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「宇宙におまかせ」の究極は神仏とのスピリチュアルな結婚を通じ感謝と歓喜が燃え上がること【山崎弁栄】

お名前だけで人やモノのオーラ(波動)がわかる、波動カウンセラーの林 昭裕です(「詳しい自己紹介はこちら」)。

【マジスピ】(真のスピリチュアル・脱お花畑スピリチュアル)をテーマに情報発信しています。

前回は近代日本の卓越した宗教家である山崎弁栄(やまざきべんねい)を簡単に紹介したので、今回は彼の他の著作から教えをご紹介し、マジスピ(真のスピリチュアル)に役立つことができたらと思います。

このtブログで引用するのは『人生の帰趣』(岩波文庫)という著作です。

ここから言葉を引用し、それに対して僭越ながらスピリチュアル的な解説をしたいと思います。

前回も述べましたが、私はいかなる宗教団体にも所属していません。

山崎弁栄は「ひたすら南無阿弥陀仏を念仏すること」が実践の中心である浄土宗の宗教家ですが、私は浄土宗に深いわけではありません。

ただ私は「スピリチュアル屋」として宗教全般に関心がありますし、宗教とスピリチュアルは兄弟姉妹のようなものなので、中立的な立場でご紹介できたらと思います。

実際読んでみるとかなり面白いんですよね、この本。

前回のブログで述べた通り、山崎弁栄の言葉は単にイチ宗教の浄土宗に留まらないユニバーサルなものを宿しているので、スピリチュアルの学びとしても全然アリです。

なお100年以上前に書かれた文章ですから、現代人からすれば古文っぽくて読みにくいでしょうね。

ただ100年前といってもつい最近のことですし同じ「日本人」の言葉なので、最低限の解説はするものの、細やかな文意は感性で感じ取っていただければと思います。

エゴがあるからこそ悟りがあり、愚かだからこそ神仏に愛される【人生の帰趣】

神と如来は宇宙大霊体の代表的人格現にして即ち大霊である。人は宇宙の一分子にて小霊である。大霊と小霊と合一する処(ところ)また小霊が大霊の恩寵に依(よ)って開発霊化せられて闇と悩(なやみ)と罪の状態より明と安と善とに復活せらるるにあり。

読みづらいとは思いますが、なんとなく意味はお分かりではないでしょうか。

山崎弁栄は「神 “と” 如来」という表現で、浄土宗の信仰の対象である「阿弥陀如来」と「神」を同列のものとして置いています。

いや、それどころかさらに一歩進め、阿弥陀如来を「宇宙根源の大霊・大神」とする大信念を持っています。

スピリチュアルな文脈だと「宇宙神」とか「一なる存在」とか「サムシング・グレート」とか、呼び方は人それぞれですけど、ともかく如来を「大いなる存在」と位置づけているわけです。

これを情緒的に言うと「ミオヤ(御親)」、いわば「魂の大親様」と読んでおり、『人生の帰趣』には「ミオヤ」という表現がたくさん出てきます。

私たちは幼児の頃、母親の乳を本能的に求めた。

母乳なくして、生きることはできなかった。

そのように、いわば「霊的な本能」として、人は神(ミオヤ)を求める。

霊的な親がミオヤであり、ミオヤは私たち「子」らをいつも深く深く愛しているのだから、「闇と悩と罪の状態」に苦しむ私たちは、南無阿弥陀仏の念仏でミオヤの「乳」(尽きることのない無限の愛、無限の光、無限の力)を求めるのだ。

そのとき、私たちは真の救いに預かり、仏の子としての生命が溢れ出すのだ。

・・・という感じで、山崎弁栄は庶民が理解できる表現で、神=如来の慈悲を全国行脚して死ぬまで説き続けたようです。

そのミオヤは「大霊」であり、私たち人間は「小霊」であると。

これはキリスト教で言うところの「父と子」の関係に極めて近いですね。

また、前回も述べましたがスピリチュアル的には「大我」と「小我」の関係に対比されます。

だから山崎弁栄が説いた教えは、浄土宗の一派を超えたユニバーサルなものなのですよ。

なお、こんなこと言うと浄土宗の信者さんからは怒られるかもしれませんが、個人的には「南無阿弥陀仏」だけでなく「南無妙法蓮華経」など他宗教の言葉でもいいだろうし、前にこのブログでもご紹介した「世界平和の祈り」でもいいし、念仏とは性格がかなり異なる禅でもいいでしょうね。

