お名前だけで人やモノのオーラ(波動)がわかる、波動カウンセラーの林 昭裕です(「詳しい自己紹介はこちら」)。
人やモノの波動(オーラ)がわかる特殊能力をベースに活動しており、ここでは【マジスピ】(真のスピリチュアル・脱お花畑スピリチュアル)をテーマに情報発信しています。
今回もまた
「人生の意味」
について考えていきます。
私たちがなかなか「生きる意味が感じられない」のは、もちろん社会情勢が不安定で不確実という側面はあるものの、根本的には制限された価値観の中で生きているからと言えるでしょう。
今回のブログでは、その制限を解消できる物の見方を考えてみます。
目次
罪のカルマは解消しない限り、どこまでも追いかけてくる
ここ数回にわたって「人生の意味」について考えている中、最近の報道で忘れられない、忘れたくない事件があります。
おそらくご存知であろう
「旭川女子中学生いじめ凍死事件」
です。
最近、この事件のことがなかなか脳裏から離れませんでした。
事件の内容については検索すればいくらでも情報が出るので、ここでは省略いたします。
ただ一つだけ、ようやく第三者委員会が「いじめ」と認定したことが報道されたことだけは記しておきます。
とかく、おぞましい。
いくら未成年によるいじめとはいえ、その集団的暴力は度を越したものがある。
そして、もしかしたらそれ以上に怖ろしいのは、大人(学校側)の異常なまでの事なかれ主義、隠蔽体質。
この深刻さは今回のいじめだけに限りませんが、今回は特にひどい内容だったため、胸を痛めておられる方は少なくないはず。
もちろん未成年とはいえ加害の事実は大きな罪、たとえ法の裁きは免れたとしても償いは果たすべきでしょう。
当時の教育現場に関わっていた大人たちは、なおさらのこと。
今回のブログはこの事件を詳細に検討することが目的ではなく、あくまで考えるきっかけです。
なのでこれ以上何か述べる必要はないと思うものの、この事件のことを目にしただけで胸糞悪い方もおられるでしょうから、スピリチュアル的な見解を簡潔に述べると、
「罪は償わない限り、地獄の底まで追いかけてくる」
たとえ最後まで真実を隠蔽できたとしても、たとえこの世では逃げ切れたとしても、完全に逃げ切ることは絶対不可能。
むしろ逃げれば逃げるほど、さらに追いかけてくる。
それが「摂理」というもの。
「嘘をついた者は、地獄で閻魔様に舌を抜かれる」という物語はそのことを象徴しています。
もちろん全く嘘をつかない純潔な人間など一人もいないので、要は程度問題です。
あまり神経質になり過ぎないこと。
その意味で、本当はちゃんと罪を告白し悔い改めた方が、被害者の魂も含めて「真の救い」につながるのですが、なかなかそうはいかないのが現実世界であります。
霊的真理においては「不正直者こそ馬鹿を見る」ということ、改めて押さえておきましょう。
そして、この摂理は別に人間を脅かしているのではなく、「魂の成長」を促進させるための愛の厳しい側面であることも理解しておくこと。
この理解がないと、単に怖れるだけになってしまいますから。
ただし、この事件は内容が内容だけに世間やネットからのバッシングも非常に強く、それを怖れてなかなか告白できない一面もあるのかもしれません。
社会全体としては裁くべきは裁き、赦すべきは赦す、という「清濁併せ呑む」度量も必要かと思います。
わたしもあなたも、もし同じような因縁に投げ込まれたなら、同じような過ちを犯していたかもしれないのですよ。
少なくとも私は、「オレは絶対にそんなひどい加害者にはならない」と断言できる自信は、ありません。
生きる意味を深めるには「自己実現」のレベルを高めること
さて、シビアな問題なので前置きを長くしましたが、ここから本題。
今回は亡くなった彼女の「魂」そして「人生の意味」について考えてみましょう。
報道によれば、彼女は非常に画才に長けた方でした。
もし苛烈ないじめに耐え、心の傷は癒えないまでもそのまま大人になれたとしたら、その才能を発揮できたかもしれません。
その可能性が永遠に絶たれてしまった現在、彼女の人生は、もはや意味がないのでしょうか?
