こんにちは。
波動カウンセラーの林 昭裕です。
今回も前回に続き、以下の本のレビューをしていきます。
この内容は「アセンション」とか「風の時代」とか、「スピリチュアル・インフルエンサー」が唱えるようなその時の流行ではなく、たとえ地味であっても「普遍的なスピリチュアル」(マジスピ)を考えていくものです。
「考えていく」のであって、私が何か「崇高なる真理」を掴んでいるわけではありません。
このブログからご覧の方は、まずこの点をご了承願います。
「マジスピ」を問題意識にしている私にとって、この本は本当に良かったので、あと2~3回はレビューしたいと考えています。
『Happiness幸福の探求―人生で最も大切な技術』(マチウ・リカール著)
※前回のレビュー1回目はこちら
引き寄せの法則や願望実現法を学ぶ前に知っておくべきこと。本当の幸せは未来や外側ではなく、”いまここ”の内側にあると知るのがスピリチュアルの根本(『Happiness 幸福の探求』ブックレビューその1)
目次
夢、目標、願望を次々と実現しているのに幸せになれない理由
前回のブログでは、「幸せになりたい」と願うのは人間として当然のことだけど、そこから一歩踏み込んで、「いったい自分は何をもって『幸せ』とするのか?」という【幸福観】を考えていくことが大事だと述べました。
本書が考える「幸福」は、仏教的な深い哲学に裏打ちされているため、世間一般的な「幸福」とは根本的に見方が異なっています。
まず、その典型的な部分を引用しましょう。
目標を達成した人、一仕事し終えた人、勝負に勝った人たちは、長い間抱え込んでいた緊張がほぐれる結果、並々ならぬ開放感を味わうことになり、待望とか恐怖の感情は遠のく。残念ながら、こうした経験は、特別の条件が揃ってはじめてもたらされるに過ぎないうえ、儚く消えてしまう魔法の一瞬とか神の恩寵、などの言葉で表現されてきた。
このような電光石火のような幸福の対極に位置するのが、内面の平和を持続する上でふつふつと感じ続ける種類の賢人の幸福である。両者の間には、大きさ、期間、深さの点で大きな違いがある。針の穴からごく一部の大空を見るのと、惑星間に広がる無限の空間を見るほどの違いである。
この文章を読んだだけでも、「よくある幸福観」と「宗教的・霊的な幸福観」との違いがわかりますね。
そういえば、これは過去にある評論家さんの情報発信で知った話ですが、超有名な実業家であるイーロン・マスクさんが、SNS経由で若者から言われた「ぼくもイーロン・マスクさんみたいなスゴい人になりたいんです!」というメッセージに対する回答が印象的でした。
正確な表現ではありませんが、およそこういう内容だったようです。
「いや、キミはオレみたいな人間なんか目指さない方がいいよ。だって、オレは四六時中アタマの中で考え事をしていて、いつもプレッシャーと戦っていて、気持ちが休まるヒマなんて全くないんだから」
これが本当だとしたら、彼はかなり正直に思いをぶっちゃけてくれてますね。
世間的に、彼が「大成功者」なのは言うまでもありません。
彼の功績はネットで少しググった程度の知識しかありませんが、次々と夢を叶えてきた超スゴい人。
最近では彼の発言ひとつで、仮想通貨が大きく値動きするほどの影響力。
そんな彼の波動(オーラ)を拝見していると、いわば「強烈な熱エネルギー」のように感じます。
ただ、そんな才能と努力の天才である彼が本当に「幸福」かといえば、上のコメントにもある通り、実はものすごく孤独を抱えているのかもしれませんね。
それは才能も行動力も優れているがゆえの、「業」なのでしょうか。
前回のブログで、こういう趣旨のことを述べました。
けれども実はそういう人は「不満足感」や「欠乏感」を、常に抱えている場合があるんです。
一流と呼ばれるアーティストやアスリートなどの言葉を聞いていると、
「いつも『これでいい』と思ったことはないんです。いや、一瞬ぐらいは『なんとか無事にやり遂げたな』とか『ギリギリのところで何とか耐えたな』とか安心するんですけど、気がつけば、もう次のことを考えています・・・もしかしたら、自分は一生 "救われない" のかもしれませんね(笑)」
という趣旨のコメントを、一人ならず何人もの方から見聞きします。
世間はこの種の「挑戦者」を、"成功者あるある" だと捉えるでしょう。
本書の著者であるリカールさんは、そういうのは「電光石火のような幸福」だと言います。
