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目次
今回の要点と要約文
今回の要点
- 祈りとは「小さなエゴ」(自己中心性)を「大きなエゴ」(聖なる野心)へと育てていくためになされるもの。
- 「大きなエゴ」を抱えた悪人が反省して改心/回心すると、中途半端な「小さな善人」より進化のスピードがずっと早い。
- 他力に頼む祈りが強烈になると「なんとしてでも絶対叶える!」という〈自力の祈り〉に変容し、自力では絶対叶えられなさそうな大きな願望を抱くほど〈他力の祈り〉が生まれてゆく【自力と他力の循環】
※要点はショート動画でも語っています
■魂の力とは「人事を尽くして天命を待つ」祈りの深さで決まる■
前回、祈りには二種類あって「~が叶いますように」という〈お願い型〉と、「~はすでに叶っている/叶いつつある/叶った」という〈断定型〉があるとお伝えしました。
伝統・新興問わず大半の宗教は〈お願い型〉です。
一方、現代の成功哲学・自己啓発・スピ系の引き寄せは、圧倒的に〈断定型〉を好む。
というのは〈断定型〉は良く言えば主体性があり、悪く言えばエゴイズムだからです。
神仏・宇宙が主役の〈お願い型〉より自分が主役の〈断定型〉の方が、野心のある人間にとってはやり甲斐があるわけです。
前回は伝統的かつエゴの混入しにくい〈お願い型〉を推奨していましたが、それからいろいろ考えた結果、新たに次のような考えを思いつきました。
たとえ〈お願い型〉の祈りであっても、是が非でも成就させたい悲願であれば、「何としてでも絶対に叶えるぞ!」という〈断定型〉にまで深まっていく。
また、たとえ〈断定型〉の祈りであっても、その内容が大きければ大きいほど、結局は「天・地・人」という他力を得なければ叶わない。
そうでれば〈他力型〉もまた突き詰めれば〈お願い型〉に変容していく。
このように〈お願い型〉と〈断定型〉は決して対立するものではなく、「陰極まれば陽、陽極まれば陰」という相互作用の関係、動的平衡の関係にあるわけです。
ちょうど「人事を尽くして天命を待つ」とは、「人事を尽くす」〈断定型〉と「天命を待つ」〈お願い型〉が融合・統合された姿だと改めて認識させられ、深いなぁとしみじみ感じました。
どちらのルートにせよ、小さなエゴを超えて、天をも衝くほどの大きな祈りであることが前提条件です。
小さなエゴで〈お願い型〉の祈りをするのは、これが前回言った弱い「他力本願」の祈りです。
また小さなエゴで〈断定型〉の祈りをするのは、自分だけの成功や安泰しか考えない器の小さな人間のやることです。
この「小さなエゴ」というのが、意外と厄介なんですね。
「小さな善人」と言ってもいいですが、こういう人は悪人ではないんだけど自分の小さな幸せしか考えないから、オーラとしてはあまり強くも大きくもないんです。
大きく不幸にもならない代わりに、大きく成長もしない。
人生がこの世限りの存在ならそれでも良いかもしれませんが、ところがスピリチュアル的にはあの世もあるどころか、この世の生はほんの断片に過ぎない。
その視点からすれば「小さな善人は、大して感動のない人生」ということで、決して上等とは言えないわけです。
一方「大きなエゴ」を持ったいわゆる "悪人" の方が、いろいろ痛みや困難もあるだろうけど、大きく美しく成長できる可能性も多く持っています。
最初は野心バリバリでも、いろいろ人生経験を積んで反省して浄化されていくと、大きくてキレイなオーラになる。
こういう人の方が、結局は「大きな善人」になるわけです。
だからエゴというのは捨てず(そもそも捨てられませんが)、むしろ大きく育てていくということが、スピリチュアルな成長・成熟にとっては大切なことですね。
要点・要約文を読んで、あとは動画でご覧になりたければ以下からどうぞ。
祈りはエゴ的な願望実現ではなく、大きな目的に挑戦するために行うもの
今回は前回に続き、祈りについて考えていきたいと思います。
前回のタイトルは「本当に願いを叶えたいなら、エゴを手放して本気で祈ること」でした。
今回はその続きとして「宇宙が味方する祈り方」について、さらに考えていきたいと思います。
まず前回は、祈りには二種類あるというお話をしました。
一つ目は〈お願い型〉の祈りです。
これは「~でありますように」「~が叶いますように」という形ですね。
伝統・新興を問わず宗教的な祈りの大半はこの〈お願い型〉になります。
そして二つ目が〈断定型〉の祈りです。
これは「~はもう叶っている!(現在形)」「~は叶いつつある!(現在進行形)」「~は叶った!(過去形)」と強く念ずるやり方です。
現代の成功哲学、自己啓発、スピ系の引き寄せでは、この〈断定型〉の方が人気があります。
なぜなら、〈断定型〉の方が「自分がやっている感じ」が得られるからです。
人生の主役は自分であり、自分の力で夢や願望を実現するんだ、という考えの方がやり甲斐が感じられる。
「自己実現」とはこういうこと。
自分が主役・主演・主人公、自分がスポットライトを浴びる、自分が賞賛を受ける、そういう自分がヒーロー or ヒロイン・シンデレラという価値観です。
一方〈お願い型〉の祈りは、自力ではなく他力にゆだねるわけだから、主役は自分ではなく「神仏・宇宙」です。
これは「自己実現したい人たち」からすれば、自分が主人公じゃないから物足りないし、「叶いますように」だなんてなんて弱気・弱腰なんだろう、と思うかもしれません。
これを悪い意味での「他力本願」だと言う人もいますが、本当はそうじゃないんだよということは前回説明した通りなので、よければチェックしてみてください。
前回と合わせて今回をご覧いただくと、より理解が深まりますよ。
では今回も、AIが作った資料をもとに進めていきたいと思います。
では、一枚目のスライドです。

