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第342回:魂の成長のためにこそ”この世の成功”を本気で祈れ【スピに逃げるな】

※ウェブサイト『マジスピ』には音声の文字起こし(読みやすく加筆修正済)があります。

■YouTubeではメモ、資料、スライドなどを映していますが、音声プラットフォームの「ながら聞き」でも十分ご理解いただけると思います。

ウェブサイトでは最下部に音声プレーヤーがあります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。

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今回の要点と要約文

今回の要点

  • 祈りとは半径5メートルの幸せを願う"小さなエゴ"ではなく、「魂の無限成長」と「大きな社会貢献」を熱烈に求める"大きなエゴ"のこと。
  • 達成可能な欲望はイメージできるが、「未知の未来」や「崇高な理想」はイメージできない。理性の限界を知ると、未来を純真に意志する祈りの世界へ入っていく。
  • 魂の成長を本気で祈ればこそ、この世の成功を追求せよ。もちろん贅沢をするためではない。祈りに逃げず、現実と真正面から闘うのが真の祈りである。

※要点は以下のショート動画でも語っています

今回の要約文

今回は従来の「自己啓発」や「引き寄せ」と、「真のスピリチュアル」との統合を考えてみました。

まず、現代の宗教やスピリチュアルの大半は「現世利益」を得るための "幸福マニュアル" みたいな内容に堕しています。

そもそも無常である「物質」の中に幸福はないはずなんですが、「信者ビジネス」として「お客様の(エゴの)ニーズ」に応えるため、本質からどんどん外れていくわけです。

一方、「真のスピリチュアル」においては【魂の成長】を最大の価値とし、その実践として "泥臭い社会貢献" に向かう。

その実践を支える原動力を生むのが「祈り」なのですが、ここが一知半解だと、現実から逃避するために宗教やスピリチュアルの知識を利用するわけです。

これは宗教やスピリチュアルの指導者にも問題があるのですが、とにかく祈ってさえいればいい、瞑想しさえすればいい、良い言霊を実践してさえすればいい、と極めて単純化して教えを説く傾向にある。

でも、そういうのは死んで(肉体離脱して)からやればいいことであって、物質世界に生きているのであれば、本来はこの現実に正面から向き合うための教えでなければなりません。

現実逃避のスピリチュアルは、決して波動(オーラ)を良いものにしない。

スピってるフリ、祈っているフリをして、波動がショボい人を何人も見てきました。

たいてい宗教やスピリチュアルに関心を持つ人は「いい人」が多いわけですが、そういう人こそエゴ的な野望をゴリゴリ持っている人以上に、【聖なる野心】を燦然と燃やさなければならない。