それぞれの人が縁によって与えられた方法で、「根源(ミオヤ)」を見出す営みを続ければいいと思います。

「念仏だけが最も素晴らしいのだ!」と固定化してしまうと、宗教性から最も遠い対立や衝突が始まりますからね。

あまり原理主義的にならず、それぞれの立場を尊重していきましょう。

個人的には宗教的なバイアスがあまりなく、誰でも簡単に理解できる「世界平和の祈り」がいいなとは思いますけど、別に他にも素晴らしい教えはたくさんあるので。

では、そんな如来=大霊=神に合一するにはどうすればいいのかというと、

南無(なむ)と云うは仏教にて自己は罪悪苦悩の凡夫、自己の力にては解脱も成仏もできぬ者なればこれを救済して下さる自己の信ずる神尊に対して我全生命を捧げて信頼する至心(まごころ)を表わす言であります。今は我らが一切の神明に超えて最尊たる、大慈悲の父なる阿弥陀尊に対して己が全生命を献(ささ)げて救度(すくい)を請求(おねがい)する至心を表わして南無阿弥陀仏と云うのである。

「南無」というのはスピリチュアルでよく言われる【おまかせ】という意味です。

神仏と合一するには「南無」が必要なのだと。

けれども山崎弁栄の意図しているのは、「おまかせ」という油断すると軽くなりがちなニュアンスではなく、「全生命を献げる」という非常にアグレッシブな態度ですね。

スピ業界では「宇宙におまかせっ♪」なんて軽いノリで言われることが少なくないですが、真の信仰、真のスピリチュアル(マジスピ)としては、そんな安っぽいもんじゃねーんだよということです。

真に「おまかせ」するというのは全身全霊であり、その表現がここでは「南無阿弥陀仏」という魂の叫びとなり、そこには「ミオヤ」の大いなる愛に恋い焦がれて仕方ない激情が伴っている。

浄土宗(法然が開祖)や浄土真宗(親鸞が開祖)は「他力宗」なんて言われますけど、山崎弁栄の言葉を聞くと「これ、本当は自力じゃねーの?」とツッコみたくなるぐらい強烈なる信心を必要とするのですね。

突き詰めると、自力なのか他力なのか?という二項対立ではなく、他力宗も突き詰めれば自力的になるし、禅や日蓮宗のような自力宗も突き詰めれば他力的になっていくわけです。

とはいえ私たち凡人からすれば、そう簡単に目には見えない「阿弥陀如来」を信じられませんわね。

私がときどき言っている「守護霊」「守護神」もそうで、ホンマにいるなら出てこいや!と疑いたくなるような気持ちになるのは普通のこと。

それに対して山崎弁栄はどう言っているかというと、

如来は慈悲のミオヤと聞き、ミオヤは我等衆生の迷子を愍(あわれ)み南無阿弥陀仏と我が名を呼び我れを頼めと恰(あたか)も初めて産れし児が未だ母の面(かお)だに見ることは出来ぬけれどもただ啼(な)く声を便りに乳房を哺(ふく)ましむるように我等が未だ如来の慈悲の温顔は瞻(み)えぬけれどもただただミオヤの慕(した)しさに一向(いっこう)御名(みな)を呼ぶ時は漸々(ぜんぜん)に信心増長して縦令(たとえ)尊顔を拝むには至らざるも頓(やが)てミオヤに親みて現にここに在(い)ますことを信ずることを得。経(つね)に如来の威神功徳(いしんくどく)を聞きて日夜に称念(しょうねん)して至心不断なれば、光明に遭うことを得て三垢(さんく:貪りと怒りと嘆き)消滅し歓喜湧踊(かんぎゆやく)して善心生ずと。