「夢の主役は本当に自分なのか」というのは何回か前にもお話ししました。
肉体そして自我を持って生きている以上、人生の主役は「自分」だと思いがちです。
けれども真のスピリチュアルという観点からは、本当は夢こそが主役であって、自分は「夢が宿る器」に過ぎません。
ですから、もし私たちがある夢を抱いて歩み、道半ばで諦めたり斃れたりした場合、その夢はいわば「スピリット」として、同じような意欲を燃やしてくれる「器」へと移っていきます。
私たちができることは、大きな夢を受け取れるだけの「器」を準備しておくことだけ。
先ほどお話しした〈お願い型〉の祈りは、このような謙虚な立場から生まれます。
だから私は前回、原則としてはエゴの混入しにくい〈お願い型〉の祈りをオススメしたわけです。
ただ、前回の配信から改めて考えていくと、一歩進んだ新しいアイデアが浮かんできました。
それについては、今回の最後のセクションでお伝えしたいと思います。

次のスライドでは、「小さなエゴ」と「大きなエゴ」について書かれています。
これも何回か前に語った内容の振り返りプラスアルファです。
例えば、自己啓発や成功哲学で言うところの大きな野心や野望は「大きなエゴ」に当たります。
生まれ持ってエネルギーが強い人、あるいは強い欠乏感やコンプレックスを抱えている人は大きなエゴを持ちやすい傾向がある。
そのエネルギーで突き進み、実際に社会的に成功する人もいるわけです。
「大きなエゴ」を持つ人にとっては、自分が主体的になる〈断定型〉の祈りの方を好みます。
以前紹介した成功哲学の元祖・ジョセフ・マーフィーはエゴイスティックな〈断定型〉の祈りを積極的に推奨する側面がありました(野心を持つ人にはウケて、それが今も続いている)。
一方「小さなエゴ」の人は、そうした大きな野心をなかなか持てない人です。
人を押しのけてでも成功してやろう、という気持ちを持ちにくい。
ただしここで言いたいのは、もともと小さなエゴの人も〈祈り〉の行を通じて「清らかで大きなエゴ」へと自分の波動を成長しなければならないということです。
というのも、小さなエゴは意外と厄介だからです。
一見すると謙虚に見えるのですが、実は結構タチが悪い自己中心性を隠し持っています。
例えば、
「自分が生活できればそれでいい」
「自分の家族さえ幸せであればそれでいい」
神社では「家内安全」や「商売繁盛」しか祈らない。
こうしたお願い事は「自分の半径5メートル以内」に限られているので、これは小さなエゴなんです。
こうした人は、社会への実害はあまりないですが、同時に人間としての成長はほとんど見込めない。
スピ系で言えば、「覚醒」や「目覚め」といった言葉もこの小さなエゴに含まれます。
意外に思われたかもしれませんが、その理由はこれもまた「自分の幸せ」を中心に考えているからです。
私はあまり見ませんが、YouTubeなどでスピ系の動画のタイトルを眺めていると、「覚醒した人の特徴」といったものをよく見かけます。
そういうのを少し注意して見れば、すぐわかりますよ。
大半が「自己完結」していて、「自分の悟り」しか考えていない。
だから、これもまたれっきとした「小さなエゴ」なんですよ。
もちろん大きなエゴの多くは野心バリバリの自己中心性があるので、重苦しいエネルギーです。
エネルギー自体は強いけれど、高い品性や品格までは伴っていないことが多い。
ただしエネルギーが大きいぶん社会にインパクトを与えるという点では、小さな自分のカラを超えた部分はあるわけです。
剥き出しの大きなエゴとは重油のようなドロドロしたエネルギーですが、それを精製して浄化するプロセスを辿れば、クリーンかつ大きいエネルギーとして活用することができるようになります。
それが「聖なる野心」という表現になるわけです。
どうせ祈るのであれば、私たちは小さなエゴから大きなエゴへ、さらに「聖なる野心」へと高めなければなりません。
小さなエゴのまま、自分の小さな幸せのみを求めて祈るというのは、エゴイズムを肯定したままなので波動としてはあまり大した器にはなれません。
というか、厳しく見れば、それは決して祈りではないんです。
「自分さえ良ければええねん!バリバリ儲けたろうやないかい!」というドロドロした熱量を、「本当に世のため人のためになることを、ガンガン働いて実現させていくぞ!」という感じで、クリーンで大きなエネルギーへと転化/点火させていくことが真の祈りです。
この目的を間違えると、いくら「祈ったフリ」をしたところで、大してモノにはなれません。
ところが困ったことに、宗教団体やスピ系ではあまりこういうことは教えない。
なぜなら、それらの大半はエゴイズムを肯定し、小さなエゴである「現世利益」の獲得を推奨する。
そうでもしなければ、人がなかなか集まってこないし、お布施も減ってしまうからね。
なので、私は宗教は好きですが、宗教団体に入る気は一切ないわけです。
魂の進化が最も遅いのは、悪人でなく「小さな善人」