この世界は強欲的な野心の持ち主たちが権力を握る構造になっていて、「いい人」であるほど搾取される傾向がある。

世界は格差がさらに拡大しているわけですが、これが良いはずがない。

本当は人柄が良くて、社会に貢献したいという志を持っている人こそ、大きな社会的影響力を持たなければならない。

そのための大きな力を得るために「祈り」があるわけです。

たとえ現実としては悪戦苦闘の連続であっても、心の世界だけは崇高な「見果てぬ夢」を求めなければなりません。

そうでなければ、本当に生きている意味を感じることはできません。

これまで何回かにわたって自己啓発・成功哲学について述べてきました。

これらの基本構造は、エゴイズムの「自己実現」を助長するものです(だから売れる)。

しかし、これを「真のスピリチュアル」から新しく解釈すれば、私たちは魂の成長のためにこそ、この世の成功を本気で求めていくことです。

「愛」だ「光」だ「感謝」だと美しく唱えるのは結構だが、その上で現実と格闘し、物質的な豊かさも獲得してこそ、「リアリズムの霊的実践」だと言えるでしょう。

本当は、目の前の現実の壁を超える力を得るためにこそ、私たちは祈るんです。

それは泥臭いもので、決してキレイゴトではない。

悟りの象徴である「蓮の華」は泥の中から咲くように、私たちは積極的に主体的にこの薄汚れた世界に突っ込んでいかなければならないと思います。

そのための宗教であり、スピリチュアルではないでしょうか。

要点・要約文を読んで、あとは動画でご覧になりたければ以下からどうぞ。


祈りとは「魂の無限成長」を求める熱烈なる願望のこと

今回も前回に続き、自己啓発・成功哲学を「真のスピリチュアル」の視点から考えていきます。

ではまずAIで作成したスライドの1枚目ですね。

「祈りの解体と再構築」とAIは書いてくれました。

サブタイトルの「聖なる野心」という言葉は最近の配信でよく使ってますが、今回はこれがキーワードです。

では2枚目と3枚目。

これは前回の復習ですが、祈りには〈お願い型〉と〈断定型〉の2つあると言いました。

この2つは対立する考え方ではなく、統合し融合し、螺旋的に発展・成熟を遂げていきます。

詳しくは前回をチェックしてください。

〈人事を尽くして天命を待つ〉の「人事を尽くす」部分は自力であり、「天命を待つ」部分が他力です。

この矛盾する2つの力を、同時に抱きしめること。

「必ず実現する!」強く信じながらも、「結果は天にゆだねる」という覚悟。

この「信」こそ魂の力に他ならない。

この現実世界は矛盾でできています。

例えば、会社は利益だけを求めれば道義が失われてしまうが、しかし道義に頑なになれば利益は得られない。

愛がなければ人の心は荒んでしまうが、しかし行き過ぎた愛は人の心をかえってダメにしてしまう。

誰しも幸福を願い不幸を避けたがるが、しかし不幸があってこそ初めてわかる幸福がある。

これらの矛盾を切り捨ててしまうと、人間の生きる力は弱くなってしまう。

ある文学者は「割り切りとは、魂の弱さである」と言いました。

決して割り切ることなく、忍耐強く矛盾を抱え続けることが、魂の鍛錬なんです。

ちょっとずつ本題に入っていきます。

このスライドにある「"半径5メートルの幸福" を求める祈り」とは、

・自分さえ良ければいい

・自分の家族さえ良ければいい

・自分の仕事のポジションさえ良ければいい

などです。

これは決して祈りではなく欲望であり、「小さなエゴによる小さな祈り」であると、ハッキリ断定した方が良い。

伝統・新興を問わず、現代の宗教団体の多くはこの「半径5メートルの幸福」いわば「現世利益」というのを推奨しています。

エゴイズムに犯された現代においては、そう宣伝しないと信者がなかなか集まらないからです。

以前、縁あってあるお坊さんのお話を聞いてきたんですけども、言っていることの大半は現世利益でした。

ガッカリしましたよ。

「いかにして自分が幸せになるか」「こうしたらご利益がある、守られる」ということしか言わない。

数回前の配信で『ダライ・ラマの仏教入門』を解説した時にも言いましたけども、何よりも大切な「布施」や「奉仕」については語らない。

「この坊さん、何やねん・・・(アホなん?)」と思いながら聞いてましたよ。

このように常日頃から「自分だけの小さな幸福をゲットしようぜ」なんて言っているから、この人の波動(オーラ)もまた小さいわけです。

初対面でまさか「あなたのオーラ、めっちゃ小さいですよ(アホなん?)」なんて言いませんでしたけど(笑)

「半径5メートル以内の小さなエゴ」で生きてりゃ、波動・オーラが小さくなるのは当たり前のことだと思いませんか?

