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第344回:スピ系の”言霊”が心を救わない理由。神なき時代の「本当の自分」の探し方。

※ウェブサイト『マジスピ』には音声の文字起こし(読みやすく加筆修正済)があります。

■YouTubeではメモ、資料、スライドなどを映していますが、音声プラットフォームの「ながら聞き」でも十分ご理解いただけると思います。

ウェブサイトでは最下部に音声プレーヤーがあります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。

■ご感想・ご質問は『アンケートフォーム』からどうぞ
https://x.gd/Mp7Lg

今回の要点と要約文

今回の要点

  • スピ系や自己啓発が「うさんくさい」と感じるのは、本当は答えのない人生の問いに対し、表面的にはキレイだが安直な答えで慰めようとしてくるから。
  • スピ系・自己啓発は「大量消費社会」が生んだ、エゴイズムを肯定し現世で成功するための宗教であり幸福マニュアルである。
  • 「私とは何か?」という不毛な問いを、「何が私を形成しているのか?」という問いに変えることで、自己中心の病から脱することができる。

※要点は以下のショート動画でも語っています

今回の要約文

■スピ系の"言霊"が心を救わない理由。神なき時代の「本当の自分」の探し方。■

今回は、加藤有希子さんの著書『カラーセラピーと高度消費社会の進行』を題材に、「なぜ現代のスピリチュアルは心を救わないのか」という本質的な問いを考察しました。

現代のスピリチュアルや自己啓発の多くは、私たちが本来抱えるべき「答えのない実存的な問い」を、安直でインスタントな回答にすり替えてしまうシステムと化しています。

それは、物やサービスを次々と消費させることで成り立つグローバリズム経済や、高度消費社会にとって非常に都合が良い構造です。

たとえばファッションの世界で、タイトなシルエットが流行ればそれを買い、流行が終わればまだ着られる服を捨ててワイドなシルエットに乗り換える。

このように、ビジネス側が作り出したニーズに深く考えず乗っかってくれる「浅い消費者」こそが、今の社会を回すエンジンになっているからです。

この消費の論理がスピリチュアルにも持ち込まれ、「幸せ」や「運気」までもがマニュアル化された商品として売られています。

「これを買えば幸せになれる」「このワークを機械的に繰り返せば引き寄せが起きる」といった手法は、一時の安らぎをもたらす麻酔のようなものです。

しかし、そうした甘美な言葉には人生の重みがなく、結果として私たちの魂を浅く、脆弱なものにしてしまいます。

特に注意すべきは「スピリチュアル・マテリアリズム(精神的物質主義)」という罠です。

「思考は現実化する」という法則は一見ポジティブですが、うまくいかないときに「あなたの思い方が足りないせいだ」という自己嫌悪や自己否定の道へと人々を引きずり込みます。

成功者が一握りである以上、この論理は必然的に多くの「失敗者」を生み出し、また新しい「新時代の引き寄せ」という看板を書き換えただけの商品を消費させるループを生んでいるのです。