では次のスライドにいきます。
さっき少し触れましたが「主役は夢であって、私はあくまで夢を容れる〈器〉である」という謙虚さが肝心です。
いま〈器〉という言葉を使いましたけれども、謙虚さとは「空っぽの器」に例えられることがあります。
つまり、エゴを横に置いている状態ですね。
「オレがオレの力で夢を実現させるんだぜ!」という傲慢さがない状態です。
こうして空っぽになると、そこに宇宙エネルギーがドンドン入ってきます。
これをスピリチュアル的には「明け渡し」と言ったり、「サレンダー」という横文字を使ったりしますね。
単なる放置プレーではなく、自我を手放して神様の胸に飛び込んでいくということです。
ただし、ここで注意しないといけないのは
「小さなエゴの人は〈器〉自体が小さいので、いくら明け渡しても宇宙エネルギーはあまり入ってこない」
ということです。
小さなエゴのまま、
「自分さえ良けりゃいい」
「家族さえ幸せでありさえすりゃいい」
「つつましく、無事平穏に過ごせりゃいい」
というあり方は、小さなエゴです。
さっき述べた通り、現代社会はこれらを特別悪いものと思っていませんが、"波動的にはショボい" ので魂としては罪悪なんです。
でもその規模が小さいし、社会に害毒を与えようという魂胆もないから、その罪悪性があまり感じられない。
これが「小さなエゴ」の厄介なところよ。
「小さなエゴ」のまま、いくら祈りや瞑想をカタチだけで10年、20年、30年と続けていても、まぁ何もやらんよりはマシだろうが、波動(オーラ)はあまり光り輝かないんですよ。
けれども、この世では「ただ続けているだけ」でも結構褒められてしまうので、知らず知らずのうちに自己満足してしまうわけですな。
〈お願い型〉の祈りで、表面的には「神仏・宇宙が主役」のようでいながら、実は「こんなに祈れるオレってエラいでしょ?」と、密かに「自分こそが主役」になっちゃってない?
だからYouTube・Podcastでは言わなかったけど、こういう人は魂の進化が最も遅い。
それだったら、まだ「大きなエゴ」を持った悪いヤツの方が「オレは間違っていた!」と明確に反省できるから、実はこっちの方が魂の進化が早いんです。
面白いことに「悪人の方が、実は善人に近い」んですよ。
こういう話をすると、「小さなエゴ」の人(その多くは社会的には「いい人」)はショックを受けるかもしれませんが、そう、ショックを受けなければならんのです。
いくら「いつも世界平和を祈っています」とか「瞑想したり良い言霊を唱えています」とか言ったところで、ホンネでは「自分の幸せしか考えていない」んじゃ、器が小さくなるのは論理的にも必然なんですよ。
だから思いっきりショックを受け、「小さなエゴ」の殻が壊れてしまえばいい。
自分は神仏なるものを自己都合で利用してきた「小さな善人」なんだと、思い知ればいい。


