スピリチュアルカウンセラーの林 昭裕です。
人やモノの波動(オーラ)がわかる特殊能力をベースに活動しており、ここでは【マジスピ】(真のスピリチュアル・脱お花畑スピリチュアル)をテーマに情報発信しています。
今回は
「引き寄せの法則は、エゴを助長する危険性がある」
という話をします。
当ブログでは「引き寄せの法則」について何度も批判していますが、まだまだ言い足りません。
今のスピリチュアル業界から「引き寄せ」の言葉が消え去ってくれたら、ようやくまともになれると思っています。
大半の人は「引き寄せ」に成功や幸福を期待するでしょうが、これはハッキリ言って「エゴ」なのです。
もちろん、現代の価値観からすれば「成功や幸福を求める」のは "普通" のことであり、むしろ奨励されるものでしょう。
だから世の中には「成功者になりたい」「幸せになりたい」「なりたい自分になる」という言葉であふれています。
スピリチュアル系の動画にも、「引き寄せ系」のものが掃いて捨てるほどあります。
私も出していますが、成功や幸福について語っているわけではありません。例えば以下。
ただ、「スピリチュアル」とは本来、「魂」や「霊」のことを言う。
これは「目に見えないもの」を何よりも大切にする根源的な価値観です。
したがって、少し極端に言えば
「この世(目に見える世界)での成功や幸福など、どうでもいい」
という態度がスピリチュアルの根底にあるわけです。
これこそ、マジスピ(真のスピリチュアル)です。
となると、一般的に使われる「引き寄せ」はこの世(目に見える世界)での成功や幸福を、文字通り「引き寄せたい」と思うエゴの願望なので、実は全くスピリチュアルではないのです。
「引き寄せ」に何ら懐疑を向けず、スピリチュアル業界で普通にまかり通っていること自体、すでに業界が腐っていて死んでいる動かぬ証拠なのです。
ただ、こういうことを言っても、おそらく
「は?人間として生まれたなら、成功や幸福を求めるのが当然じゃん」
と反論され、私なんか頭が硬くて古い人間だと思われるのがオチでしょうね。
経済的または社会的な成功者、大きな夢や目標を実現した人間がこの世では「勝ち組」とされますが、霊的な価値観においては、これが真っ逆さまになります。
もちろん、何も成し遂げることなく自堕落に生きる人間が最も価値が低いのは、言うまでもありませんが・・・
先日お受けしたカウンセリングは、大学受験を控えたお子さんを持つご両親からのご相談でした。
通っている高校はいわゆる進学校で、「良い大学」を目指してスパルタ教育が行われているのですが、それが非人間的な厳しさのあまり、お子さんが鬱になってしまった・・・勉強が全くできなくなってしまった・・・「どうすればいいでしょうか?」というご相談でした。
「あぁ・・・いまだに〈学歴社会〉の古い価値観を引きずっているくだらねえ世界があるんやなぁ・・・」と、かつて私も進学校の中で苦しんだ体験があるので、それと重ね合わせていました。
言うまでもないでしょうが、よく勉強すれば良い大学に行ける可能性が高まり、良い大学に行けたら待遇の良い企業に就職できる可能性が高まる・・・これが典型的な成功モデルですよね。
このモデルの根底にあるのは「自分の成功や幸福」なので、もう立派なエゴなのです。
これが現代ではあまりに当たり前になっているので、もはやエゴだと気づかない。
そこには「たくさん勉強して立派な人間になり、社会や国家のために尽くす」という観点は欠けているか、あっても形式的なものになっている。
ましてや「国家のため」だなんて言うと、過去の戦争を想起してアレルギー反応を示す人もいるでしょう。
私がかつて進学校の中にいて感じていた「違和感」は、当時は言語化できずモヤモヤしていたのですが、今はハッキリ「エゴ」だったのだと断言できます。
もう一度言いますが、スピリチュアルとは「魂」や「霊」の世界のことです。
これは「肉体」、つまり個人的な成功や幸福ではなく、それを超えたものを求めることなのです。
個人を超えたものだから、そのまなざしは当然「社会」や「国家」や「世界」を見据えたものになる。
百歩譲って、「引き寄せ」という言葉を使ってもエゴに陥らないのは、「自分個人を超えた何か」を求めている場合のみ。
(聖書の「求めよ、さらば与えられん」の "求めよ" とは「神の国と義」のことなので、当然「自分個人を超えた何か」であり、エゴの欲求ではありません)
ただ、普通に考えれば「引き寄せ」の主語となるのは「自分」ですから、引き寄せという言葉を使う限り、エゴに引きずられてしまうのは避けられないでしょう。
そもそも、自分個人を超えた壮大な世界を志向する人は、もはや「引き寄せ」なんて言葉は多用しない。