かつての日本では、共同体や宗教、あるいは戦争や疫病といった「大きな物語」が、個人の生きる意味をある程度規定してくれていました。

しかし、個人主義が進み、自由が増大した現代においては、何を選んでどう生きるかという責任のすべてが個人に重くのしかかっています。

SNSのアルゴリズムや他者の評価が可視化される中で、自己はむしろ矮小化し、自由という名の不安に精神が耐えられなくなっているのが現状です。

精神科医ヴィクトール・フランクルは、「人生に何を期待できるか」を問うのではなく、「人生から何を期待されているか」を問うことへの転換を提唱しました。

自分を世界の中心に置き、自分を満たすことばかりを考える「自己中心性」こそが、現代特有の神経症的な苦しみを生み出しているからです。

真のスピリチュアルとは、苦悩を排除することではなく、他者や世界との関係性、つまり「縁起」の中で、自分ができることを問い続け、実践していくプロセスに他なりません。

「私とは誰か」という、自分を切り離して考える不可能な問いを一度手放し、他者のために、あるいは世界のために何ができるのかという視点を持つこと。

そこには安直な慰めはありませんが、他者との繋がりを回復し、不完全な自分を受け入れながら、現在進行形の物語を紡いでいく「強さ」が宿ります。

大切な家族や友人が亡くなり、自分だけが生き残ってしまったというような、答えのない問いを背負って生きる人たちに、安直な答えは通用しません。

それでもなお、人生が自分に何を問いかけているのかを忍耐強く考え続けることこそが、本質的な霊性への道です。

消費されるだけの浅薄なスピリチュアルを脱却し、痛みとともに世界と向き合うとき、私たちは初めて本質的な意味での「救い」に触れることができるのです。

要点・要約文を読んで、あとは動画でご覧になりたければ以下からどうぞ。


スピ系・自己啓発が「うさんくさい」と感じてしまう根本的な理由

今回は、ある本のブックレビューをします。

最近シリーズで語っている、スピリチュアル、自己啓発、成功哲学、そのテーマに沿った本です。

本のタイトルは『カラーセラピーと高度消費社会の信仰』

サブタイトルは「ニューエイジ、スピリチュアル、自己啓発とは何か」という本ですね。

(ここで言われている「カラーセラピー」とは『オーラソーマ』のこと。私も過去にセッションを受けたことがあります)

著者は加藤有希子さんという方で、2015年の著作です。

特にこの本をおすすめしているわけではありません。

研究者が一般の方に向けて書いた本です。

ご専門は美術史のようですが、この本は「社会心理学」ぐらいのカテゴリーですね。

スピ系の本ではないのでご注意ください。

もし自己啓発やスピリチュアルが生まれる社会的背景について考察したい人は、検索してみてください。

本題に入る前に前回、第343回目『祈りとは苦悩の世界で苦悩を超えるための霊的技法』は、難しい、分からない、なんとなく分かるけれど意味は理解できない、でもとても大切なことを言っている気がするという、視聴者からの反応が多かったです。

今回の内容にも通じるんですけど、私がいつも提案しているのは「これさえすれば良くなる、救われる、運気が上がる、金運が上がる」といったインスタントな内容ではありません。

普通のスピリチュアルやセラピーというのは「苦痛や苦悩を取り除く」という方向に行きます。

それがビジネスにもなるわけですが、ここで語っていることは、そのほぼ逆。

つまり「苦悩を無くす」んじゃなくて、それに真正面から突撃して乗り越えていくんだと。

これをいつも「真のスピリチュアル」と説明しているわけですが、これは現代の風潮からはなかなか受け入れられにくいんですね。

しかし、これが本質であればこそ、私は粘り強く提案し続けているわけです。

今回は「本質的な言葉がなかなか届かない」社会構造について、ご紹介した本の内容をもとに考えたいと思います。

ではスライドの1枚目です。

「浅薄さの正体――なぜスピリチュアルは心を救わないのか?」というテーマです。

サブタイトルの「慰めという名の麻酔について」というのは、AIがつけたんですがかなり辛辣ですね。

ま、その通りなんですが。

スライド2枚目です。

ここに「甘美な嘘のギャラリー」と書いていますね。

スピリチュアル系の本やコンテンツ、動画などを見ていると、こういった言葉が多用されます。

「すべて大丈夫です、心配しないで」

「幸せになろう。あなたは幸せになっていい」

「すべては自分を知ることから始まる」

「出会いには必ず何か目的がある」

「人生に間違いは一つもない」

「すべてのことに意味がある」

「必要なら助けはいつでもやってくる」

「すべては必然なんだよ」

(スライドの一部に文字化けがあります。言葉が軽いゆえでしょうか・・・)

こういう「スピ系の言葉」に、どこか「軽さ」を感じてしまうのは否めない。

本書には実名でスピ業界の有名な人の言葉が取り上げられていました。

実際、そういったスピ系の本を読んでみると、実に言葉が軽く、行間から重さを感じない。

私は人や物のオーラ(波動)を観る人間なので、実際の波動も軽いわけです。

今回は「なぜそんなに言葉が軽いんだろう?」ということを考えていきます。

次のスライドには、「問いのすり替えシステムとしての現代のスピリチュアル」という内容。

これはシリーズで述べてきた「自己啓発・成功哲学」も含まれます。

ここに「実存的な問い」という言葉があります。

ちょっと難しい言葉ですが、私がよく使っている表現でいけば「答えのない問い」ですね。

「自分はどう生きるべきか?」という人生の本質に迫るような問いであるほど、安直な答えなどありません。

例えば卑近な受験を考えてもそうです。

A大学、B大学、C大学、それぞれ比較検討しても、究極的にどれが最も自分に向いているかということは、まだ大学に行く前の自己確立していない段階ではわかりません。

限られた情報しかない中で、自分に本当に合っている道を選択することは、その時点ではかなり難しいと言わざるを得ない。

配信日の数日前、たまたま大学生としゃべる機会があって、人生について少し語り合いました。

(自分もいつの間にかオッサンになったなぁ・・・と感じました)