ただし、別に否定はしていないんですよ。
「とはいえ、儚く瞬間的な経験からでも人は何かを学ぶことができる」と、別の箇所でおっしゃっています。
スピリチュアルな観点からすると、人間の「魂」というのは、生まれ変わり死に変わり、さまざまな体験を積んでいくわけです(無理に信じなくてもいいですよ)。
その体験のプロセスにおいて、おそらく人はいろんなパターンの「幸福」を体験しているんでしょうね。
例えば「バリバリ稼ぎまくって、物質的に贅沢三昧する」という体験をしている人がいるとします。
その姿は、一般庶民からすれば「嫉妬や羨望の対象」となり得るし、「あいつは銭ゲバだ、成金だ」と陰口を叩かれる場合もあるでしょう。
けれども、その贅沢な経験というのは、その人の「魂の体験」の一つとしては大切なもの。
もし贅沢が行き過ぎて身を滅ぼすとか、周囲が金に目がくらんだ人たちばかりになって人間不信に陥るとか、物質的な豊かさだけ極めても虚しいだけだと悟るとか。
あるいは、お金があればこそ、Amazon創業者のジェフ・ベゾスさんのように「宇宙旅行」という超特別な体験もできるわけです。
そういう体験から何かを学ぶことができれば、「贅沢三昧」もまたOKなのかなと思いますよ(お金をガンガン使ってくれた方が経済も回るし、別にいいんじゃないの)。
もし「過去世」というものがあるとして、もうさんざん物質的に極めてしまった人であれば、新しい人生では「精神性や霊性を追窮する人生」を選択するかもしれませんね。
なので、その人がどんな幸福観であろうが、それは人生観や価値観と同様、決して否定されるものではありません。
「常に挑戦する人生」を体験したい人もいるし、それは社会にメリットをもたらす活動であれば、もちろん強く肯定されるもの。
ただ、「絶え間ない目標達成」や「勝負続きの人生」というのは、常に緊張やプレッシャー、そして自己反省から来る欠乏感にさらされがちなものであって、それらが幸福のすべてではない。
と、リカールさんはおっしゃりたいのだと思います。
そう、私がいろんな「成功者」の波動(オーラ)を拝見している限り、本人が心から幸福に満たされ、しかも精力的に活動しているという「成"幸"者」は、かなり少ないように感じます。
たとえ表向きは精力的に幸福そうに見えても、実は一種の「むなしさ」を密かに抱えている人もいるんですね。
なぜ地獄の中でも幸福を絶やさず生きられるのか?
なお、やや個人的なことではありますが、なんで私がこのタイミングでこの本にすごく共感したかというと、
「人間は、たとえどんな苦しい境遇であっても、幸福に生きられる可能性を秘めている」
ということを学びたかったからです。
というのも、ブログでは詳しいことは言いませんが、今の「コロナ禍による社会の不安定化」をいろんな報道を通じて観ていると、心理的に鬱屈しそうになることがあるんですね。
それは何も私だけじゃなく、これをお読みのあなたもそうでしょう。
すでにご存知の通り、具体的な打開策を何も示せない緊急事態宣言の乱発や、補償の乏しい自粛要請による飲食店を中心とした経済的打撃によって、世の中はますます暗くなるばかり。
その中で「貧すれば鈍する」という言葉の通り、日本全体が精神的に少しずつ荒んできているのが、私は職業柄「波動(いわば全体の空気感)」として感じられてくるので、それがしんどいんですね。
外側に「幸福」を求めてもなかなか得られない状況に陥っている中、もちろん社会や政治の力も大事ではあるけど、個人レベルにおいては、すべての根源である「心」や「魂」というものを、もう一度、深く見つめ直すべきではないか。
という問題意識を持っているとき、この本と縁があったわけです。
個人的に感動した部分を引用しましょう。
過酷な経験を長期間味わったにも関わらず、思いやりやあたたかさを失わなかった人物の言葉。
内面的な生活を体験したなら、(アウシュビッツ)収容所の塀の外側にいようが内側にいようが、一向にへこたれることはない。私は、既に数千の強制収容所で数千回の死を心の中で経験している。私の心はすべてを知っている。どのように新しい情報も、もはや私を苦しめることはない。それでも、この人生は美しいと感じられるし、あらゆる瞬間が意義深いものと思える。あらゆる瞬間がそうである。
スゴい言葉です。
あなたはこれを「偉人だからできること」「徳の高い人にしかできないこと」だと思うでしょうか?