この2枚のスライドは、これまでの復習になります。
本当の祈り、本当の夢、本当の理想であれば、自分一代では達成できません。
一代で達成しようとするのは、たとえ「世界平和の実現」であっても野心であり欲望です。
最近のショート動画で「"死後の世界" をちゃんと見据えた方がいい」という話をしました。
自分の意識を「今生の人生」だけに限定しているのか。
それとも、自分の死後の世界(死後の地上世界&あの世・霊界)まで見据えているのか。
この視野の長さ・広さ・深さもまた、先ほど述べた〈器〉の大きさを決めます。
「"今生の人生" だけがすべてじゃないんだ」と本当にわかるほど、「小さなエゴ」を脱するからです。

では次のスライドです。
「新しい強さ:消えることで強くなる」と書いてありますが、この「消える」というのは「エゴが消える」ということです。
(正確には「エゴを横に置く」「エゴと距離を取る」ということです)
何度か述べた通り、「主役はあくまで神仏・宇宙である」という立場に立つことです。
〈お願い型〉の祈りを行うメリットは、エゴと距離が置けるようになること。
エゴと距離が置けるようになるほど、、この世とも距離を置けるようになります。
例えば、成功しようが失敗しようが構わない、人にどう思われるかなんて気にしない、という状態が作れるようになります。
これは相当強いですよね。
〈お願い型〉の祈りをずっと積み重ねていくと、主役であるところの神仏・宇宙から「守られている」という感覚が深まっていきます。
「神様が見守ってくださっている」という思いは深い安心感を生みますし、この世における多少の不幸にも動じにくくなります。
なので、前回は〈お祈り型〉と〈断定型〉だったら、〈お願い型〉の方がいいですよとお伝えしたわけです。
ただ、次のセクションではさらにアップデートされた祈りの見解を述べていきます。
「天命を信ずる」からこそ「人事を尽くす」ことができる

ここから前回からのアップデートとして、もう一歩先の話をしていきます。
このスライドの「結果を決めつけず」というのは「自分でコントロールをしないこと」であり、これが〈お願い型〉の祈りの姿勢です。
宿命や運命は自分で決められるものではないことから「ゆだねる」という〈お願い型〉の祈りが生まれます。
前回は〈断定型〉の祈りはエゴイズムが混入しやすいから、積極的にはオススメしませんでした。
けれども、前回の配信からいろいろ考える中で「さらに奥があるな」と思い至りました。

このスライドの左側が〈お願い型〉、右側が〈断定型〉です。
前回はこれらを二項対立的に捉えていました。
しかしよく考えてみると、〈お願い型〉の「~でありますように」「~が叶いますように」という祈りは、「どうしても絶対に叶えていただきたい!」という悲願のレベルにまで高まると「絶対叶う!」という〈断定型〉に変容してゆくんですね。
受験の合格祈願がわかりやすいでしょうが、単なるお願いではなく「どうしても合格させてほしい!」という強い思いになれば、心の中では「絶対合格!必勝!」といった〈断定型〉的な祈りが生まれているはずです。
一方、〈断定型〉の「~はすでに叶っている!」「もう達成した!」という祈りは、その願望の難易度が高ければ高いほど自力では叶えられないので、自然と "神仏のご加護" を頼む〈お願い型〉に変容してゆくわけです。
「素敵なパートナーと出会いたい!」と頭の中では "すでに叶ったもの" として強く思い描いた上で、さらに縁結びの神社に参拝する例がわかりやすいのではないでしょうか。
いくら自力で強烈に思い描いたとしても、時が熟さなければ良き縁はやってこない。
「縁」とは「他力のたまもの」だと、私たちはどこかでわかっているんですね。

