- 神社に参拝するのは良いことだが、それ以上に大事なのは普段の生活の中で祈りを習慣にすること。
- 神仏の力を本当に活かせるのは、「願いは自分で努力で叶える」という主体性を持っている人。
- スピ系の記事で紹介されているパワースポットは、由緒ある神社を除き、実はあまりパワーがない。
目次
神社にたまに参拝するより、自宅の神棚や仏壇に祈願する方が効果が高い
スピリチュアルカウンセラーの林 昭裕です。
【マジスピ】(真のスピリチュアル・脱お花畑スピリチュアル)をテーマに情報発信しています。
私はスピリチュアルが仕事のくせに、あまり神社に参拝しません。
もちろん神社は好きです。
学び始めの頃は割と参拝していましたし、1日かけてある県の「一の宮神社めぐり」をしたこともあります。
実際、良い神社は「パワースポット」と言われる通り、やはり「波動」が違いますから。
その神社におられる「神様の波動」と交流させていただけるのは、とても有り難いことです。
でも、いつの頃からか、本当に大切なのは参拝すること "ではない" と考えるようになったのです。
聞けば当たり前のことかもしれませんが、神社に参拝するときだけ敬虔な気持ちになるのではなく、普段からその気持ちを抱くことの方がはるかに大事です。
神仏がおられるのは、神社仏閣だけではありません。
自分の内側にも、神仏はおられる。
もしあなたの内側に神仏がおられなければ、こういうブログは読まないはず。
目に見えるものより「目に見えないもの」が大事だと思える感性は、神仏や宇宙から来るのです。
けれども、ついつい日々の生活に流されて、「目に見えないもの」を忘れがちになってしまう。
だからこそ、スピリチュアル的あるいは宗教的には、祈りや瞑想などを習慣にすることが大事なのです。
神棚でも仏壇でも良いので、祈りを向ける場を自宅の中に持っておくことを強くオススメします。
「自宅をパワースポットにする方法」については、以下のページにまとめてあるので参考にしてください。
神棚についても紹介していますよ。
神社という場が本当に好きであれば、足しげく参拝するのも良いと思います。
ただ、多くの人は日々忙しい生活を送っているでしょうから、やはり自宅に「祈りを向ける場」があることがスピリチュアルな生き方の基盤になるでしょう。
私は神社にはあまり参拝しなくなりましたが、自宅では祈りや瞑想の習慣を持っています。
普段はこれで十分だと思っています。
なお、祈りについてよくわからなければ、個人的に『世界平和の祈り』をオススメしています。
ご興味あれば一連のブログをご覧ください。
神社において「祈願する力」というのは、普段の生活の中でいわば「祈りの基礎体力」を鍛えているかどうかで決まります。
普段から祈っていない人が気まぐれで神社で祈願したところで、それほど効果はないでしょう。
もちろんやらないよりはマシでしょうけど、こういうブログを読んでいるあなたなら真摯に取り組んでいただきたい。
神社だけで祈るのではなく、普段から「祈りの生活」を送ることこそ、真のスピリチュアル(マジスピ)なのです。
神社参拝の目的は「神恩感謝」と「心願成就」以外にはない
年末が近づくと、女性誌を中心に「パワースポット特集」が組まれますね。
そこでは「恋愛運」とか「金運」とか「仕事運」とか、それぞれに願望に応じて「この神社がオススメ!」と書かれています。
例えば、恋愛(縁結び)なら「東京大神宮」というように。
ただし、もちろん東京大神宮に参拝する "だけ" で良いわけがない。
私は人の波動(オーラ)を観るのが仕事ということもあり、神社の本殿で拝んでいる人たちがどんな想念で祈願しているのか観るときがあります。
多くの参拝客で混み合っていて、参拝の順番待ちをしているときは時間があるので、前の方で参拝している人たちの波動をふと眺める。
すると、あまり本気で祈っていない人もいます。
本当に恋人が欲しいのかな?
本当に良い縁を引き寄せたいのかな?
「できればチャンスがあるといいなぁ」としか思ってないのかな?
