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「生きる意味」を迷いつつ求めるのは悟りや覚醒に至るステップであり、天命や使命からの呼びかけに応じる姿勢は「他力」にゆだねるスピリチュアルな道に通じてゆく。

こんにちは。

波動カウンセラーの林 昭裕です。

「生きる意味」を外側に探しても見つからない

前回のラジオ動画は「『むなしさ』の感覚の奥に、魂の声が隠されている」といったテーマで話をしました。



第99回:「むなしさ」は内なる魂からの呼び声。勇気を持って深く見つめていくとき、天命や真の自己実現への道しるべが得られることでしょう。

スピリチュアル業界内の情報発信は「ややハイテンション」なノリが好まれる中、「むなしさ」という一見するとネガティブに感じるものにあえて触れたわけです。

「夜明け前が一番暗い」と言われるように、一部のスピ好きが関心のある「悟り」とか「覚醒」とかいうのは、本来は「深い迷い」や「絶望的な闇」の中で “意図せず” 見出すものではないか?

(またどこかで述べると思いますけど、「意図せず」という部分、テストに出るところですよ~)

「ややハイテンション」なモードでは、たぶん見つからん。

ま、私は悟ってないし覚醒もしてないから、あくまで想像の域を出ませんけどね。

でも、「悟り」や「覚醒」をドヤ顔で謳っている人物の波動(オーラ)の良し悪しだけは、ヘンタイ的能力でわかっちゃう。

そうすると『笑ってはいけない』のように、

「デデーン!  ●●、アウトー!!」

というBGMとともにケツをバットでシバきたくなるような奴らが、決して少なくないのであります。

できないことなら、言わんかったらええのにね。

そうやって己の魂にウソをつくから、波動がショボくなるんやで。

・・・ということを「波動が観える」がゆえに感じてしまうのは、よりいっそう「むなしさ」を深めてくれます。

さて、今回はこの「むなしさ」の底にうずいているだろう、

「生きる意味」

について考えていきましょう。

むなしさの感覚は、「生きる意味」の喪失、または希薄化から湧いてくるものですね。

しかし、むなしさの感覚と正面から向き合うことができたら、「生きる意味」がよみがえる機会にもなるわけです。

もちろんそれは辛くて苦しいときもあるけど、なるべくなら「むなしさの感覚は魂の声」として対峙することをラジオ動画ではオススメしたわけです。



第99回:「むなしさ」は内なる魂からの呼び声。勇気を持って深く見つめていくとき、天命や真の自己実現への道しるべが得られることでしょう。

ただし、その「生きる意味」というのは、外側に「これだ!」といった答えは、たぶん、ない。

むかし読んだ秋元康さんの本に、確か「宗教というのは生き方のマニュアルをまとめたもの」みたいなことが書かれていたような記憶があります。

さすが天下の秋元康、めっちゃクールな視点だなと感じたんですけど、宗教だと例えば

・「人生の目的は、自分の魂を向上させることだ」

・「ひたすら神仏にゆだねて生きるのだ」

などと書かれているでしょうね。

あと、これも昔に読んだ五木寛之さんの『人生の目的』というズバリそのまんまのタイトルの本には、

・「人生の目的とは、その目的を探し続けることだ」

みたいな意味の文章があったかなと記憶しています。

どの回答もそれがしっくりくる人にとっては、生きる糧になるものでしょうね。

ただ、本当のことを言えば、そういった先達の言葉を手がかりにはしながらも、最終的には自分自身の納得いく「答え」を自ら見出していく必要がある。

たとえ「生きる意味」で検索しても、グーグル先生はそれっぽいことは言ってくれるけど、あなたにピッタリな言葉は教えてくれないのよ。

ネットであらゆる「正解」が得られてしまうかのような時代において、「答えのない問い」を求める力は、ますます弱くなっている。

これはブログでは詳しく言わず「無料メルマガ」で述べていることですが、だからいまコロナ禍をめぐる混乱が起こっているとも言えるわけですね。

今回のブログでは、これが「生きる意味ですよ!」と教祖っぽいことは言えないけど、考えるヒントはお伝えできたらと思っています。

「なぜ生きるのか?」の問いに取り憑かれた学生時代

個人的なことになりますが、私が「生きる意味」を死ぬほど求めていたのは、高校生の頃。

中学3年生のとき、たまたま入った塾の先生との相性がすごい良かったこともあり、ゲームみたいに楽しんで勉強し、それまでの100位代後半から10位以内にまで成績順位を爆上げする現象に脳内ドーパミンがフルMAXになった結果、私は大阪では有名な進学校に入りました。