このスライドの通り、まさに〈陰極まれば陽・陽極まれば陰〉ということです。
面白いですね。
私はいつも手探りでコンテンツを考えているので、これに気づいたときは頭の中が一気にクリアになった感じがしました。
ただし、いま述べていることは「大きなエゴ」をクリアにする努力を積み重ねる人にしか当てはまりません。
小さなエゴの人は〈お願い型〉も〈断定型〉も極められないので、どちらにしても大してモノにはならない。
「大は小を兼ねる」と言われる通り、自分の「小さなエゴ」を超えた大きな祈りを持たなければ、その成就に勢いがついてこないんです。
以前から述べている「聖なる野心」とは、「これは絶対に叶えたい!」という大きな欲望を抱きながらも、それを「他力にゆだねる謙虚さ」も同時に持っている状態のことです。
〈お願い型〉と〈断定型〉の祈りは対立するものではなく、絶えず往復しながら、螺旋的に発展してゆくものなんです。
大きなエゴを持っている者だけが、この運動に参加することができます。
最初はバリバリの野心でも構わないでしょう。
若い時に「生意気」だと言われるぐらいで、ちょうど良いのかもしれませんね。
そこからたくさん失敗し反省しエゴをクリアにし、しかし大きな願望を抱き続けることは諦めず、「聖なる野心」にまで育てていけるかどうか。
祈りとは「清らかで大きなエゴ」を自分の内に育み、それを地上世界に実現しようと神仏に誓うこと。
ですから、自分の半径5メートルの小さな幸せのためだけに祈ることは、本来は祈りではなく「小さなエゴによる小さな欲望」です。
それは「良いことをしているように見えるからこそ、実は最もタチが悪い」と知らねばなりません。
この最もタチの悪い想念行為を、多くの宗教およびスピリチュアルは、むしろ推奨しているという有り様です。

自己啓発・成功哲学では「強い心に描いたことは、必ず実現する」と言われます。
これは主に自助努力、自力の世界ですね。
ただし、最終的にそれが本当に成就するかどうかは、その願望が大きいほど、天・地・人、とりわけ天の采配にゆだねられます。
したがって、心のなかでは「必ずできる!」と強く信じながらも、一方で運命はどうなるかわからないから「ゆだねる」ことが求められる。
注意点として、「ゆだねたら、必ずうまくいく」という言い方は実は都合の良い自力の世界であって、これは "最終的には失敗する可能性" も多分に含んでいることを忘れてはなりません。
失敗する可能性も覚悟して、それでもなお「ゆだねる」わけです。
この相反する、矛盾する想念を同時に抱え込む力こそ「魂の力」なんです。
「矛盾を抱え込む」というのは、わかりやすく言えば「苦しむ」ということです。
だってそうでしょう、どうなるかわからない人生の道を「自分はこうしたい!」と思い定め、道なき道を突き進んでいくことは、苦悩以外の何ものでもない。
しかし、だからこそ「成功は約束されていない。しかし、成長は約束されている」わけです。
私たち「真のスピリチュアル」を実践する者にとって最も大切なのは、この世の成功や引き寄せではなく、魂の成長です。
そのために、私たちは小さなエゴを超えて大きな願望を心に抱き、その実現に向けて地上で地道な実践を積み重ねていく。
これこそ「祈り」に他なりません。

これを昔からの言葉で言えば「人事を尽くして天命を待つ」ということです。
前半の「人事を尽くす」は〈断定型〉の祈りそのもの。
「私はこれを実現するための懸命な努力を惜しまない!」という決意です。
しかし、それが最終的に実現するかどうかはわからない。
ゆえに、我々は「天命を待つ」のだ。
この後半は〈お願い型〉の祈りです。
「天命を待つ」とは「天命を信ずる」と同義であり、我々は「天命を信ずる」がゆえに「人事を尽くす」ことができます。
でも〈断定型〉と〈お願い型〉の祈りが融合すれば必ず成功する、なんていう考えは「お花畑」そのものですよ。
そういう安全や保証を求めるのは「小さなエゴ」の小賢しさだと知らねばならない。
すでに述べた通り、「小さなエゴ」を抱えたままでは、本当に祈ることはできない。
成功してもしなくても、天命を待ちながら日々の実践に励むことが、祈りなんです。
今生で天命が動かず道半ばで斃れたなら、許されるならば来世でも同じことに挑戦し、何としてでも実現させることを誓うのが、この世を超えた「大きなエゴ」による「大きな祈り」だということです。
改めて、今回の要点
- 祈りとは「小さなエゴ」(自己中心性)を「大きなエゴ」(聖なる野心)へと育てていくためになされるもの。
- 「大きなエゴ」を抱えた悪人が反省して改心/回心すると、中途半端な「小さな善人」より進化のスピードがずっと早い。
- 他力に頼む祈りが強烈になると「なんとしてでも絶対叶える!」という〈自力の祈り〉に変容し、自力では絶対叶えられなさそうな大きな願望を抱くほど〈他力の祈り〉が生まれてゆく【自力と他力の循環】
なお、YouTube(Podcast)は今回の文字起こし編集でカットした部分があります。
今回も動画と文字起こしは少し内容が変わります。
なので動画(または音声)もご視聴いただけると、より理解が深まるかと思います。
※この下に「音声プレーヤー」があります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。






