- 「引き寄せの法則」を【言霊】として観たとき、波動は低い。なぜなら「自己中心的なエゴ」がついて回るから。
- 心が満たされていればエゴが少ないので、「引き寄せ」から「与える」生き方へシフトできる。それが真のスピリチュアル。
- 「引き寄せの法則」を実践しても良いが、その願望に怖れ(エゴ)がないかどうか、注意深く自己観察することが大事。
スピリチュアルカウンセラーの林 昭裕です。
人やモノの波動(オーラ)がわかる特殊能力をベースに活動しており、ここでは【マジスピ】(真のスピリチュアル・脱お花畑スピリチュアル)をテーマに情報発信しています。
前回のブログでは、「引き寄せの法則」でよく語られる「ワクワク感情」の落とし穴について述べました。
今回はこの続きとして、別の切り口で考えていきます。
目次
悲報:「引き寄せの法則」の波動はかなり低い
私は人やモノの「名前」から、その波動(オーラ・エネルギー)を観ることができます。
つまり「言葉から波動を感じ取る」ことができるのですが、さらに「言葉そのものの波動」を感じることもできます。
スピリチュアル方面では言葉を「言霊」と言う通り、「言葉そのもの」にはエネルギーがあります。
例えば、
・「ありがとう」という言葉そのものの波動は〈良い〉
・「ばかやろう」という言葉そのものの波動は〈悪い〉
これはあなたも直感的にわかるでしょう。
スピリチュアル業界で有名な「水からの伝言」の観察実験では、以下の写真の通り「ありがとう」と「バカ」とでは、結晶のカタチが全然違いますね。
これを踏まえた上で、「引き寄せの法則」という言葉そのものの波動を観ると、実は「あまり良くない」ことがわかります。
上の写真の「愛・感謝」のように、真実に近い言葉や表現であればあるほど、水の結晶としては「美しい」し、波動としては「光り輝いている」のです。
他にも「信」や「義」や「誠」など、先人が心の指針として大切にしてきた言葉は特に波動が良い。
これらの波動の良い言葉からすれば、「引き寄せの法則」は比較にならないほど波動が良くない。
それは前回のブログでお伝えした通り、「引き寄せの法則」には "エゴイスティックな欲望を実現させたい" っという人間の思惑が混入してしまうからです。
"引き寄せ実践者" の中に波動(オーラ)が暗く重たい人がいるのは、このためです。
こういう人は「運気を上げたい」と思っているにもかかわらず、動機がエゴなので逆効果になってしまうのです。
もちろん、中には「純粋な動機から湧き起こる願望を引き寄せたい」という思っている方もおられるでしょう。
しかし、もしそれが純粋な動機であるなら、その中心にあるのは「貢献」や「献身」ではないでしょうか。
それは簡潔に言えば「与える」ということであり、実は「引き寄せ」とは真逆のベクトルなのです。
与える対象は「他者」や「社会」である一方、引き寄せる対象はどこまでいっても「自分」です。
「友人のAさんに引き寄せたらいいな」なんて願いは、普通は持たないですよね。
なので、どれだけ純粋な動機から来る願望であろうと、「引き寄せ」という言葉を使った瞬間、それは「自己中心的」になってしまうのです。
これが「引き寄せの法則」の言葉そのものの波動があまり良くない理由です。
個人的にまともだと感じるスピ系の人でも、「引き寄せ」というワードを無自覚に使っているのを見ると、もったいないなと思いますね。
残念ですが、「引き寄せの法則」は【宇宙の法則】と言えるほど高尚なものではありません。
そして、本当は「法則」でも何でもありません。
世の中には願望を引き寄せる「少数者」と、なかなか引き寄せられない「その他大勢」がいます。
願望の引き寄せ、夢の実現ができるのは常に「少数者」だからこそ、価値がある。
この価値は「誰でも確実に再現できる願望実現法はあり得ない」ことによってもたらされていますが、そうであれば引き寄せはとうてい「法則」とは言えません。
それでも強引に「法則」と名付けることによって、失敗したくない人、ラクして成功したいという欲望を持っている人にとっては「精神的なお守り」になるのかもしれません。
私としては「マーケティングに踊らされている」としか思えませんが・・・
「引き寄せ」から「与える」生き方へのシフト
引き寄せの法則の解説の中には、「巧妙な表現」をしているものがあります。
例えば以下のようなもの。
「『引き寄せたい願望』を手放して、別に引き寄せが起ころうが起こるまいがどっちでもいいや、ぐらいの気持ちになったとき、本当に引き寄せられるのです」
この手の説明、ときどき見かけますね。
私がこれに賛同しないのは、
「エゴを手放すフリをしているつもりが、実は手放せていないことが大半だから」
です。
もちろん理想は、心の底から「どっちでもいいや」と思えることです。
けれど、「引き寄せの法則」というワードに共鳴するほど欲深い人間が、そもそも「どっちでもいいや」と思えるほど欲望と距離を置けるでしょうか?
無理に決まってるでしょ(笑)
欲望を手放せるほど心がけの良い人間なら、すでに述べた通り「引き寄せ」ではなく「与える」生き方をしているはずです。
私としては、上の理屈は "引き寄せ論者" の「反論処理」としか思えません。
つまり、「引き寄せを実践しているのにうまくいかないじゃねーか!」というアンチコメントに対する「アンチ潰し」ということです。
そもそも法則じゃないのに「法則」だと言い張るから、無理な理屈が出てしまう。
ただ、それで「そうか!『どっちでもいいや』と思ったら引き寄せられるんだ!」と励まされる「スピリチュアル情報弱者」もいるでしょうから、この種のレトリック(巧みな言い回し)はなくならないでしょうね。
本当に心が満たされている人は、「引き寄せたい」とは思いません。
何らかの欠乏感、不足感、劣等感を持っている人が、「引き寄せたい」そして「埋め合わせたい」という思いに駆られるのです。
しかし、それはスピリチュアリティ(霊性)を尊ぶあり方ではありません。
スピリチュアリティの自覚とは、「魂はすでに満たされている」そして「必要なものはすでに与えられている」という自覚なのです。
それがあればこそ、「別に引き寄せが起ころうが起こるまいがどっちでもいいや」という気持ちが "自然と" 湧いてくる。
その自覚なく、「別に引き寄せが起ころうが起こるまいがどっちでもいいや」と表面的にポーズを取ったところで、どうにもなりませんよ。
「引き寄せ」以前に、自分の内側に満たされないエゴが蠢(うごめ)いていることに気づくことこそ、スピリチュアルな実践の第一歩なのです。
別に引き寄せを実践しても構わないのですけど、その一方で己の中にある不足感、欠乏感、劣等感、つまり「怖れ」に注意深く気づくことができれば、やがて自己中心的な「引き寄せ」から他者貢献的な「与える」生き方へとシフトすることができるようになります。
もっとも、与える生き方へシフトすることは簡単ではありません。
いつも自己中心的な欲望と葛藤しながら、それでも「自己を超えて」与える生き方をしたいと祈り続けるしかありません。
私も日々葛藤しながら、ついエゴに流されそうな自分を戒めて生きています。
でも、それこそが「引き寄せ」を超えた真のスピリチュアル(マジスピ)としての生き方なのです。
- 「引き寄せの法則」を【言霊】として観たとき、波動は低い。なぜなら「自己中心的なエゴ」がついて回るから。
- 心が満たされていればエゴが少ないので、「引き寄せ」から「与える」生き方へシフトできる。それが真のスピリチュアル。
- 「引き寄せの法則」を実践しても良いが、その願望に怖れ(エゴ)がないかどうか、注意深く自己観察することが大事。