彼らは漠然とした人生の計画はあるけれども、人工知能はじめ、社会の構造がどんどん変わっている。

その中で本当に自分のやりたいこと、合っていることを見出すのは難しいということですね。

これは当然です。

後にも言いますが、個人主義の現代において、選択肢の幅が昔に比べて圧倒的に増えてしまった。

そんな社会においては、以前よりなお「人生の正解」がわからないわけです。

なので、試行錯誤して、歩きながら走りながら考えていくという姿勢が必要になります。

ただ、それは同時に「不安を抱える」ということでもありますよね。

「もしかしたら自分の歩みが間違っているかもしれない」という問いを、常に抱えるということになる。

こういうのも「実存的な問い」になります。

ただ、現代の自己啓発や普通のスピリチュアルは、本来は「答えのない問い」を、「答えがある問い」に簡単にすり替えてしまう。

例えば、占いで「あなたはこっちの方向に行った方がいいですよ」という答え。

あるいは『過去世リーディング』や『守護霊リーディング』などで、「あなたの守護霊はこっちの道に行った方がいいと言っていますよ」と、答え(っぽいこと)を言う。

「答えのない問い」に対して、安直な回答を与えてしまう。

それが本当に正しいかはわからないのだけど、とりあえず「過去世はこれなんだ」「守護霊はそう言っているんだ」ということで、自分を慰めてしまうわけですね。

これを「問いのすり替えシステム」と著者は指摘しています。

(なお、私も『過去世リーディング』『守護霊リーディング』はやっていますが、安易に答えを言うことはありません。提供するのは、あくまで考えるヒントです)

ところがインターネットや人工知能がいくら発達しようが、この「実存的な問い」が消えることはありません。

いくら「答えらしきもの」があろうと、最終的に決断して歩むのは自分であるし、そこにはもちろん自己責任が伴います。

「自由」が大きければ大きくなるほど責任も重たくなっていくので、一概に素晴らしいわけではない。

その広大な自由に対する責任の重たさに、ヤワな精神は耐えられない。

だから「安直な答え」で手を打とうとする。

その安直さは、現代の浅薄な自己啓発やスピリチュアルにピッタリ。

確かに「答え」が与えられると ある種の幸福感をもたらすわけですが、しかしそれと引き換えに「人生の偉大な謎」が省かれてしまう。

それによって「苦悩をなくす方向」に進むわけですが、まさにそのことによって言葉が軽くなってしまう。

まともに生きている人なら、この世に苦悩があるのは当たり前のことです。

でも、その苦悩を乗り越えて、私たちは成長・成熟してゆくのも当たり前の原理です。

スピ系・自己啓発は”大量消費社会”の欲望を肯定する宗教である

しかし、精神が浅薄になった方が、今のグローバリズム経済、高度な消費社会、大量消費社会にとっては都合がいい。

この資本主義がどんどん成長していくためには、どんどん物やサービスを購入してもらった方がいいわけですね。

例えばファッションは目まぐるしく移り変わるトレンドに合わせて、まだ着れる服は簡単に捨てて、ホイホイ買い替えてもらった方がいい。

スマホも手元にある機種はまだまだ使えるけど、最新バージョンにホイホイ乗り換えてもらった方がいい。

この「お金で何でも買える」延長線上に、例えば「幸せを買う」「運気を買う」「引き寄せを買う」「幸福を買う」という消費のスタイルがあり、この受け皿が現代の自己啓発、成功哲学であり、スピリチュアルだと。

そこでは何らかの幸福メソッドやマニュアルを提供する。

「これさえやれば幸せになりますよ」と。

例えば、「ありがとう、ありがとう、ありがとう」と、心を込めなくても単に機械的に繰り返していれば、「ありがたいことが起きますよ」というメソッド。

(※これはウソを多く含んでいるんですが、今日の本題ではないのでまた別の機会に)

