言葉を使いましたけども、とても力強い。

「なんとかでありますように」という他力本願の真髄というのは「すべてを捧げ尽くすこと」ですから。

これは「ちょっとあやかろう」とか「なんかいいことがあればいいな」とか、そんな安っぽいな思いではないんです。

だから〈お願い型〉の表面から感じる弱々しさに惑わされず、その本質を観なければなりません。

さっきも述べた通り素直な人であれば、素直に伝統的な〈お願い型〉を実践するのですけど、自我が出てくると〈断定型〉の方が良さそうな気がしてきます。

おそらくこのブログをご覧のあなたであれば、〈お願い型〉の方がいいでしょう。

ここまでしっかり読んでいれば、もう「単なるお願い」ではないことはご理解されているだろうから。

もちろん〈断定型〉の方が本当にしっくり来るならそれでもいいでしょうが、伝統的な祈りの大半は〈お願い型〉であることを忘れないでください。

それは神仏・宇宙に対する謙虚さの現れということです。

今回は祈りの形式について考えてみました。

祈りとは「小さなわたし」が「大いなるもの」へゆだねる、その道であるという話でした。

ご参考になれば幸いです。

改めて、今回の要点

  • 祈りとは生命の根源に想いを向ける行為だが、祈り言葉は伝統宗教、新興宗教を問わず定評のあるもので自分にしっくり来るものを選べば良い。オリジナルにこだわりすぎないこと。
  • 祈りには「~でありますように」という〈お願い型〉と「~だ」「~になった」という〈断定型〉がある。神仏が主役である〈お願い型〉の方が無難。
  • 〈断定型〉の祈りの主役は「自分」であるため(自分がやるんだ!という意識が強いため)、よほど気をつけないと祈りでなく野心のエゴイズムに落ちるので要注意。

なお、YouTube(Podcast)は今回の文字起こし編集でカットした部分があります。

今回も動画と文字起こしは少し内容が変わります。

なので動画(または音声)もご視聴いただけると、より理解が深まるかと思います。

※この下に「音声プレーヤー」があります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。

マジスピラジオ:脱・お花畑の「真のスピリチュアル実践」
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