そういう人は、「引き寄せ」とは全く逆のベクトルを意味する「与える」や「尽くす」や「貢献する」などの言葉を使うようになります。
(中には口先だけで「与える」「尽くす」と言ってのける人もいるので注意ですが)
それはスピリチュアル的、宗教的には「祈り」なのです。
「祈り」については過去ブログで「一連のシリーズ」でずいぶん述べてきましたが、個人の願望達成を求めることは「野心」であって、祈りではありません。
祈りとは、神仏をはじめ、自分を超えたものに向けて為される。
でも、現代では神社仏閣ですら「成功祈願」なんて平気で言って、野心と祈りを混同している。
そうした方が、お賽銭がたくさん入るからね。
そこに「恥」や「罪」の感覚は、もう沸き起こらない。
だから、残念ながら現代のスピリチュアルや宗教はもう終わっているのです。
私たちはそんな「神なき時代」を生きているのですよ。
私は人の波動(オーラ)を観る変態能力があるので、それでいろんな「成功者」の波動を観るのですが、
経済的または社会的な成功者と呼ばれる人の中で、本当に波動が輝いていると言える人は、実に少ないのであります。
人より才能や行動力や欲求の強い人は、それでもってこの世的には成功しやすい。
けれども、それがエゴに基づいたものであればあるほど、「引き寄せた」結果として波動(オーラ)は重たくなってしまう。
もっと言えば、「獣」に近いオーラになってしまうのです。
それでは、本当は価値などほとんどありません。
誰とは言いませんが、有力な資本家や政治家の顔が「動物に見える」人っていませんか?
先日、ある人から
「自分はその宗教団体が信用できるかどうかは、教祖の面構えを見ていたらわかる。だいたい悪質なところは教祖の顔が歪んでいる」
という話を聞き、どこの教祖とは言わないけど、本当にその通りだなと思いましたね。
別に波動(オーラ)なんか観えなくたって、そいつの人間性なんてツラを見りゃ、だいたいわかるでしょ?
でも、私たちの多くは個人的な成功や幸福を求めることについて何ら疑問を持っていないので、そういう欲目で見たら、そういう人たちも「素晴らしい人物」として見えてしまうのかもしれません。
よく昔のスピリチュアルや宗教の文献で言われることですけど、この世での成功や幸福なんて、あの世からすれば全く価値がないのです。
「あの世の価値」というのは、どれだけ自分を超えたもののために自分のエネルギーを尽くしたか、それだけなのです。
これも昔の日本人なら「お天道様が見ている」と言っていた通り、当たり前のように弁えていた価値観のはずなんですが、それがほぼ絶滅状態になっているのが現代の惨状であり、戦争やテロをはじめとする世界の諸問題の根底にはこうした精神の荒廃があります。
それはスピリチュアル業界にも侵食していて、もはや誰も「引き寄せ」に疑問を挟まない。
今日もスピリチュアル系の誰かが「引き寄せ」に関する動画でもアップしているのでしょう。
何が「アセンション(次元上昇)」じゃボケ、ひたすらディセンション(次元下降)まっしぐらだろうが、と言いたくなる。
とはいえ、別に「引き寄せ」という言葉を使って結構ですよ。
私が尊敬する方々の中にも、「引き寄せ」を口にする方はおられます。
しかし「引き寄せ」の根底にあるのは、「世の中に貢献する」という高い志や夢があってこそなのです。
口先だけの夢ではなく、エゴから生まれる野心でもなく、本当に心から願っている純粋な志のエネルギーが、別に引き寄せを意識しなくても、結果的にチャンスを引き寄せることはあります。
私は昔から「真の引き寄せとは、引き寄せようとは思っていないこと」と言い続けています。
ただ、これを言うと
「引き寄せを思わなければ、結果的に引き寄せられるんですね!」
と解釈する人が出てくる・・・
いや、それ違うから(汗)
何でもハウツーとしてしか理解できないのは、そこにエゴの欲望があるからでしょうね。
引き寄せが結果的に起ころうが起こるまいが、そんなのは本質的なことではないのです。
たとえ報われなくとも、自分なりの志や理想を抱き、引き寄せから「与える」「尽くす」「貢献する」生き方にシフトすることが、魂にとって最も大切なことなのです。
安心してください、そういう人の波動(オーラ)はとても輝いていますから。
現世的には報われが少なくとも、魂としては最も張り合いのある生き方を送れますよ。
それは先ほど述べた聖書が言う、自分を超えた「神の国と義」を求め続けた結果。
古今東西の優れた人たちは、例外なくこういう生き方をしています。
その生き方を最も阻害するものが「引き寄せ」の思想だということを、改めて肝に銘じておきましょう。