誰でも簡単にラクして実行できるマニュアルを作り、告知し、販売する。

これはスピリチュアルの本来の意味であるところの「精神性」や「霊性」ではなく、「物質的幸福」を担保する "モノ" として流通し、消費されていく。

だから "普通のスピリチュアル" の正体は「マテリアル(物質)」なんです。

しかし、伝統的な宗教は力を失い、私たちは「何のために生きるのか」という問いを失ってしまったこの現代社会において、スピリチュアルや自己啓発はまさにエゴイズムを追求する「消費者のための宗教」になってしまっています。

この「商品としてのスピリチュアル」の背景思想は、本書では「スピリチュアル・マテリアリズム」と書いていました。

日本語で言えば「精神的な物質主義」です。

これはあなたもご存知の「引き寄せほ法則」「思考は現実化する」というやつ。

この「スピリチュアル・マテリアリズム」は今も広く流通されていて、「これで人生を変えられる」なんて吹聴しているわけですが、しかしこれは全く優しくないんです。

なぜなら、もしこのメソッドを使ってもうまくいかないなら、「それはあなたの考え方、思い方に間違いがあったからだ」「雑念があったからだ」「あなたの潜在意識には否定的な観念があるからだ」という冷酷で反論不可能な自己責任論に持っていくからです。

本来は人生を豊かにするはずの考え方やポジティブシンキングが、「思いが足りない自分はダメなんだ」という自己嫌悪への道になってしまう。

しかし、考えてみてください。

いわゆるこの世で社会的に成功する人というのは、一握りなわけですね。

もし社会的、物質的、経済的な成功が人間の「目指すべき目標」だとすると(本当はそうじゃないけど)、嫌な言い方だけど、ほとんどの人は失敗者、敗北者、負け犬ということになってしまう。

冷静に考えれば、成否を分けるのは理性を超えた「運」の要素もあるのに、自力的な自己責任論の中で、単純に勝者と敗者に分けられてしまう。

これこそ今回のタイトル通り「浅薄」と言わずして何と言うのでしょうか。

ただ、人々の飽くなきエゴのニーズを汲み取って、浅薄な成功哲学やスピリチュアルは、今度は「今までのポジティブシンキングではうまくいかなかったあなたへ」と、装いを新しく変えた「新時代の引き寄せの法則」というのを爆誕させ、それをまた消費社会にリリースする。

スピ系だと「5次元」とか「7次元」とか「11次元」とかの "最新の引き寄せの法則" って、こりゃもうiPhoneの最新機種のリリースと何も変わらへんがな。

このように、スピリチュアルや自己啓発は「誰もがお金で購入できる幸福マニュアル」というモノ・サービスとして消費されていくわけです。

その背景にあるのは「ラクして成功したい」思いや「宗教なき時代に何かに縋りたい」思いなわけです。

先週述べたような「大きな理想」や「崇高な祈り」が持てなくなると、目先の家内安全、健康第一、商売繁盛に向かうようになるのは必然のこと。

その背景にあるのは「エゴに根ざした怖れ」です。

それがある限り「スピリチュアル・マテリアリズム」は、今後も手を変え品を変え出されていくでしょうね。

「私とは何か?」という”本当の自分探し”は、地獄へと続く道

次のスライドです。

「『私とは誰か?』という不可能な問い」と書いていますね。

ちょっと真面目なスピリチュアルだと、例えば「自分とは何か」「私の天命とは何か」「自分はどんな役割、使命を持ってこの世に生まれてきたのか」という問いを立てます。

この根底にあるのは「私とは何か?」「私とは誰か?」ということであって、これはちょっと前にあった「自分探し」です。

スピリチュアル業界では「自分探し」の派生型として「覚醒」「目覚め」という言葉がありますが、これも根本には「自分とは何か」という問いがあります。

ところがどっこい、この「私とは何か」「私とは誰か」という問いは、実は "詰んでしまう問い" なんですよ。

なぜなら、私とは本来は不完全だからです。

もっと言うと「私」とは「多面的」であり、一つの固定化した存在ではないんです。

時・所・立場・シチュエーションによって、いろんな「私」が存在します。

別に難しくありません。

今ここでコツコツ文字起こしをしている私は、「スピリチュアルの専門家」として話をしています。

けれども、このあと家族で食事をするときは「家族の一員」となる。

あるときは「夫」であり「息子」であり「先輩」であり「後輩」であり「先生」であり「弟子」である。

あるいは会社では「部長」や「平社員」や「派遣社員」であり、同窓会に行けば今度は「同級生」としての自分がいます。

つまり、「私」は〈他者との関係性〉においてでしか存在しないわけです。

これは何回か前の『第331回:苦悩からの解放――怒りとの付き合い方『ダライ・ラマの仏教入門』より』の中でも言いましたけども、この関係性は「縁起」の最も簡単な説明です。