合格がわかったときはもちろんうれしかったし、「人生勝ち組」に入れた気もしました。

ただ、入ったらいきなり出された「3年後の大学受験」を見据えた鬼カリキュラムに直面したとき、私は

「何のために勉強しているのか?」

という問いに取り憑かれてしまったんです。

それはもっといえば、今回のテーマである「生きる意味」に通じるものでした。

これは経験した人ならわかると思いますけど、一度「生きる意味への問い」に憑依されると、もうどうにも止まらない。

これが低級霊や動物霊からの憑依なら「こんなヒーリング」を受けたら浄霊できるかもしれないけど、「生きる意味への問い」はそうはいかない。

だって、これは「むなしさの感覚」と同じく「魂からの問い」だもん。

言葉を持ってしまった人間の、自分が宇宙のどこに位置しているのか、いやそもそも「何が宇宙なのか」を確認しようとする、「スピリチュアルな本能」だもん。

だから高校時代の私は、「答えがすでにわかっている」受験勉強に、一切の興味を示さなくなってしまった。

周りの友人や先生からは「オマエは現実から逃げとる!」と言われましたね。

当時はそれに対して反論できる言葉を持ってなかったので、ただ唇を噛んで心の中で「このボケどもが!」と思うしかなかった。

(いまの自分なら「現実から逃げとるのはオマエらやないか!」とハッキリ言えるけど 笑)

そんな感じで周囲からは全く理解されないまま、宗教や哲学の本を読んだり立派だと思う人から話を聞いたり、ボランティアで出会った当時は10歳ぐらい年上の人たちにいろいろ疑問をぶつけたりもしました。

ただ、それでも納得のいく「答え」は見つからなかったんですね。

人それぞれ、いろんな人生観や価値観があることは、当時でもわかってはいた。

けれども、オレが知りたいのはそういうこととちゃうねん。

「人それぞれ答えが違う」とか、「こうやって生きたらいいよ」的な処世術や世渡りの方法とかでもなく、もっと絶対的な根源的な何か。

それをこそ、知りたかったのに。

ただ、それを求めるほどに、周囲からますます浮いていく。

果ては両親とそりが合わなくなり、高校卒業後は苦しまぎれに家出して「住み込みの新聞配達員」まですることになるわけです。

ただ、そうやって親元を離れ「自由」になったとしても、安心できたのは一瞬で、「生きる意味への問い」から自由になったわけではなかった。

いくら住む場所を変えたところで無駄だと思い知ってから、もうどうしようもなくなって、そこからだんだん心を病んでいき、やがて過食症と円形脱毛症と陥るわけです。

一番苦しかった当時の記憶は、今でも思い出せません。

でも、いま振り返れば、冒頭で言った通り、そういう「絶望的な闇」があったからこそ、別に悟っても覚醒してもないけど、少し気づけたことはあるかなと思いますね。

フランクルの語る「人生から問われている」という逆のまなざし

自分のことをダラダラ述べてしまいましたけど、それだけ私は「生きる意味」を愛しく切なく心強く求めていた時期があることを、ご理解いただきたかったんです。

その上で、また文字数が多くなりそうなのでそろそろ「考えるヒント」をお伝えしましょう。

今でもそうなんですが、ときおり自分の頭の中に「奇妙な問い」が浮かんでくることがあるんです。

それは、

「こんなにも『生きる意味』を問うのは、いったい【何が】【誰が】問うているんだろう?」

という問い。

「えっ? 何が奇妙なの?」と思った人は、たぶんフツーの人です。

それはごもっともでして、「生きる意味」を問うているのはこの自分自身なのは、とってもフツーのことですね。

“自分のアタマ” で「生きる意味」を考えてるんだから、【何が】【誰が】問うているのかといえば、そりゃ自分に決まっとるがな。

・・・と考えるのがフツーですよね。

けれども、この問いの奇妙さは、そんな「フツーのこと」は当然わかっていながら、それでも「奇妙な感覚」として【何が】【誰が】問うているんだろう? と感じてしまっていることなんです。

もう少し別の表現をすれば、

「もしかして人生の意味を問うているのは『自分』じゃなくて、『自分じゃない自分』『自分以外の自分』『もう一人の自分』なんじゃないか・・・」

といった疑問です。

このとき、私の中ではいきなり脳内にメンソールをブチ込まれたような清涼感、ヒヤッとする「シーブリーズの海」に全身で飛び込んだような感覚、または「はッッ!」と長い眠りから一瞬でクリアに目覚めるような感覚。

さらに言えば、いつも見聞きしている日常が初めてのように感じられ、「ここはどこ? わたしはだれ?」みたいに軽い記憶喪失に陥っているような感覚。

そんな感じに包まれるんですよね。

これ・・・伝わるかどうか非常に心もとないんですけど、いかがでございましょうか???