現代人からすれば難しい表現ですけど、英語よりはマシでしょ。

簡単に言えば、生まれたばかりの赤ちゃんはまだ目が見えないけど、お腹が空いて泣けば母親が飛んできてお乳をくれる。

一方、オッサンやオバサンになった私たちは、肉の目は見えても「魂の目」はまだ開いていない。

だから如来の尊いお顔を拝見することができない。

でも純粋に「南無阿弥陀仏」とミオヤ(如来)を呼び続けていれば、そのお顔はまだ見えないけれど、確かにここにおられることをだんだん感ずることができるようになってくる。

そして、その「ミオヤのお乳=光明」を与えられているうちに、この世における苦しみやいつか消え去り、心から湧いてくる歓喜のうちに生きることができるのだ、と。

だから第一に「信心」を必要とするわけですが、私たちはついつい「本当に阿弥陀如来なんか存在するのか?」と疑ってしまうわけです。

だからこそ、山崎弁栄のような(過去にはお釈迦様やイエスやムハンマドや法然のような)高潔なる人格を備えたと聞く「神様・仏様のお使い」が「こうすればあなたも救われるんだよ」とそれぞれの天命や個性に従って教えを説いたわけですね。

神様仏様といっても、それを伝導するのはやっぱり人なのであり、もっと言えば人格の力ですね。

で、実際に「南無阿弥陀仏」を唱え続けているうちに本当に苦悩が少なくなったり人格が向上したりする人(浄土宗の世界では例えば「妙好人」と言われる人たち)が出てきていることから、「南無阿弥陀仏という言葉には本当に有り難い力があるらしい」と信じる人が広がり、今があるわけです。

(とはいえ浄土宗・浄土真宗の中には修行や奉仕を放棄し、檀家に甘えて贅沢な暮らしをしているクソ坊主もいますが)

言葉についてスピリチュアル業界で言えば、過去にこのブログで述べたことがある「天国言葉」です。

うれしい、たのしい、しあわせ、ありがとう、などのプラスの言葉を徹底的に唱え続けることによって、浄土宗とは角度は違うものの、不平不満や苦悩が減ったり、それで余裕が出てきて人格も円満になったりするわけです(でも注意点もあるから上のブログもよかったら読んでくださいね)。

なので、守護霊や守護神がいるかどうかは科学的にはまだ証明できないけれど、それを信じて歩む人とそうでない人とでは運命が大きく変わるとしたなら、やっぱり信じた方がいいんじゃね?という話になりませんか。

たとえ百歩譲ってそれが完全なる「思い込み」だとしても、「おかげさまのこころ」を持って、どんなことがあっても「これも神仏のお導きだな」と信じて深い感謝の念を抱ける人間は尊敬に値しませんか?

こんな地味なブログを読んでいただいているあなたなら、「そうだそうだ!」とブンブン頭を縦に振ることでしょう(笑)

では、ちょっと長くなりますがもう少しだけ引用して締めくくります。

神聖なる如来は心の奥宮(おくみや)に光明赫々(かっかく)と輝けり。大慈悲の弥陀は慈悲の面を注ぎて永(とこし)えに向かい給えり。赫々たる威神(いしん)の前には自から正粛ならざるを得ぬ。愛々たる慈愛の温容を想えば心の悩もまたは怒も和らぎて平和と歓喜とに満されん。かく如来が常に心の妻(=妻とはここではあなた自身)にかかる時は、自己の精神生活も理想も高尚になり向上の光明をも得るに至らん。これ聖霊なる如来との結婚、これ彼が齎(もた)らし来る持参財産なり。

阿弥陀如来の大光明と一生を添い遂げるほどの熱烈たる想いを持って「結婚」すれば、悩みも怒りも少なくなり、平和と歓喜に満たされる。

この部分も「おまかせ」という安っぽい “放置プレー” ではなく、キリスト教のシスターのように神と大恋愛大結婚するほどの誓いを抱くことを説いています。

それがもたらす「財産」は、この世のどのような金銀財宝にも代え難いのだと。

・・・めっちゃ激しいパッションでしょ?