「私」なくして他者はなく、他者なくして「私」はない。

これを踏まえれば、本来問うべきは「何が私を形成しているのか?」「何が私なのか?」という問いです。

ところがスピ系や自己啓発では、得てして「私とは誰か?」ということで、他者や関係性や社会性を排除した「純粋な私」を問おうとする。

これでは自意識が過剰になってしまうし、人によっては神経症に陥ってしまうでしょう。

その背景にあるのは、実は「自己の肥大化」ではなく「他者の肥大化」だと本書(『カラーセラピーと高度消費社会の信仰』)に書かれていました。

「他者の肥大化」を説明しましょう。

私は毎回の動画・音声配信をカメラで収録をしています。

スマホでも簡単にできてしまいますね。

例の感染症以降、顔認証のカメラがいろんな場所に置かれました。

個人的にアレが「気持ち悪い」と感じているのは、それは「監視社会」の入り口だからです。

ここでは政治の話は控えますが、お隣の某国の「社会信用スコア」はじめ、世界的には監視社会がどんどん進んでいます。

そして、私も細々とやっているSNSやYouTubeの普及。

その中で「いいね」の数や再生回数を通じ、他者の関心や評価が可視化されてしまう。

これらが「他者の肥大化」をもたらしているのと反比例して、実は「自己の矮小化」をもたらしている。

それによって、自分を支える心理的土台が脆弱になってしまった。

昔は国家や共同体が、個人の人生をある程度は規定してくれました。

武士の子は武士になり、農民の子は農民になるのが当然でした。

少し前は戦争のため、善悪抜きにして国民は一丸となりました。

バブル期においては、25歳を過ぎた女性は「(25日の)クリスマスケーキの売れ残り」なんて言われていましたね(今じゃ完全に差別ですが)。

そんな共同体の文化的ルールは自由の束縛である一方、それに則れば疎外感を覚えることなく(村八分にならずに)過ごすことができたわけです。

現代はその多くが溶解してしまったことで、「個人主義」「自由主義」になっていった。

その大きな解放の中で、私たちは「生きる目的」を失っています。

我が日本においても、政治は経済成長や減税を謳って「国民を豊かさにする」意図は持っているわけですが、ではそれはいったい「何のため?」なのでしょうか。

もうおわかりと思いますが、現代は国家も個人も大きな展望を描けない状況にあります。

膨大な選択肢を目の前にして、何をしていいのかわからない。

私たちが精神的に深く生きるには「大きな物語」が必要なんです。

戦後から高度成長期にかけては、とにかく「稼ぎまくる」ことが目的でした。

「カネ」がメインではあったが、働けば働くほど大きな豊かさが得られることは「大きな物語」になったわけです。

物質的な繁栄の中で、多くの人々は「実存的な問い」はあまり考えなくても良くなった。

けれどもそれもない現在、いったい何を信じて生きていけばいいのでしょうか。

・・・ちょっと話が長くなってしまいましたが、現代の自己啓発やスピリチュアルは、「大きな物語」の代替品として "生きる意味" や "生きる物語" を商品として提供しています。

しかしさっきも述べたように、それは「実存的な問いを無くす」方向に誘導するので、魂は脆弱になってしまう。

本来のスピリチュアル【マジスピ】は、「何が私を形成しているのか」「私はどう生きるべきか」ということを、自分に問うヒントを提供するに過ぎません。

私がやっている『過去世リーディング』『守護霊リーディング』、あるいは『禅タロットリーディング』などはみんなこの考え方が背景にあります。

「答えはあなたの中にある」から、それをご一緒に考えましょう、というスタンスです。

ただし「答えがすぐに得られない」というのは、現代のニーズからはズレているわけですね。

私のようなスタンスでは、ボロ儲けは不可能です(笑)