実は、私は、
「もちろんすぐにはできないだろうけど、自分にもきっとできるはずだ」
と思ったんです。
おそらくリカールさんの素晴らしい波動と、それが込められた「言葉の力」によって、「あ、もしかしたらオレにもできるかもしれへん」と思わせたんでしょう(好んで強制収容所に行きたいとは思いませんが!)。
上に引用した「内面的な生活」を深めていくことが、本書が繰り返し論じている「幸福」です。
ただ、それは決して精神論ではなく、「具体的な実践方法」によって深めていくことができると述べているわけです(追ってご紹介しますね)。
もしあなたも「マジスピ」(真のスピリチュアル)に惹かれている部分があるとすれば、先ほどの「電光石火のような幸福」もあっていいけど、それ以上に「内面的な平和を持続する」ということが、「本当のスピリチュアルを生きる」ということではないでしょうか。
ただ、それを生きるには、まず「あこがれ」を抱くことが必要です。
つまり、上で引用した「魂の美しい人物」に敬意を持ち、「自分もそうありたい」と深く思えるかどうか。
スピリチュアルな世界で言う「ワンネス」的な感覚というのは、言い換えれば「分離感がない」ということです。
ここでは「あの人はそもそも徳の高い人であって、自分みたいな凡人には無理な話だ」と考えてしまうことが、ワンネスから遠い「分離感」なんです。
もちろんそれなりの年齢かつスポーツ未経験で「自分はオリンピック選手になるのは無理だ」と思うのは、肉体の限界を実感してのことだから、そこに「分離感」はありません。
あくまでこれは「精神の世界」の話ですからね。
人間の世界におけるワンネス的な感覚の始まりとは、実は「あこがれ」の感情です。
もし、優れた人物に対して「あこがれ」を抱くことができたら、その人物の中の素晴らしい特質は、実はあなたの中にも秘されている。
もし尊敬する相手の特質があなたの中にも秘されていなければ、「あこがれ」を抱くことは、絶対にできない。
その「あこがれ」の対象がイーロン・マスクであるなら、あなたは実業の才能が隠れている可能性があります。
私の「あこがれ」は今はリカールさんなので、きっと私には「宗教的・霊的な幸福」を追窮できる可能性を持っていることになります(だから「スピリチュアル屋」なんでしょうけど)。
スピリチュアル業界の言葉というのは、とかく抽象的にフワッとなりがちです。
それは「ワンネス」という言葉もそう。
他にもいろんな表現はありますが、ここでは「あこがれはワンネスの始まり」と、より具体的に理解しておくと良いでしょう。
「引き寄せ瞑想」「願望実現の瞑想」を超えた真の瞑想とは?