別に難しいことじゃない。

もちろんこれは「真の幸福」ではないのですが、こんな簡単なこともわからなくなっている時代だということです。

次のスライドでは「祈りの構造」について説明しています。

「縦軸の祈り」とは垂直の方向、つまり神仏・宇宙に対する祈りです。

自分を超えた大生命に、小生命である自分をゆだねること。

大生命にゆだねるには強い決心が必要ですから、前々回に述べた通り「他力本願」は決して弱々しいものではなく、むしろ最も強いものなんです。

ですから小さなエゴによる「半径5メートルの祈り」とは、そもそも祈りに値しないことがここでもわかりますんr。

そして、次に「横軸の祈り」とは水平の方向、さっき述べた「布施」や「奉仕」、社会貢献をすること。

これが祈りの具体的・現実的な実践です。

この縦軸と横軸の祈りを十字交差させることが大事です。

縦軸の祈りはよくやっていても横軸としての社会貢献が欠けていれば、山奥で瞑想に明け暮れるヨガの聖者などは例外として、この現代社会においては不調和になります。

親が資産家でもない限り、瞑想ばかりしてまともに働かないと生活に行き詰まるのは目に見えています。

これは後でも言いますが、こういうのは「現実逃避として祈りを利用しているエゴイスト」だとハッキリ言いますよ。

こういう人は、いくら祈っても霊的な成長はありません。

かえって「オレは真理をわかってるぜ」と、めっちゃウザいヤツになります。

次のスライドはなかなかインパクトがありますね。

従来の自己啓発・成功哲学にありがちな「自分の幸せだけを追求する」というエゴは、やはり波動としては小さいわけです。

ただし、生まれつき野心が強い人、大きな欠乏感を抱えている人は、エゴをゴリゴリ燃やせる人もいるわけです。

そういった人は他人を押しのけてでも、手段を選ばず成功を追求していきます。

宗教やスピリチュアルに関心を持つ人はいわゆる「いい人」が多く、そういう人はこんな野心家にはなれません。

しかし、そんな私たちが本当に真剣に祈るなら、本当は野心をゴリゴリ燃やす人間以上に「聖なる野心」を光明燦然と燃やしていかなければならないんです。

 

「大いなるいのち」にゆだねる祈りを真剣に行ずるなら、私たちは大生命から「大きなエネルギー」を受け取ることができるからです。

 

己一匹の社会的成功のみを目論む野心家より、「自分は本当に世のため人のために役立てる人間になるのだ!」と、布施や奉仕への情熱が湧き上がってこなければ、〈祈りが足りない〉か〈半径5メートルの祈りをしているエゴイスト〉と思ってください。

この物質世界は「悪の力」が強いですね。

政治や経済の世界を見たらすぐにかりますけども、たいていはエゴの強い人間が権力構造の上部にいます。

現代のグローバリズム社会というのは、ゴリゴリ野心を燃やした一握りの人間が多数の庶民を搾取しているわけです。

日本はまだマシですけども、世界では格差社会がさらに広がっている。

この物質世界のエゴの文化に最適化できる人間は、社会的立場が上になりがちです。

心がキレイで優しい人間は、あまり声を大きく張り上げることができないから、そんな連中の下に組み敷かれてしまう傾向にある。

・・・そんなんじゃ世の中は良くならんわけです。

本当に心がキレイで、世のため人のため真剣に生きたいと願っている素晴らしい人こそ、本当は野心をゴリゴリ燃やす輩よりも、大きなエネルギーを持たなければならないんです。

社会貢献にこそ、不動明王の如く野心をメラメラ燃やさなければならない。

それが「聖なる野心」であり、そのための祈りなんですよ。

小さくまとまっちゃいけませんぜ、ということを今回は言いたいわけです。

「思考は現実化する」の限界を知ると、高次元世界への扉が開かれる

ここからは、他ではあまり聞いたことのない話かもしれません。

従来の成功哲学・自己啓発・スピ系の引き寄せでは「願望をイメージしなさい」とよく言われるし、日常でも「想像力の大切さ」はよく言われていることですね。

ただし、実はイメージができる内容とは「物質レベル」のものなんです。

具体的にイメージできるものは、3次元世界においてすでに体験・経験のある事柄なんですよ。

逆に言うと、これまで体験したことのないものや、この3次元の物質世界を超えたレベルの物事は、具体的にイメージすることができません。

たとえできたとしても、その断片や片鱗しか思い描くことはできないわけです。

(もちろん「人間の背中から翼が生えて空を飛べるようになる」という空想は可能ですが、これは既知の「人間」と「鳥類」を組み合わせたイメージです)