もちろん彼女個人は亡くなってしまったわけですから、唯物的に考えれば「もう意味がない」「意味を奪われてしまった」と言えます。
ただ、今回の一連の報道に対し、正当なる償いを求める声が絶えず、また教育体制の根本的な見直しも求められています。
もし、その無念の想いを晴らそうとする人々が絶えない限り、彼女の短い一生は、いまなお意味を持ち続けるでしょう。
想いを受け継ぐ人がいる限り、その人の肉体生命はすでに無くとも、その精神は生き続けます。
それが、今回のタイトルに込めた
その人の「人生の意味」は、想いを受け継ぐ人が定める。
ということ。
真のスピリチュアル(マジスピ)を生きようと願う私たちは、「人生の意味」を個人レベルに留めないことです。
もし「人生の意味」を個人レベルにだけ留めると、それはまるで賞味期限の切れた生鮮食料品のように、その人の物質的生命の終わりとともに朽ち果てていきます。
現代では「自己実現」という言葉がよく使われます。
経済的、社会的に成功することはもちろん、心から納得できる生き方という精神的な成功まで含め、すべて「自己実現」ですね。
ただ、自己実現という言葉の「自己」ということを、マジスピ的にはもっと拡大した方がいいのです。
そもそも、「自己」とは何か。
これは哲学における永遠の問いですが、ここで難しい思索を展開するつもりはありません。
あくまで実践的なことを述べると、
自己実現すべき「自己」を個人レベルに留めず、家族、社会、世界、果ては宇宙と、より大きな領域にまで広げて捉えた方が、より「大いなる意味」を生きることができる。
ということをお伝えしたいわけです。
そして、「大いなる意味」を生きるのは、本人だけに限りません。
今回の彼女がそうですが、いわば「魂のバトンリレー」を渡すように、誰かが故人の遺志を引き継ぐ限り、彼女の「人生の意味」は決して失われない。
それが最も具体的に体現されているのが、「歴代の天皇陛下」です。
今上陛下(きんじょうへいか:今の天皇陛下)は第126代目でいらっしゃいます。
126代にわたり、日本国、そして世界の弥栄(いやさか)を祈られる天皇の大天命は、正当なるお世継ぎがおられる限り失われることはありません。
私たち臣民レベルにおいても、例えば祖先の想い、歴史上の尊敬する人物の想い、面識はなくとも私淑している人物の想いなど、こちらの意志次第で受け継ぐことができるわけです。
その程度によって、バトンを渡す側も受ける側も、「人生の意味」は広く深くなっていくわけです。
ここで戒めるべきことは、「自分には誰かの想いや志を受け継ぐ資格や能力などない」と決めつけてしまうこと。
これは実は私自身の課題でもあるので自戒を込めて言うと、想いや志を受け継ぐのは資格や能力を問わず、ただ「意志」のみを必要とする、ということです。
ここでテーマになっているのは「人生の意味」についてでした。
「人生の意味」と言うとよく誤解されるのは、その意味は何らかの目標達成や夢の実現によって証明される、という誤解。
つまり、何か社会的に大きなこと、インパクトある何かを実現しない限り、「生きる意味」が実感できない・・・と錯覚する人がいるのです。
場合によっては、これが深い劣等感を生んでしまう・・・
これはあくまで例えばの話ですが、定年後のご老人や、子どもを授からなかった人は「自分はちゃんと社会的責任を果たし切れていないんじゃないか」という思いに囚われ、密かに劣等感を持ってしまうことがあります。
もちろん可能であれば、社会的に意義ある大きなことができればいい。
けれども、みんながみんな、そんな「ビッグなこと」ができるわけではない。
もしこうした達成された何かでもって「人生の意味」を測るとしたら、老化や病気などで活動が制限されている人は、意味の乏しい人生になってしまいます。
ここではそんな限られた範囲のことを言っているのではありません。
「人生の意味」は本質的に定量的(数値化できるもの)ではなく、定性的(数値化できないもの)なのです。
例えば、以前ブログでご紹介した「ガンに冒されたけれど、最期まで感謝の念を懐いて生きた」という方(Kさん)。