リカールさんには真の幸福を得るために欠かせないのは
「瞑想」
であると述べています。
これが先ほど少し触れた「内面的な生活」を深めるための「具体的な実践方法」です。
(私が毎週メルマガ読者さんにむけて無料で行っている「グループヒーリング」も、瞑想のひとつです)
あなたが瞑想の習慣がなければ、少しハードルが高く感じられるかもしれませんね。
でも、さまざな瞑想法はあるけれど、その本質は極めてシンプルです。
「どこまでも、自分自身を、静かに、深く、見つめていくこと」
これです、これ。
まぁ瞑想を実践すると最初は雑念が湧きまくりなので、なかなかすぐ上手になれるわけではありませんが、続けていればだんだん上達してきますよ。
実は、スピリチュアル業界で言われている言葉で、個人的にとても違和感を覚える表現があります。
それは、
「引き寄せ瞑想」
「願いを叶える瞑想法」
といった類のタイトル本です。
もうね、担当編集者は誰やねん、誰がこんなタイトルつけたんじゃ、と言いたくなる(笑)
まぁこういうタイトルじゃないと、なかなか売れないんでしょうね。
気持ちはわかるんですけど、これは本質(マジスピ)ではない。
リカールさんもおっしゃっています。
人によって瞑想は、快楽の醍醐味を一つ一つ味わいながら、一瞬一瞬を激しく生きる生き方に繋がることがある。あるいは、家族、社会的成功、レジャー、またはささやかながら苦しみのない人生、等々の目標達成の手段にする場合もある。残念ながら、こうした願望達成の瞑想はどれも未完成に終わる。
これは私の解釈ですが、上で「目標達成の手段」と述べていることから、何か瞑想というものを「イメージトレーニング」だと捉えているのかもしれませんね。
確かに瞑想には「意識を集中する」というプロセスもあるので、この部分だけ切り出せば、「願望達成のイメージング」の強化として、瞑想が使われることはあります。
この部分が「引き寄せ瞑想」や「願いを叶える瞑想法」などのキーワードが業界に横たわっている一因でしょう。
ただし、「集中」はあくまで瞑想の「一部」や「初級過程」に過ぎない。
いや、むしろ、本来の瞑想は「快楽」や「目標」を生み出している観念の、「さらなる根っこ」まで見つめることにある。
それは「内側の宇宙」と言って良いでしょう。
リカールさんが素晴らしいのは、それをちゃんと表現してくださっているところ。
この先まで内観を進め、心の奥深くまで入り込むと、最も本質的な願望を見つけることができるだろう。それは、すべての人間のこころの底に横たわるものであり、人生を慈しむ気持ちを強化するに十分な満足感となる。端的にいえば、「自分と他者の人生が、あらゆる瞬間で叡智、生気そして心の平和で満たされたい」という願望である。
いやーホンマに感動するわ。
「最も本質的な願望」とは、仏教的な表現を用いれば「心願」と言えます。
あるいは、これは造語かもしれないけど「真願」、さらには「神願」とまで言えるでしょう。
内観を深めて深めて深めて、「自我」の最果てまで入り込むことによって、「大我」(心願/真願/神願)にまで至る。
そこでは「快楽」や「目標」など「自我」をベースとした想いは、露のように消えていく。
本来の瞑想は、そこを目指す・・・いや、「目指す」ことも一つの目標になるため、それすらも手放すもの。
そういった心の世界は「すへての人間のこころの底に横たわるものであり、人生を慈しむ気持ちを強化する」わけです。
自分と他者の人生、それは「いのち」であり「世界」です。
それらを心から慈しむ気持ちを深く抱くことが、アウシュビッツのような地獄においてもなお「幸福」を絶やさずに生きる、最も深い心得となります。
・・・文章を作りながら「ホンマにおまえにできるんか?」というセルフツッコミが入る。
まぁ、そうカンタンにできないことは、もちろんわかっていますよ。
ただ、アウシュビッツほどの絶望的な地獄でなくとも、今のコロナ禍においてなら、多少とも「人生を慈しむ気持ち」を抱くことはできるんじゃないかと思います。
もちろん飲食店を中心に、いま経済的苦境に陥っている方に、こういうことを安易に言うことはできません。
ただ、波動レベルで言えば、今のコロナ禍は地球人類全体の波動レベルが、ある意味では「引き寄せた」もの(ブログではあまり触れないけど、コロナ禍は現実レベルでは「引き起こされた」ものです)。
苦しい状況であるほど、逆に「本質」に目を向ける人が増えるのは、私の周囲ですら見られること。
なので、こういうときだからこそ、改めて「人間として本当に大切なこと」を見直してみませんか? ということを言いたいですね。
いつもより少し難しい内容になったかもしれませんが、取り上げている本が「本質」を問うてくるものなので、やっぱりイージーには語れません。
今回の後半は瞑想について少しだけ触れました。
次回はまたこの本を取り上げ、もう少し瞑想の心構えについて説明したいと思います。
本の情報は以下です。
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『Happiness幸福の探求―人生で最も大切な技術』(マチウ・リカール著)
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メルマガは次回で、138回目です。
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1:「波動の良い本」のご紹介(約12,000字)
2:「波動を高めるモノ・コト」のご紹介(約17,000字)
3:「波動を高める食事」のご紹介(約21,000字)
4:「グループヒーリング」を受けられる権利(週1回)
5:キャンペーンや、無料 or 格安モニターを先行でご案内
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