ここはとても大事なポイントです。

本当に崇高な願望、本当に崇高な祈りとは、まさに崇高であるがゆえに人間の想像/創造を超えている。

人間の次元を超えているがゆえに、イメージはできないんです。

それは仏教で言う「空」や、物理学の言う「真空」をイメージできないのと同じです。

物理次元の時空間を超えたものは、人間の分際ではイメージすることができないわけです。

妙なスライドが出てきましたね。

私が「物理次元を超えた世界はイメージできない」という着想のヒントにしたものの一つは、『歎異抄』なんですよ。

これは浄土真宗の開祖・親鸞聖人による書物であり、非常に薄い本ですけど内容は深淵です。

この『歎異抄』の第十章に、こんな言葉が書いてあるんですね。

「念仏には無義をもって義とす。不可称、不可説、不可思議のゆゑにと仰(おお)せ候(そうら)ひき。」

現代語訳では

「『他力の念仏においては、自力のはからいを交えないことを本義とします。なぜなら、他力の念仏とは、私たちのはからいを超えたものであり、言葉で説明することも、心で思い計ることもできないからです』と、親鸞聖人はおっしゃっています。」

浄土真宗でいうところの「絶対他力」というのは、言葉にすることもできなければ、説明することもできない、非常に不可思議なものである。

だから、自力を超えた世界、祈りの世界というのは、イメージすることができない。

ついでに言えば、それゆえに「念仏をすれば良くなる」とか「救われる」とかの期待すらも捨てて、ただ一念、阿弥陀如来の御力にゆだねるのだ。

「ゆだねる」のは全身全霊でぶつかっていくことであり、イメージではない。

この言葉に触れて、私は「物質次元を超えたものは、人間にはイメージできない」と思い知ったんです。

イメージはできないが、それを思う、念じる、祈ることはできるのだと。

次のスライドに行きます。

イメージはできないけれど、「意志」することはできる。

この意志の力を英語では「Will Power(ウィルパワー)」と言います。

【will】は「意志」という意味ですけど、同時に未来形の文章を作るときの助動詞としても使いますよね。

【will】とは「意志」であり「未来」だから、「意志する」とは「まだ見ぬ未来」「まだ到達できない未来」に想いを馳せることに他なりません。

これはイメージではないんです。

「まだ見ぬ未来」「まだ到達できない未来」の先に壮大な夢を意志すればするほど、その具体的な姿はイメージすることができません。

もちろん十年一日のごとく、今日も明日も明後日も明々後日も、のんべんだらりと生きるのならその先は容易にイメージできますよ。

でも、ここで言いたいのはそんな「凡庸な日常」のことではありません。

本当の夢とは、真の祈りとは、「見果てぬ夢(Infinite Dream)」をどこまでも思い描くことなんです。

例えばキリスト教で有名な「主の祈り」の一節である

「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」(神様の御心が天で行われるように、この地上でも行われるようにしてください)

というのがあります。

この「神様の御心」というのは具体的にどんなものなのか、人間は具体的にイメージすることができません。

「神の御業(みわざ)」は、往々にして人間の理性には「奇跡」に見える形として顕される。

違う表現をすれば、必ずしも人間に都合の良い形で示されるとは限らない。

それゆえに、あらかじめ人間が具体的にイメージすることはできません。

もちろんイメージしても良いですが、有限なる知性によるイメージは、かえって依存や執着の欲望が混入する懸念があるでしょう。

ですから最もシンプルなのは、ただ純真に素直に「ゆだねる」ということ。

これは前回、そして先ほどのセクションで復習した〈お願い型〉の祈りですね。

イメージは自力のはからいであり〈断定型〉の祈りですが、これには限界があることを改めておさらいしておきましょう。

イメージの限界を思い知ると、「未知なる未来」の幸せと繁栄を純粋に意志する「祈りの世界」に入っていきます。

かなり抽象度が高い話なので、具体例を出しましょう。

これは何十回か前のマジスピラジオで話したことがありますが、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)の有名なスピーチ「I Have a Dream」(1963年)です。

これはまさしく、「見果てぬ夢」を語っている具体例だと思います。

その有名な一節を一部読み上げましょう。

「私には夢がある。いつの日かこの国が立ち上がり、すべての人間は平等に創られているという真理を、本当の意味で生きるようになるという夢が」

さらにこう続きます。

「私には夢がある。いつの日かジョージア州の赤い丘の上で、かつての奴隷の子どもたちと奴隷所有者の子どもたちが、兄弟として同じテーブルにつくことができるという夢が」

これは当時の人種差別の撤廃を誓っています。

これだけでもかなり崇高な祈りですね。

「すべての人間は平等に創られているという真理を、本当の意味で生きるようになるという夢」は、当時から60年以上経った現在でも、全く達成できる見込みのないほど崇高です。