これまで曲がりなりにも真剣に、この世的には(進学校の中で成績が最悪という)マイナスを味わってでも「生きる意味」をずっと問い続けてきたわけです。

しばらくそう続けてきたのに、あるとき

「そもそも、オレは何をやってるのか? そもそも、この問いを発しているのは【誰】やねん?」

という奇妙な問いが浮かんでくるようになったんですね。

ここで生まれているのは、問うている自分を俯瞰して眺めているような「まなざし」です。

それはちょっとした混乱をもたらすとともに、なんと一方で不思議と

「新鮮で心地よい感覚」

をもたらすようにもなりました。

それでも「生きる意味」が掴めたわけじゃないんですけど、だいぶラクにはなっていた。

この種の「俯瞰したまなざし」については、すでに過去の偉い先生がキッチリ説明してくださっているんですね。

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。

 

(V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』より)

フランクルと言えば、あのアウシュビッツ強制収容所での地獄を乗り越えた体験を描いた『夜と霧』があまりにも有名な、超一流の精神科医・心理学者です。

上の引用はフランクルが「コペルニクス的転回」と名付けた「人生の意味への問いの逆転」について述べている部分。

『夜と霧』にも「コペルニクス的転回」について触れられている箇所があり、私は10代の頃に初めて読んだものの、なんとなくわかったようなわからないような感じだったですね。

というのも、いくら素晴らしい本を読んだとしても、自分の問いや見識や体験知がその素晴らしさに追いついていない場合、その意味は本当に理解できないからです。

ただ、いま振り返ると、さっきの「奇妙な問い」というのは、どうやら「コペルニクス的転回」を起こす前兆だったんだな、とようやく理解することができます。

こうして言葉が自分の体験と重なるようになって、初めてその言葉は「腑に落ちる」わけです。

フランクル先生のおっしゃる通り、おそらく私は高校生の頃より「人生の側」から問われていたようなんですね。

この「人生の側」というのは、「自分を超えた何ものか」です。

「生きる意味」を、問わずにはいられなかった。

まるで何かに憑依されたかのように、問わずにはいられなかった。

そこにはおそらく「自分を超えた何ものか」による働きかけ、呼び声といったものがあったのだろう。

「使命」というのは英語で【mission】と言うけれど、一方で【calling】という言葉もあります。

その【calling】、コールされている(呼ばれている)ということ、人生の側から何かを問われているということ。

その感覚こそ、真に「スピリチュアル」と呼ばれる何か(いつも言ってる「マジスピ」)。

宗教や大衆的スピリチュアルが「人生の意味」をわかりやすく教えてくれる以前から、私たちの内側にすでにある、問われているという感覚。

「人生の意味を問う者が、実は人生の側から問われている者でもある」ということ。

これは宗教やスピリチュアルが説く「生かされている」という感覚を、もう一歩深めたもののように感じますね。

となると、私たちが生きるというのは、この人生からの問いに対して、答えが出ようが出まいが、応えていく(「答えていく」ではない)歩みとも言えます。

別に答えが出なくとも、応える姿勢さえ止めていないなら、それは立派に「使命(calling)」の道を歩んでいる言っていいかもしれませんね。

あなたは、いかがでしょうか?

「人生の側から問われている感覚」はお持ちでしょうか?

そんなこと、初めて知りましたかね?

なら、別に感じられないかもしれません。

別にそれはそれでいいんですよ。

最初にも述べた通り、答えなんてないんだから。

別に他にもいろんな考え方があるので、それらを参考にしながら、ご自身なりの答えを導いていけばいいんです。

私だって「問われている感覚」は感じているけど、だからといって「人生の意味」がわかったわけじゃないし。

ただ、ハッキリ言えることは、「問われている感覚」が深くなってくると、以前の自分のように「人生の意味」を愛しく切なく激しく求める必要がなくなってくるんじゃないかな、ということ。

さっきも述べた通り、人生の側からの問い(calling)に応えること(しつこいけど「答えること」じゃないよ)を意識しはじめると、それでも悪戦苦闘や試行錯誤はゼロにはならないものの、以前ほどの迷いが少なくなってくるんです。

言い換えれば、自力のみでジタバタしている感じがなくなってくる。

その結果、だいぶラクになってくるわけですね。

スピリチュアル的なセンスというのは、何もオーラが観えるとか「守護霊からメッセージを受け取れる」とかではなく、「自分を超えた何ものか」から声が、息づかいが、まなざしが、理屈抜きで感じ取れるかどうかにかかっています。

じゃあそのセンスはどうやって培うのか? と問われたら、いろいろノウハウはあるかもしれないけど、根本的にはやっぱり

「求め続ける」

しかないんじゃないかなと思います。

間違っても、パワーストーンをジャラジャラつけたり、ラッキーカラーの財布を持ったりするだけでセンスが磨かれることはないっすね。。。

真のスピリチュアル(マジスピ)とは、何らかのマニュアルや答えを示すものではなく、「問い方」や「ヒント」を示してくれるものだと私は考えています。

私も一応はスピの専門家なので「あの世」とか「過去世」とかは語りますけど、まだ今生では死んでいないわけだから、その深い真相は実はわかるはずもなく、自分の観えている断片のそのまた断片を語るに過ぎない。

その意味で安易に答えは出ないものの、「問われている存在」であることの気づきは、同時に「生かされていること」の再発見であり、その果ては「愛されていること」という生命の絶対的肯定の境涯にすら至るのでしょうね。

それを悟りって言うんでしょうかね・・・知らんけど。

最後は何だか大きな話になってしまいましたが、自分でもちょっと何を言っているかわからないので(笑)わかったフリをしないで少しでも研鑽を深めることにします。

「生きる意味」が何かは言えないけど、少なくとも考えるご参考になれば幸いです。

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