もしKさんと直接的なご縁はなかったけれど、この生き方に共感するところがあって、「自分もできるだけ感謝の方面から人生を考えてみよう」と強く思ったなら、たとえ客観的に計測できる目標達成はできていないとしても、「人生の意味」の次元においては見事に成就している。
そして、Kさんの人生の意味も、たとえ肉体はもう無くとも成就していることになります。
もしスピリチュアル業界で言われる「ワンネス(みんなつながっている)」的な生き方をしたいなら、自己実現すべき「自己」を制限せず、「生きる意味」をより深めていく心がけが大切です。
ただし私も含め、こういうことを見聞きしても、「自分なんてそんな大した人間じゃないですよ」と"謙虚"に受け止めがちです。
その"謙虚さ"を超えていくのは簡単なことではありませんが、以下の文章ではそれに役立つヒントをお伝えします。
自分もまた世界の歴史から観て「大河の一滴」という自覚
ここからさらに考えたいのは、もし自分の想いや志を受け継ぐ人がいなければ、その人の生きる意味はなくなってしまうのでしょうか。
現実的なレベルで考えれば、さっきの彼女や、記念碑が立つほどの人物であれば、その想いは後世に受け継がれる部分があります。
また、子どもがおられる方であれば、自分は亡くなってもその遺伝子や想いの一部は受け継がれていきます。
ただ、別に子どもがいるわけでなく、有力者でもなく、誰も思いを受け継ぐことなく孤独のうちに亡くなっていくとしたら、人生の意味もそこで終わってしまうのでしょうか。
例の感染パニック以降、孤独感を抱える人はさらに多くなっている中、「生きる意味」の喪失はより深刻になっています。
そういう方に対してこれから述べる考え方は、スピリチュアル的な物の見方にそれなりの共感がないと理解が難しいかもしれませんが、参考までにお伝えしておきます。
実は「波動」というもの、より具体的には、自分が発した言葉や想念というのは、永遠に残り続けることを覚えておきましょう。
それはちょうど、テープやCDやDVDに音声や映像を残し、それを再生する方法さえあれば、永遠に保存されるようなものです。
もちろんテープやCDやDVDは物質であり、たとえ大切に保管していても少しずつ劣化は進むので、永遠に保存することはできません。
ただ、これはおそらく物理でいう「エネルギー保存の法則」なのでしょうけど、自分の出した波動もまた、宇宙に永遠に残り続けるようです。
先ほど述べたいじめの事件において、加害者の人たちはなるべくなら早いうちに悔い改めた方が良いと述べたのは、「発信した波動は永遠に残る」という法則があるからです。
もしそのことを信じられるのであれば、たとえ天涯孤独の一生だったとしても、仕事やプライベートで誰かに対して親切にした、席をゆずってあげた、落とし物を拾ってあげたなど、たとえ小さな善行だとしても、その「善意の波動」はこの世界に永遠に残るわけです。
たとえ病や加齢などで肉体の自由が制限されたとしても、先ほどのKさんのように「周囲のおかげで今の自分が在る」と感謝を深めていくことや、これまでときどき述べている「世界平和を祈る」ことは、波動レベルで「世界」に能動的に関わる方法なのです。
そうして発信した波動は巡り巡って、自分に必ず還ってくるし、きっと他の誰かが知らず知らずのうちに受け取ってくれることでしょう・・・それは必ずしも今生の人生の中とは限りませんが。
こうして、たとえ極小的な行為であっても「世界」に関わっていくことは、同時に「歴史」に関わっていくことでもあります。
私はあまり歴史に詳しくはないけれど信じているのは、世界の歴史を動かしているのは超少数の有力なリーダーではなく、無数に存在する名もなき人々だということ。
あのナポレオンだって、たった一人では大きな戦果を上げられなかったでしょう。
「時代の寵児」ともてはやされている人物にしても、やはり一人ではほとんど何もできないでしょう。
「感染パニックを利用して世界を支配しようと企む権力者」にしても、多くの大衆を扇動しなければ、その儚い野望を実現することなどできないのです。
その意味において、自分もまた「世界の歴史」という大河の一滴。
もしこのような巨視的なまなざしを持てるなら、「自分の一挙手一投足が、歴史の1ページに足跡を残しているのだ」と、ここから人生の意味が深まってくる。