ところが、このスピーチの終盤はさらに抽象度が上がっていきます。

「私には夢がある。すべての谷が高くされ、すべての丘と山が低くされ、でこぼこしたところが平らになり、曲がった道がまっすぐになり、主の栄光が現れ、すべての人がそれを見るという夢が」

最初に語っていた差別撤廃を超え、キリスト教で言うところの「地上天国」の実現、「神の国」の到来、「キリストの再臨」を祈っています。

まさに先ほど述べた「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」の祈りそのものではないですか。

これこそ「見果てぬ夢」であり、人間の理性ではもうイメージできない。

ただその未来を意志し、未来の人類に託すことしかできない。

これが半径5メートルを遥かに超えた「真の祈り」なんです。

さらにキング牧師はこう続けます。

「この信念をもって、私たちは共に働き、共に祈り、共に闘い、共に刑務所に入り、共に自由のために立ち上がることができるのです」

これは「見果てぬ夢」に辿り着くための、地上での実践です。

この信念のためなら、私たちは刑務所に入ることすら辞さない。

これは殉教者になる決意であり、肉体の幸福を捨ててでも人類に奉仕せんとする祈りですね。

これが本当の祈りです。

キング牧師は銃弾に斃れ、本当に殉教者となられた。

彼の壮大なる夢は、彼の存命中には成就しなかった。

しかし、この夢に込められたスピリットは時代を超え、受け取る準備のできた器に受け継がれるだろう。

(私もその一員でありたい)

これこそ「真のスピリチュアル」としての、真実の祈りなんです。

厳しく聞こえるかもしれませんが、これ以外のことは、すべてエゴイズムに過ぎません。

「真の祈り」は現実と真正面から闘う力を与えてくれる

ただ、このような話を聞くと、「自分には無理だ⋯⋯」と思う人は多いでしょうね。

「崇高な祈り」はキング牧師やガンジーのような偉大な人物だからできるのであって、「自分みたいな凡人にはできないよ⋯⋯」と感じるかもしれません。

しかし、ここは「真のスピリチュアル」を実践する場です。

その立場から自戒を込めて言わせていただくと、それは生命をこの肉体に限定してしまっている制限的な思考なんです。

「この肉体がすべてだ」と思い込んでいる限り、人生の可能性は頭打ちです。

前にも言いましたけど、私たちは「祈られている存在」なんですよ。

私たちは「宇宙エネルギーの器」であり、その「通り道」に過ぎない。

「崇高な祈り」は、この私が行うのではありません。

私たちの背後に臨在する宇宙生命が、私たちを通じて祈るんです。

これを実感として掴み取るほど、私たちの現在の状況や才能に関係なく、崇高な祈りを抱けるようになります。

自分という「器」を通して、宇宙エネルギーをこの世に響かせること。

このスライドの器の絵の通り、宇宙を見上げ、天を信じて仰ぐほど(=信仰)、宇宙エネルギーが流入するようになります。

これが祈りなんですよ。

もし祈っているつもりだけど宇宙エネルギーとの交流・交感が得られないのなら、あなたがまだ本気でないか、「器」が雑念で詰まっているかのどちらかです。

漫然と祈るだけでは、先ほど述べた半径5メートルの幸福を求めるだけになってしまいます。

もしこれを読んで「自分は全然できていない⋯⋯」とショックを受けるなら、どうぞテキトーにごまかさず、真剣に苦しんでください。

「"神なるもの" を求める苦悩」や「真理を求める苦悩」を味わうことも、実は祈りであることを知らなければなりません。

今はまだ、崇高な祈りを抱けなくてもいい。

けれども、キング牧師やガンジーのような崇高な祈りは、本当は「誰でもやろうと決心すれば絶対できる」ということは、頭の片隅ではなく "脳天のド真ん中" に叩き込んでおいてください。

誰でも決意次第でできるということが、魂としての「真の平等」なんです。

もちろんこれは私にも問われていることであって、今も「崇高な祈り」を抱けないことに苦しんでいます。

そして・・・

いま述べたことを自覚した上で、私たちは物質的な成功をも求めていくことです。

なぜなら、あえて物質的成功を求めることは、「魂の成長」のための良質な手段だからです。

これはスピリチュアルや祈りを「現実逃避」の手段とせず、むしろ現実に突っ込んでいく原動力とするためです。

これが、さっき述べた「横軸の祈り」なんです。リアルでしょ?