当時、山崎弁栄が同じ浄土門から異端視されていたのはちょっとわかる気がしますね。

あともう一つだけ。

私共の煩悩の炭に、弥陀大悲の火が燃えゆく時は忽(たちま)ちに心が一変して心の色が紅蓮華(ぐれんげ)の如くになる。されば経(つね)に念仏する者は人中の妙好人最も美しき蓮花と誉たまう。念仏して弥陀の大悲が我らの胸中に燃えつく時は有がたさと歓喜とがカンカンと燃えあがり、実に歓喜踊躍(かんぎゆやく)の状態と為りて燃ゆる心念の能力である。[中略] 然(しか)して見れば我等が煩悩の炭が有ればこそ如来の御慈悲が燃えつきて、如来の恩寵を現わす機会と為るものとすれば、我等が煩悩とて決して捨つるべきものでなくただ慈悲の光を得て慈光の燃ゆる心念と為ればよいと信じます。

(大悲=衆生の苦しみを救わずにはいられない、仏・菩薩の限りなく深い慈悲のこころ)

常に念仏すること、祈ることによって、阿弥陀如来=神のエネルギーが自分の魂を満たすとき、有り難さと歓喜とがカンカンに燃え上がる。

仏教では「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい:煩悩があるからこそ悟りがある)」と言われる通り、人間はエゴや悪しきカルマなどの煩悩=真っ黒な炭をたくさん抱えているからこそ、神仏の聖なる炎(弥陀の大悲)を点火し燃焼させることができるのだ。

これはとっても大切な人間の逆説でして、エゴやカルマがあるからこそ悟りや覚醒というものがあり、欠点や弱さがあればこそ神仏はこのわたしを限りなく愛するのだ、ということなんですね。

ただし人間の側は「こんなに愚かな私は、神仏から愛されるわけがない」という罪悪感を抱えていることがあり、ここに神と人間との大恋愛大結婚がマッチングしない原因の一つがあります。

そのトラップを超え、その限りなき愛に、私たちが遠慮なく、強く激しくひたむきに甘え切ることができたとき、「有り難さと歓喜とがカンカンに燃え上がる」わけです。

なんだか生々しいでしょ?

でも本当に生きた宗教、生きたスピリチュアルというのは、実はこういうことなんですよ。

自分でも驚くぐらい喜びが湧いてくる世界。

なんか知らんけど、なんだか肚の底から「神仏の笑い声」が聞こえてくる世界。

このますます腐りゆく現象世界、強欲とカルマにまみれた娑婆の世界にいながらにして、こういう心境に到れるとしたら、それは決して自分の力ではありません。

山崎弁栄はその大いなる力を、おそらく誰よりもリアリティあるものとして感じていたのでしょう。

他の文章でも「如来とは最も遠くして最も近き存在なり」といった言葉がありました。

これこそ真の宗教であり真のスピリチュアルなんですね。

単に形式だけで念仏を唱えたり祈ったり瞑想したりする世界ではなく、神仏は、大いなる存在は、いまここにおいて、今の私たちの内側において、生き生きと働いておられる。

そういうのを理屈抜きで感じられるようになると、何かと面倒なことが多い現象世界も力強く生きられるようになるわけです。

こういうのは、神仏の実在を強く信じ、実践を積み上げていった者にしかわからない世界でしょうね。

理屈っぽい自分が言うのもなんですが、理屈で考えている限り絶対わからんですよ。

とはいえ「さあ修行するぞ修行するぞ修行するぞ!」なんて言うとどこかのカルトになってしまうので、それぞれが自分ができる範囲で、こういう世界を求めていけたらいいですね。

ちなみに山崎弁栄のこうした宗教哲学を「光明主義」と呼ぶようですが、この「光明」とは何なのか、今回の拙いブログから少しでも感じ取っていただけたらいいなと思います。

なお、今回のブログはあくまで部外者である私の解釈ですから、光明主義を深く追窮されておられる方からすれば「それは間違いだ」「浅い解釈だな」とお叱りを受けるかもしれません。

ただ今回は山崎弁栄という近代日本の卓越した宗教家を「正しく解釈する」というよりまだご存知でない方にご紹介するのが目的なので、もし「このお方は!」と意気に感ずるものがおありなら、他にもいろいろな文献がありますし、彼の「光明主義」について学ぶ勉強会もあるようなので、検索して調べてみてください。

あ、念のため言っておきますが、別に浄土宗の信者になれと言っているんじゃないですからね。

ひたすら念仏する生き方があなたの精神生活の向上にしっくり来るのであればどうぞ、といったところであります。

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