ただし、こういう考え方は短期的に何らかの結果が得られるものではないため、心から理解するのは難しいと思います。
普通は「自分もまた歴史の大河の一滴である」という大きな視野より先に、「自分は取るに足りない小さな存在だ」という無価値感が先立ってしまうのではないでしょうか。
「自分の出した波動は、いつか見ず知らずの誰かが受け取るだと? ずいぶん気の遠い話だな」と思う人は、決して少なくないでしょう。
これはあくまで霊的価値観の話であって、物質的価値観ではありません。
そのためここで述べていることは、マジなスピリチュアル(霊的真理)に生きたいと願う人たちが生涯をかけて目指すべき「魂のあり方」なのでしょうね。
そう、これは特定の宗教に所属する人でなくとも、どこか「信仰」に近いものがあります。
ですから、「人生の意味」を真に深めていくには、最終的には「神」や「天」というものを相手にしていく必要があるだろうと思います。
後のブログで「天命」について考えを述べる予定ですが、この「天命」もまた、個人レベルを超えた「自己」を実現していく営みに他なりません。
人生の価値を高める人・高めない人の違い
今回もちょっと難しくなりましたが、いかがでしたでしょうか。
今ほど「人生の意味」を実感しにくい時代はありません。
ただ、「それでも人生にイエスと言う」生き方を選び、ちょっとはマシな人生を生きようと願いながら日々を過ごした人のエネルギーは、この地球の歴史の一コマを照らす光となるわけです。
それはほんのささやかな光ではあるけれど、そうして「自分もまた、歴史に参加している」、「自分もまた、地球の大河ドラマの役者の一人である」という意識を深く抱けたなら、人生に新たな意味をもたらしてくれます。
最後に、よく引用される寓話ですが、参考までに「二人の石切り職人」という話をご紹介いたします。
その町では、新しい教会が建設されているところであり、
建設現場では、二人の石切り職人が働いていました。
その仕事に興味を持った旅人は、一人の石切り職人に聞きました。
あなたは、何をしているのですか?
その問いに対して、石切り職人は、不愉快そうな表情を浮かべ、
ぶっきらぼうに答えました。
「このいまいましい石を切るために、悪戦苦闘しているのさ。」
そこで、旅人は、もう一人の石切り職人に、同じことを聞きました。
すると、その石切り職人は、顔を輝かせ、生き生きとした声で、こう答えたのです。
「ええ、いま、私は、多くの人々の心の安らぎの場となる
素晴らしい教会を造っているのです。」
どのような仕事をしているか。
それが、我々の「仕事の価値」を定めるのではありません。
その仕事の彼方に、何を見つめているか。
それが、我々の「仕事の価値」を定めるのです。
この寓話の意味を理解するのは難しくありませんが、これを足下で実践していくのは、決して簡単なことではありません。
やはり「どのような仕事をしているか」でその価値を定めようとするのが一般的な社会通念、というより「圧力」だからです。
なので、二人目の石切り職人のような想いで生きるのは、いま世界に蔓延する虚無主義(ニヒリズム)を乗り越えていく「信仰」や「祈り」、宗教臭い表現が苦手なら「世界や歴史、そして"いのち"に対する深い信」が求められるでしょう。
ここまで考えていくと、真のスピリチュアルは決してお花畑やファンタジーではない困難かつ永遠の道であることがお分かりでしょうが、それだけにこういう価値観に立脚できる生き方には「光が宿る」わけです。
「一隅を照らす、これ国の宝なり」とおっしゃったのは伝教大師・最澄です。
真に「一隅を照らす」には、たとえ実際に照らすのは「一隅(=目の前の務め)」だったとしても、その先に「国(=世界/宇宙)」を見据えておかねばなりません。
それが上の「石切り職人」の寓話が言わんとしていること。
「世界/宇宙」を真摯に見つめようとする魂に「光」が宿るのは、そういうまなざしを抱こうと願う人間にしかわからない真実でしょう。
あなたはこんな地味で長いブログを最後まで読んでくださっているわけですから、生涯をかけてこのような生き方ができるよう、お互い魂を深めていきたいものですね。
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