「真のスピリチュアル」は従来のエゴ的な自己啓発や成功哲学をも包み込み、人間としての成功、魂としての真の成功を求めます。

そのために「物質的な成功ぐらい達成してやる!」ぐらいの気概が必要です。

もっとも「物質的な成功」とは言っても、何も「高収入を目指せ」と言っているんじゃないですよ。

物質的・経済的に不自由のない環境を作り上げ、精神的・霊的な成長に気兼ねなく立ち向かっていける環境を作れ、ということです。

ですから、たとえ収入はそれほどなかったとしても、それ以下の支出で十分豊かに生活できる工夫、および精神的なゆとりがあるなら、それは物質的・経済的にとても自由です。

(もしあなたが専業主婦や定年の方などで労働生産に従事していない方なら、ボランティアや趣味の発信など何か社会と接点を持つことをオススメします)

なぜこういうことを言うのか。

それは、中途半端に宗教やスピリチュアルを勉強してしまうと、

  • 「この世の富や成功はあの世には持っていけないから、そういうのを求めてもあまり意味がないよね」
  • 「生かされているだけで有り難いじゃないか」
  • 「喧騒的なこの世とは距離を置いて、静かに瞑想や祈りに明け暮れよう」

という考えに陥ってしまいがちだからです。

スピリチュアル的に言えば

  • 「"宇宙銀行" に預金しましょう。"天の蔵" に徳を積みましょう」
  • 「陰徳を積みましょう」

みたいな論理で、「物質的な成功」を一段下に見る立場を取りがちです。

それは私もスピリチュアル屋として、気持ちはわかりますよ。

でも、ハッキリ言いましょう。

そこに「負け惜しみ」はないか?

ホンネでは物質的にも豊かになりたいのに、この世で生きるのは苦手だし、人間関係も煩わしいから「宇宙銀行に預金しよう」という論理に逃げているんじゃないのか?

宇宙銀行に預金してもいいけど、この世の銀行口座もある程度の余裕があった方が良くない?

もちろん銀行口座がすっからかんでも、それを全く気にしないどころか感謝に満たされている精神性があるなら良いですが、そんな人はめったにいない。

ですから、肉体を持って生きている以上、「祈りの地上的実践」として自分に与えられている仕事を一生懸命やることです。

本気で祈りながら本気で仕事をすれば、肉体を本位とした多くの人間は「ラクしたい怠け者」なのだから、たいていの場合は地位や立場に恵まれますよ。

私は起業前に派遣社員として何社かで働きましたが、どこの職場でも正社員のお誘いを受けました。

それはおそらく、そういう評価を受けるほど頑張っていたからだと思います。

多くの人が「つまんねー」とか「だりぃー」とかボヤく、いわゆる「ブルシット・ジョブ」(クソどうでもいい仕事)であっても、もしあなたが「崇高な祈り」を抱いているなら、それすらも「天命の一環」として前向きに取り組むことができるはずです。

そして、そんな人は遅かれ早かれ「ブルシット・ジョブ」は卒業していけるはず。

これで「物質的成功を追窮せよ」と提案した意味がわかりましたか?