よく言われることですが、神社に参拝するのは、原則は「神仏に感謝を捧げるため」です。
それ以外の「商売繁盛」「家内安全」「学業成就」というのは、基本的には「欲望」と思った方が良い。
「恋人が欲しい」とか「人脈が欲しい」とかいうのも、欲望ですよね。
そういう欲望のまま神社で祈願しても、あまり意味はありません。
身もフタもないことを言えば、「志望校に受かりたければ、受かる学力になるまで勉強しろ」ということです(笑)
こう言うと「そんなの当たり前だろ!」と怒る人がいるのですけど、その怒りの根底には「依存心」があるのでしょうね。
良い縁が欲しけりゃ、自分を磨く努力、いろんな人と出会う努力をすること。
神社だけ参拝していても、あまり意味がない。
ただし「その努力ができるよう神社に祈願する」なら、主体は自分だからアリです。
本当に祈願を向けるのは、神仏ではなく自分自身なのです。
だから、その「誓いの場」として神社を利用させていただくのは真っ当なあり方です。
・・・こういうことを言われると、つまらないでしょうか?
でも、本当に「神社を通じて願いを叶える人」というのは、こういう主体性を持っている人です。
私が知っている経営者の方は、自分の志を事業にするため、縁のある神社に1年間、毎日参拝されたそうです。
自分の志が本当に確かなものかどうか、そこに野心や欲望はないかどうか自分で厳密に検討するため、雨の日も風の日も大雪の日も参拝された。
体調が悪い日も、悪天候やトラブルで交通機関が使えない日も、例外なく参拝された。
1年間続けて参拝された後、「この自分の志は間違いない」と確信して起業された。
この方は上記の通り、もちろん神仏へ祈願されたのもあるでしょうけど、それ以上に自分自身に祈願されていたのではないでしょうか。
神社という清浄な場で、神仏に対し恥じない思いを持っているかどうか確かめる。
神仏に対し恥じない思いを持っているからこそ、それは神仏に届くのです。
それが「志」や「誠」、あるいは「心願」と言われるもの。
神仏の波動と同調するには、個人的な欲望や野心を排した「純真な願い」「心願成就の祈り」が求められます。
そういった願いがあれば、ことさら神社に参拝しまくる必要はない。
こう述べると、真のスピリチュアル(マジスピ)としての神社の使い方がお分かりになると思います。
まぁ、上の経営者のような「面倒な参拝」をする人はめったにいないでしょう。
私もここまで徹底する必要はないと思います。
ただ、少なくとも神社で「欲望」や「野望」を祈願することはありません。
「生かされていること」に感謝し、自分に与えられた「宇宙的使命」に死ぬまで挑むことができるよう願うだけです。
とはいえ、現代人の多くは「インスタント」な開運を求めますね。
スピリチュアル系のインフルエンサーが「この神社はスゴい!」なんて言ってしまうと、それを多くの人が信じて参拝してしまうことはよくあります。
でも、そんな「スゴい神社」とやらの波動を私が観ると「伊勢」や「出雲」などの超有名神社は別として、実はそんな大したことはありません。
「あそこの金運神社がすごくご利益があるらしい!」なんてウワサをネットで拾って向かったその神社は、すでに欲深い人々の重たいエゴの波動によって、とっくに穢(けが)されてますって。
そんな「パワーダウンスポット」としての神社を有り難かって参拝しているのだから、滑稽ですね。
こんなことを言いながらも、私は本当は「ガチの金運神社」を知っています。
でも、こういう一般公開の場では紹介しませんし、ネットや雑誌に取り上げられることもない。
それは自分で運命を拓こうとする気概のある人にしか縁がない神社なのです。
一般的な雑誌で紹介される「金運神社」は、すでにそのパワーを失っていると思った方がいいですよ。
ということを考えれば、ご利益を得るための神社参拝ではなく、神仏の波動とより同調するための「志」「誠」「心願」を養っていった方が良いのです。
このウェブサイトのたくさんの記事をご参考に、ご一緒に学んでいけたらと思います。