ですから「普通のスピリチュアル屋」はニーズがある=儲かる方に向かうわけですが、それによって「魂はますます救われない」という悪循環を生むわけです。

この悪循環を打ち破るためにこそ、「私とは何か?」ではなく、「何が私を形成しているのか?」を知らねばなりません。

「私」を形成するものこそ、「不動の魂」に他ならないからです。

「不動の魂」とは、「何が私を形成しているのか?」を問い続ける人なら、必ずわかります。

ここで有名な精神科医のヴィクトール・フランクルの言葉を紹介します。

この本(『カラーセラピーと高度消費社会の信仰』)には書かれていなかったんですが、賢いAIが引っ張ってきてくれたので使うことにします。

実際に本書に引用されていたのは「自己中心性、それは神経症特有の性質である」という言葉でした。

自己中心性というのは、文字通り病気(気を病んでいる)だとフランクルは言っているわけです。

けれども、そうではない。

「私とは何か?」という自己中心的な問いではなく、「何が私を形成しているのか?」という問いを深め、他者・社会・世界にベクトルを向けなければならないんです。

フランクルの最も有名であろう言葉、

「あなたは人生に何を期待できるか、それを問うべきではない。あなたは人生から何を期待されているのか。人生があなたに何を問うているのか。それを問うことである」

これをフランクルは「コペルニクス的展開」と言っているのですが、これは「何が私を形成しているのか?」という問いと同じですね。

現代は宗教が力を失い、信仰は弱くなってしまった。

日本においても「お天道様が見ている」という素朴な宗教観を失いつつある。

新興宗教はこの世の現世利益ばっかり考える。

この「神なき時代」において真剣に命を使いたい(=使命)なら、「矮小化された私」を脱却して、他者・社会・世界に再接続する必要があります。

「すべてがカネで買える資本主義」によって、「生きる意味」もカネを通じて得られるといった錯覚を手放さなければなりません。

いくらスピ系の「真我発見セミナー」「天命発見セミナー」に通ったってダメなんですよ。

それは「私とは何か?」という不毛な問いに自分を縛りつけてしまうからです。

(セミナー主催者にとっては、リピーターを生んでくれる有り難いコンテンツになるけど!)

誰かが与える「浅薄な慰め」は捨てないといけません。

スライドには「世界はあなたのためにあるのではない、あなたが世界のためにあるのだ」と書いていますが、これはジョン・F・ケネディの有名な言葉「政治があなたに何をするか、それを期待するな。あなたがこの国のために、政治のために何ができるのか、それを問うべきである」という言葉に通じますね。

スピリチュアルで言われる「ワンネス」とは、「世界は私であり、私は世界である」ということ。

ですから「私とは何か」を本当に問いたいのであれば、本来は「世界との関係性」において問わなければなりません。

ただ、それはアタマでこねくり回して考えるものではなく、実践=身体性が必要不可欠です。

それを最も素朴に言えば、「おかげさまの精神で生きる」ということなんです。

すでに先人の智恵の中に、私たちが「大きな物語」を取り戻すヒントがある。

さっき述べた「お天道様が見ている」というのも同じ。

別に難しくはないんですが、情報過多の中で気づきにくくなっているんですね。

「私」というのは、「私だけ」で成り立っているのではありません。

ですから、生命的な充実感や幸福感を得たいのであれば、自分の生命を世界へと向けなければなりません。

それが前回述べた「半径5メートルの祈り」からの脱却でもあります。

ご参考になれば幸いです。

改めて、今回の要点

  • スピ系や自己啓発が「うさんくさい」と感じるのは、本当は答えのない人生の問いに対し、表面的にはキレイだが安直な答えで慰めようとしてくるから。
  • スピ系・自己啓発は「大量消費社会」が生んだ、エゴイズムを肯定し現世で成功するための宗教であり幸福マニュアルである。
  • 「私とは何か?」という不毛な問いを、「何が私を形成しているのか?」という問いに変えることで、自己中心の病から脱することができる。

なお、YouTube(Podcast)は今回の文字起こし編集でカットした部分があります。

今回も動画と文字起こしは少し内容が変わります。

なので動画(または音声)もご視聴いただけると、より理解が深まるかと思います。

※この下に「音声プレーヤー」があります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。

マジスピラジオ:脱・お花畑の「真のスピリチュアル実践」
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