当然ながら、それは贅沢をするためでもなければ、うまいものを食うためでもない。

「魂の成長」のためにこそ、この世の成功を求めるんです。

しかも前半に述べた通り「野心ゴリゴリのエゴイズム野郎ども」以上に、溢れんばかりの情熱で求めていくんですよ。

自分だけが成功するんじゃない、もっと大きな本当の幸福を求め、もっと大きな社会の繁栄を願い、私たちは祈る。

これこそが、リアリズムとしての本当の祈りです。

「祈るだけ」の人は、それがもし「全身全霊の命がけ」であればいいんですけど、そうでなければ成長できません。

(「全身全霊の祈り」とは、ガチの行者レベルの修行だと思ってください)

前回「人事を尽くして天命を待つ」という言葉が出ましたが、人事を尽くさずに天命を待つだけの人、つまり「祈るだけ」の人は、戦争の準備だけして戦場に出ないのと同じです。

あるいは、受験勉強で立派な参考書だけを買い揃えて、まったく勉強しないのと同じです。

私は職業柄、人のオーラや波動を観てしまう人間なんですが、「祈るだけ」の人の波動は小さいです。

 

自分としては「自分は神様のために祈っている、世界平和のために祈っている」と優等生気分かもしれませんが、残念ながら実際の波動は "劣等生" であることが大半です。

 

「縦軸の祈り」と「横軸の祈り」が力強く十字交差してこそ真の祈りなんですが、「横軸」が欠けていれば実は「縦軸」も欠けているということです。

そうなるとオーラの表面だけはキレイに観えるんですが、もう少し奥まで観ていくと不調和な波動が散見されるんですよ。

けれども、表面はキレイなので自己満足に陥りやすい(周りからも「いい人」に見られるのでなおさら)。

これは半径5メートル以内の祈り(というか欲望)であることの証左です。

この物質世界を生きるということは、キレイゴトではありません。

私もフリーランスでスピリチュアル稼業をしていますが、お金をいただくのはキレイゴトでは務まらない。

肉体を持っている以上は、この薄汚れた世の中で泥やチリをかぶっていかなければなりません。

だからこそ、この世を超えた祈りや理想を抱き、「この世なんかどうでもいい」と思いながら、一方で「この世の成功」を求めていくんです。

冒頭で述べたように、この「矛盾」を生きるのが真のスピリチュアルです。

この世で地に足をつけて成功したければ、「人に喜ばれる存在」にならなければなりません。

それがまさに「魂を磨く」ということに他なりません。

繰り返しになりますが、だから一周回って「この世の成功を追窮せよ」と言っているんですよ。

ご理解いただけましたか?

現実と闘い、さらに現実を劈(つんざ)いて天に向かうために、私たちは祈るんです。

いつまでもスピ系の「癒し」や「浄化」なんてやらないでくださいよ。

今回のYouTubeのサムネの通り『癒しばかり求めるのは、卑しい根性』ですから。

早くそこから抜け出して、自分の「人生の戦場」へと向かわなければなりません。

たとえこの世的には「みじめな立場」であっても、心の世界だけはキング牧師やガンジーと同じ「崇高な祈り」を抱くのだと苦悩すること。

その闘いは、素晴らしい成長へつながるでしょう。

悟りの象徴である「蓮の華」は泥の中から咲くように、私たちはこの薄汚い世界から「自分の花」を咲かせなければ、本物ではない。

それが「真の霊的成長」だということです。

改めて、今回の要点

  • 祈りとは半径5メートルの幸せを願う"小さなエゴ"ではなく、「魂の無限成長」と「大きな社会貢献」を熱烈に求める"大きなエゴ"のこと。
  • 達成可能な欲望はイメージできるが、「未知の未来」や「崇高な理想」はイメージできない。理性の限界を知ると、未来を純真に意志する祈りの世界へ入っていく。
  • 魂の成長を本気で祈ればこそ、この世の成功を追求せよ。もちろん贅沢をするためではない。祈りに逃げず、現実と真正面から闘うのが真の祈りである。

なお、YouTube(Podcast)は今回の文字起こし編集でカットした部分があります。

今回も動画と文字起こしは少し内容が変わります。

なので動画(または音声)もご視聴いただけると、より理解が深まるかと思います。

※この下に「音声プレーヤー」があります。倍速再生も可能ですし、YouTubeより通信量も少ないし、スマホを画面オフにしても聴けるので便利です。

マジスピラジオ:脱・お花畑の「真のスピリチュアル実践」
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第342回:魂の成長のためにこそ"この世の成功"を本気で祈れ【スピに逃げるな】
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